大橋院長の為になるブログ

2022.07.28更新

石黒忠則(千八四三-一九四一) 

石黒忠典(1844-1941)の自伝を読んだ。医学者。日本の陸軍軍医制度の基礎を築いたのをはじめ、近代医学教育、看護婦養成など各方面に功績を残した。

福島県生まれ、本籍は新潟県。薩長土肥にかにも属さない明治官僚である。軍医森林太郎の上司である。

処理学とは、新たな文明を興すにあたって、その土台作りをする人のことだが、石黒忠典もそういうひとであった。かれも、幕末、奔走家であったらしい。

やがて江戸に出、世の要求が洋楽にあるとみて、下谷泉橋通りに逢った幕府の医学所に入学した。これこそ東京帝国大学の医学部の前身である。

医学生だった石具には、幕末のぎりぎりに、すでに医学所の句読師並になっていた。句読師というのは、漢文や欧州語の「読み方を教える人」ということで、のちの大学助手を想像すればよい。

その後1、幕府は崩壊する。石黒は江戸を逃れて米沢や越後を転々とし、明治二年、東京に戻った。既に和泉通の医学所は官軍に接収され、近所の藤堂藩邸がそっくり官軍の”大病院”になるというふうに激変していた。 「以前、ここにいた石黒です」やはり,旧知の人が多く、ウィリス(英国の医師で治療もし、講義もした。「アメリカの講義を紀聞せよ」と命じた。石黒は官僚にはいれた。

この明治二年の段階に大学から教育行政制度上の最高の役所であった。石黒はその役人になり、大学の建設設計図を作った。石黒の計画では、上野の山王台から鶯谷一帯に病院を建てて、立派な計画であった。以前の日本には公園というものがなく公演を強制だれた。本郷台地の低地に、不忍池がくぼんでいる。

日本の軍医界の功労者。陸奥国(むつのくに)伊達(だて)郡梁川(やながわ)(現、福島県伊達市)の平野家に生まれ、16歳で祖家石黒家を継いだ。1865年(慶応1)医学所に入り、西洋医学を修めた。明治維新後、大学東校に出仕、1870年(明治3)大学少助教となった。翌1871年、兵部省(ひょうぶしょう)軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、1874年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、1877年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。1888年軍医学校長、1890年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(にっしんせんそう)(1894~1895)では野戦衛生長官として、日露戦争(1904~1905)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。随筆その他著書もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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投稿者: 大橋医院

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