2016.11.17更新

<青いカナリア>
大橋医院 院長 大橋信昭
(この物語はフィクションであり事実と異なるものです。)

 私がこの愛くるしい青いカナリアを見たのは、この街の北西の外れで、踏切を超え道が行き止まりになっており、その西側に5件の長屋があり、最初に見ることができる1件目の家の土間に鳥かごがあり、その狭い空間で羽を伸ばし水浴びしていたのだった。
その家の娘さんたち二人は遠くへ嫁いでおり、ご夫婦二人きりであったが、とても仲がよく、愛情に溢れており、その愛はこの青いカナリアにも注がれた。
何処へ行くにもこのご夫婦は手をつなぎ、一緒に行動をし、青いカナリアも幸せであった。二人はもう80歳代後半の老夫婦であったが、私がこの二人のご病気がなければ、青いカナリアの笑顔も見ることができなかったであろう。しかし、青いカナリアが悲しそうになることが起きたのである。まず、ご主人の糖尿病が十分コントロールされていたにもかかわらず、腎不全が進行し、私と専門医と悪戦苦闘したが、改善しなかった。私が往診に呼ばれたのは、ご主人は意識混濁をきたしており、救急車を呼び中核病院へ搬送したのであった。青いカナリアは羽をばたつかせ、悲しそうであった。
 私は、奥さん一人では暮らせないから今後の生活をどうしていくか、遠方に住んでいる娘さん二人に電話連絡を取った。そして、青いカナリアを悲しませることが急に起きたのである。奥さんは急激な認知症となり、その原因が鼻腔腫瘍であることが分かり、その腫瘍は全身転移しており、余命僅かであることがわかったのである。駆けつけた娘さん二人とケアマネージャーと相談し、いずれは嫁ぎ先の東京の病院へ転居させるが、それまで私が嘱託医をしている特別養護老人ホームのショートステイに預かってもらうことになったのである。
もちろん、青いカナリアは置いてきぼりにはしない。特別養護老人ホームの、みんなが集まる広場に置かれ、優しいスタッフが交互に餌を含めて、面倒を見ることになったのである。愛くるしい青いカナリアは、スタッフだけでなくご利用者のおじいさんやおばあさんのマスコットとなり可愛がられた。
 青いカナリアはあの住み慣れた長屋の一室からどうしてこんなに広い豪華な空間に移動したか、大勢の人が見つめ声をかけるのが理解できなかった。しかし、この青いカナリアは徐々に悲しい事実を娘さんたちから聞かされるのであった。
 私がご主人を中核病院へ見舞いに行った時はクスマウルの大呼吸で、延命期間が短いことを知り、翌日に娘さんに連宅を取ったらもう彼は昇天されていた。
皮肉にも、奥さんは認知症であり、東京の病院のターミナルケアの引越し先が決まったので、ご主人の葬儀、荼毘などの様子は、奥さんと青いカナリアには内緒にすることになった。青いカナリアが元気ないことはみんなも気がついた。不思議だ。御主人の死は内緒である。奥さんの病状も悪化し、腫瘍は増大し、認知は計り知れないものであった。私は、知り合いの東京の病院を探し回り、手紙を書きまくった。何とか、今までの事情を理解し、ターミナルをお願いしたいと懇願した。OO病院からOKの返事が帰ってきて、娘さんは奥さんを東京の病院へ搬送した。奥さんは認知のせいか、青いカナリアを一目見て、不思議そうな顔をして去っていった。青いカナリアは悲しそうに見送った。
 東京での奥さんの死亡通知は数日後であった。ご主人も奥さんも一度に両方亡くしたことを知った青いカナリアは羽をばたつかせ悲しみもひどく餌も食べなく、下を向いて、悲しそうであった。
 しかし、特別養護老人ホームのスタッフは優しかった。このカナリアを当苑のマスコットとして一番大きな広間で、みんなが一番集まるところへ住まわせ、
早く悲しみを忘れさせようと、可愛がったのである。

 数日が過ぎ、青いカナリアはその施設で「ピーコちゃん」と呼ばれていた。
みんなが大切にするものだから、すっかり施設に適応していた。「もう悲しいことはないよ、ピーコちゃん、私たちがついているのよ。」
ピーコはとても嬉しそうであった。餌の食べも順調で、鳥かごの止まり木を飛び跳ねていた。いつまでも元気で、この施設にいて欲しい。
天国の飼い主のご夫婦も、喜んでいるであろう。
かなりあ

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<青いカナリア>
大橋医院 院長 大橋信昭
(この物語はフィクションであり事実と異なるものです。)

 私がこの愛くるしい青いカナリアを見たのは、この街の北西の外れで、踏切を超え道が行き止まりになっており、その西側に5件の長屋があり、最初に見ることができる1件目の家の土間に鳥かごがあり、その狭い空間で羽を伸ばし水浴びしていたのだった。
その家の娘さんたち二人は遠くへ嫁いでおり、ご夫婦二人きりであったが、とても仲がよく、愛情に溢れており、その愛はこの青いカナリアにも注がれた。
何処へ行くにもこのご夫婦は手をつなぎ、一緒に行動をし、青いカナリアも幸せであった。二人はもう80歳代後半の老夫婦であったが、私がこの二人のご病気がなければ、青いカナリアの笑顔も見ることができなかったであろう。しかし、青いカナリアが悲しそうになることが起きたのである。まず、ご主人の糖尿病が十分コントロールされていたにもかかわらず、腎不全が進行し、私と専門医と悪戦苦闘したが、改善しなかった。私が往診に呼ばれたのは、ご主人は意識混濁をきたしており、救急車を呼び中核病院へ搬送したのであった。青いカナリアは羽をばたつかせ、悲しそうであった。
 私は、奥さん一人では暮らせないから今後の生活をどうしていくか、遠方に住んでいる娘さん二人に電話連絡を取った。そして、青いカナリアを悲しませることが急に起きたのである。奥さんは急激な認知症となり、その原因が鼻腔腫瘍であることが分かり、その腫瘍は全身転移しており、余命僅かであることがわかったのである。駆けつけた娘さん二人とケアマネージャーと相談し、いずれは嫁ぎ先の東京の病院へ転居させるが、それまで私が嘱託医をしている特別養護老人ホームのショートステイに預かってもらうことになったのである。
もちろん、青いカナリアは置いてきぼりにはしない。特別養護老人ホームの、みんなが集まる広場に置かれ、優しいスタッフが交互に餌を含めて、面倒を見ることになったのである。愛くるしい青いカナリアは、スタッフだけでなくご利用者のおじいさんやおばあさんのマスコットとなり可愛がられた。
 青いカナリアはあの住み慣れた長屋の一室からどうしてこんなに広い豪華な空間に移動したか、大勢の人が見つめ声をかけるのが理解できなかった。しかし、この青いカナリアは徐々に悲しい事実を娘さんたちから聞かされるのであった。
 私がご主人を中核病院へ見舞いに行った時はクスマウルの大呼吸で、延命期間が短いことを知り、翌日に娘さんに連宅を取ったらもう彼は昇天されていた。
皮肉にも、奥さんは認知症であり、東京の病院のターミナルケアの引越し先が決まったので、ご主人の葬儀、荼毘などの様子は、奥さんと青いカナリアには内緒にすることになった。青いカナリアが元気ないことはみんなも気がついた。不思議だ。御主人の死は内緒である。奥さんの病状も悪化し、腫瘍は増大し、認知は計り知れないものであった。私は、知り合いの東京の病院を探し回り、手紙を書きまくった。何とか、今までの事情を理解し、ターミナルをお願いしたいと懇願した。OO病院からOKの返事が帰ってきて、娘さんは奥さんを東京の病院へ搬送した。奥さんは認知のせいか、青いカナリアを一目見て、不思議そうな顔をして去っていった。青いカナリアは悲しそうに見送った。
 東京での奥さんの死亡通知は数日後であった。ご主人も奥さんも一度に両方亡くしたことを知った青いカナリアは羽をばたつかせ悲しみもひどく餌も食べなく、下を向いて、悲しそうであった。
 しかし、特別養護老人ホームのスタッフは優しかった。このカナリアを当苑のマスコットとして一番大きな広間で、みんなが一番集まるところへ住まわせ、
早く悲しみを忘れさせようと、可愛がったのである。

 数日が過ぎ、青いカナリアはその施設で「ピーコちゃん」と呼ばれていた。
みんなが大切にするものだから、すっかり施設に適応していた。「もう悲しいことはないよ、ピーコちゃん、私たちがついているのよ。」
ピーコはとても嬉しそうであった。餌の食べも順調で、鳥かごの止まり木を飛び跳ねていた。いつまでも元気で、この施設にいて欲しい。
天国の飼い主のご夫婦も、喜んでいるであろう。
かなりあ

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

寿命

<ご寿命>
大橋医院 院長 大橋信昭

 生まれた限り、人間という生命体はいつかに個体に変化せねばいけない。私は、この他界に関する部分の仕事が加速度的に増えた。難しい仕事である。
 人間は他の動物と同様、死にたくはない。しかし、病気知らずのまま百歳を迎えても、101歳になる老婆は死に怯えている。101歳になった老婆が食べられなくなり、何らかの疾患に罹患すると、家族は大騒ぎである。胃瘻はどうするか、点滴はしてもらいたいだの、人工呼吸器の設置やペースメーカーまで話し合わねばならない。私は自然死、在宅ホスピス、施設での看取りをできるだけ勧める。
 老いたる体が急に心不全になろうが、肺炎になろうが、脳梗塞になろうが、家族を納得させるためには、中核病院と連絡を取り、救急搬送し、治療してもらわねばいけない。すぐに退院するが、また再発する。再発を繰り返すうちに、
電解質もアルブミンも腎機能も心機能も低下し、治療に反応しなくなる。長い寝たきり生活で、すっかり廃用症候群となる。すべての生活に全介助を要しさらに認知症も加わり、自分の子供の正体もあやしくなる。
 ベットの上でおむつをして、大便も小便も処理して綺麗にしてもらっても、赤ん坊と違って、介護される人も介護する人も気の毒である。そのうち尿道バルーンが入る、強行派の家族は積極的に胃瘻を懇願する。胃瘻など入れたら、その患者は将来地獄のような生活が待っているが、家族の意見は強い。本人は自己主張できないほど退行変性が進んでいる。不本意ながら胃瘻を入れる。
 最近、悪性腫瘍を抱えながら、すべての治療を拒否する患者さんが増えている。確かに、悪性腫瘍を取り除いても、かなりの痛みに耐えねばならないし、化学療法、放射線量法などに至れば、拷問を受けるような苦痛が待っている。そんな酷い仕打ちを受けても100%は助からない。それなら、自宅で好きなことをして、私のような家庭医を呼んで緩和治療を最後まで望まれるのである。
救急車は呼ばないでくれ、苦痛は少しでも取ってくれ、と遺言まで書いてある。家族も合意である。やがて食料はおろか水分も受け付けなくなる。そうすると、体のバランスが崩れ、意識レベルは低下し、血圧も下がり、呼吸回数も下がり、
昇天される。あんなに苦悶状のご様子が私に伝わってくるが、生命反応が停止すると仏様のように穏やかに眠っている。この過程に至るまで、家族のケアが大切である。私もこの家族の一員のように苦しまねばならない。死亡診断書を書いて荼毘され、告別式がすんで数日後、家族は当院へ感謝を述べに来る。
 胃瘻など入っていたり、点滴など無理やり体に押し込むと、延命期間は伸びるが、苦しい期間も伸びるだけある。胃瘻を入れて3年もすると、人間の体とはおもえない退行変性が見られる。呼びかけても反応せずに、褥瘡に要注意せねばならず、できたらなかなか治らない。形成外科に相談して無理に皮膚を移植してもらっても、大量の医療費の損失のような気がする。胃瘻患者はあらゆる合併症を起こす。肺炎、心不全、異物が入っているからよく発熱する。日和見的な感染症を受けやすい。時々ものが言えない人が死にたいと発言することがある。私の錯覚かもしれない。
 患者さんのご家族に申し上げたい。人間はいつか昇天するのである。寝込んだ自分の両親がどれだけの医療と不自然な延命期間があれば、ご家族は納得されるのであろうか。我々、医療チームが血と汗を流しヘトヘトの姿を見せるとご満足願えるのか?
 人の寿命は今、どうなっているのか?私が医学部を昭和54年に卒業したときは、患者さんが60歳を超えると、もう年齢も年齢ですからと、超高齢者のような話をした。私も今年に60歳になるが、もう少し長生きしたい。今、80歳は元気でトレーニングジムへ行き、90歳は静かな生活だが、元気でその人数は数えられないことはないがたくさん活躍していらっしゃる。100歳以上もうなぎのぼりだ。もうここまでという寿命はなくなった。医療従事者は年齢を理由に、治療を削減してはいけない。90歳も100歳も、20歳を超えた若者と、治療を変えてはいけない。家族の医療知識は膨らむし、治療技術の進歩は無限で医療費は膨大に膨らむ。裁判はすぐにそこに控えているし、我々医療従事者は、よほど精神と肉体を鍛錬しないと、寝たきりになるであろう。

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

hige院長婦人には髭がある 大橋信昭

<院長夫人には髭がある>
大橋医院 院長 大橋信昭

 院長夫人とは私の妻のことである。妻とは昔、夫の後ろから歩き、影を踏まず、決してでしゃばらずに、影から夫を支える、影から夫を世に認めさせる、存在が理想であった。山ノ内一豊の妻を司馬遼太郎が「功名が辻」に書いている。すなわち、妻が優しく後ろからサポートを受けているうちに、いつの間にか夫が出世している夢のような話である。
 私の院長夫人は今、当院では、特に診療後も、益々権力を蓄積しつつあるようである。この権力の増大を私はいつも警戒していたが、今日に至って手遅れであった。
 新婚時代はしおらしくしていたが、子供が生まれ、開業し、両親が生存していた時代に、水面下で作戦を練っていたようである。悲しいことに、両親が佛になり、子供たちが社会人になり、当院には私と妻しかいない。ここで、妻の
独裁政権が花開いたのである。
 まず、当院の会計を全面的に握られたのである。これは、診療しながら細い金銭のやり取りを考えずに、医師として患者さんの話を集中的に聞けるわけだが、有難いのである。しかし、月日が経つと、当院の経営権を全面的に妻が支配したのである。子供の学費が大変だからと無給時代が長く続き、私もそれに慣れてしまったのである。従業員は給料を毎月貰いながら、どこの国の習慣が根付いたのか、ボーナスまでもらえるのである。もう、子供も社会人になったのだから、私はもう給料をもらってもいいはずである。しかし、その話題になると、はぐらかせられるのである。今や、子供の給料からお小遣いを期待するざまである。
 そして、恐ろしいことに、妻は、私のスケジュールを全部把握しているのである。「あなた!今度の日曜日は、何もないでしょう!私を実家に連れて行って!」いつの間に、院長から運転手に格下げになったのであろう。私の飲み会、学会、勉強会、仕事のスケジュールを全て把握されているのである。私はうかつにも、月の予定表を全てメモ帳に書いてあるものだから、いつの間にか見られているのである。
 そして私の神経をすり減らすのは、妻の買い物に付き合うことである。大量の食糧や日常必需品を購入し、長いウィンドウショッピングに時間が流れることである。彼女のスカーフ選びや、衣服鑑賞につき合うと、もう奴隷の気分である。私のスーツ一丁新品を期待するのだがそこは素通りである。
 私にとって、夜の晩酌は最高の楽しみである。ビールは冷蔵庫の一番奥に追いやられているから、やっと探し出し、一缶開けると、「今日はそれだけにしなさい!」と恐喝されるのである。妻のうたた寝が始まるまで、二缶以上は待たねばならない。この前、酔っ払いすぎて、オデコを柱にぶつけ、擦過傷を不覚にも作ってしまったが、妻の逆鱗に触れ、今やビールがどこに隠してあるか、分からないのである。妻がビールを持ってくるのをじっと待っている毎晩である。
 さて、当院の経営、業務規則についてである。私が様々なアイデアを出すが全て妻に却下される。妻の考えた診療所体制である。これではヒットラーに支配された異民族のようなものである。
 時間を問わず、往診に振り回されるが、その時だけは「気をつけてね」と声が幾分優しい。老人ホームの嘱託医としての回診後の帰宅の時は、何故か優しく、供給されるビールの量も多い。私が診療で疲労を深めるほど妻は優しい。
暇から退屈で、鼻毛を抜いていると妻は不機嫌である。
 ある時、妻は宣言した。「あなたが倒れても、おむつの世話はまっぴらだわ」
これには恐怖を受けた。いつまでも介護保険の世話にならずに自立状態でいなければいけない。運動を毎日し、食事に気をつけ、飲み過ぎに注意し、健康によほど気を付けないと介護施設に送還されるであろう。
 しかし、妻のお陰で、毎日診療を楽しくしている。ただ、言えることは
「院長夫人の顔には髭がある」

 

ひげ

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<平成28年1月30日午前2時(土曜日)  大橋信昭

平成28年1月30日午前2時(土曜日)

大橋信昭

 非常識な時間に文章を書き始めたことを、お詫びしたい。
実は新聞報告に刺激されたのである。久しぶりに本屋に出かけたのである。山本周五郎を読み返しており、本屋は縁遠いと思っていたのである。ところが私の新聞の2枚目の下段に、「石原慎太郎著:天才」という新刊が宣伝されていた。田中角栄の自伝である。今頃,何故、不仲であった石原慎太郎が「田中角栄」を書き始めたか興味があった。本屋に出かけたら、隣に村上春樹の「小説を書くとは」(不正確)が置いてあり、2冊購入してあり、今日明日との休日は楽しき時間を過ごせるはずである。さっそく帰宅し、この2冊に夢中になっていたら、横から女房が「今夜は実家で、食事会の約束であったでしょう!」と血相を変えた。「馬鹿門!俺は、昨年から死体検案、最近の感冒治療に疲労困憊であり,お前一人で行って来い!」すっかり意気消沈した妻は実家に出かけて行った。
 サー、いよいよ読書タイムである。コーヒーを飲みがら、まずは、田中角栄から読み始めた。バックミュージックは、パソコンのyoutubeから聞こえる“AKB 48 ビキニ」と検索する。私はここ2週間前からAKB48に夢中である。私の長女はもう30歳で、子供もいる。私からして孫もいるのである。次女は28歳、まだ独身であり、凶暴な性格の持ち主である。それより10年若い女性の48人(?)の集団である。これがビキニで波打ち際でくねくねおどったり、脱衣所で着替えをしたり、スタイル抜群、美女の集団である。それが汗をかいて踊りまくるものだから、やがて63歳の私は、ストレスを忘れ、鼻をのばし、唾液を垂れ天国である。この異常行動は家内にも、次女にもばれてしまった。階段を台所まで登るときに「I want you、I needs you、I love you」と鼻歌交じりに食卓に座ったのがきっかけであった。気味の悪い老人を見るごとく妻と次女は軽蔑した。
 このAKB48のビキニスタイルを半分のぞいて、音楽も聞き、角栄の人生を途中まで読んだ。彼の父は博労であり、牛をイギリスから取り寄せ、競馬に勝負する。勝てば天国、負ければ破産である。やはり破産生活を田中角栄は少年時代を送ったようである。小学校しか学ぶことができず、土方生活が待っていた。多くの女性問題も自慢であったが、彼特有の人望により、次第に社会に羽上がっていくのである。ものすごいスピードで国会の代議士になり、物おじしない姿勢を貫き、佐藤、池田、福田など当時の実力者は、相手にせずに、利用しているのである。やがて、渡米し、ニクソンと対談となる。彼は、日本のために通商問題を一歩も譲らず、机をたたいて、恐喝した。ニクソンは笑い出し「君のゴルフの腕前はどれぐらいだ?」「マスターズに今度出る」といったものだから、昼食会は、異例のニクソンの隣の席である。こんな調子で、佐藤栄作の4期総理大臣の時代も、角福戦争と世間では騒いだが、彼の策略は巧妙であり、福田、三木は屈辱をなめ、田名角栄総理大臣を鑑賞するのである。ここで小休止。
 私は、ここで購入してきたもう一冊の本「村上春樹の小説の書き方」なるものを読み始めた。彼特有の難解な文章であるが、小説とは定義があいまいであって、あんまり頭が切れる人には、向いてない職業であり、たとえば、たった一行の文章に3日もかけることもあれば、一日で数枚かけることもあり、時間の概念はなく,金銭の間隔はなく、非常識極まりない輩が多く、人と接するのを嫌い、閉じこもりが多く、小説が出来上がると、評論家に残酷な批判を打たれても気にもせず、芥川賞や、直木賞をもらっても、喜びもせず、ただひたすら書き続けて、何作品がヒットし、ドラマ化し、映画になり、しっかりお金が入ってこなければ、元の乞食に当然の生活に戻る職業である。小説で永遠に常識で幸福な生活を送った人はないらしい。
 私も、一時小説家にあこがれたが、そんなことをしていたらホームレスになっていたであろう。今日、午前中、感冒患者をたくさん診察し、ガソリンスタンドでハイオクを満タンにし、2冊の本とコーヒーで、書斎でゆっくりできるのも医師を本業としているからである。akb48はあいかわらず色っぽい。18歳から19歳くらいのスタイルのいい、美人の集団が更衣室で着替えだした。思わず私は、パソコンを中断した。これを実際女子の更衣室を覗き見すれば警察に捕まるのである。秋元康には降参だ。昭和50年代、夕焼けニャンニャンのおニャン子クラブの「ジャーネ」、トンネルズ,akb48,美空ひばりの「川の流れのように」、驚かされる男である。ここで一言、皆様に忠告しておく。「akb48は恋愛禁止」と秋元は言っているが、それは彼の策略である。あの芸能界に、あんな、女性をほっておく男性はいない。
 私もakb48のあのシャワー室の中に入れてもらえないかな?一緒に垢を流しましょ!フェロモン、女性の若くて,ぴちぴちした汗のにおいが鼻についてきた。たまらないな(完)

 

午前

投稿者: 大橋医院

2016.11.16更新

医師になり、医局に入ると怖い怖い教授のカバン持ちを、学会に行くときは新人が強制されることはよくある。私も例外ではなかった。「今日は、内科学会総会だ!君も学ぶことが多いであろう。」嫌と言おうものなら、ジャングルの猛獣の中に追いやられるようなものである。東京行きの新幹線の中、教授との会話は気をつけねばいけない。一回、頭の中で、咀嚼、整理して話さないととんでもない雷が落ちる。

DR.NO:「心臓カテーテル検査はたのしいですな、しかし、記録係はつまらないですね。」

教授:「馬鹿者!記録係もレントゲン撮影係も、患者の全身状態をテェツクしている者も大切なのだ!チームワークなのだぞ!」

 そんなに、怒らなくても退屈だから少し話しかけたのに、大変な剣幕で返事が返ってくる。凝んなときは文献でもカバンから取り出して、勉強している振りが一番である。そのうち三島を過ぎたあたりから、教授が居眠りを始めた。そっと、文献の代わりに”Playboy"の綺麗な女体を観察しているうちに私も眠くなった。私が寝ているのを確認した教授はそっと私の”Playboy"を取り出し、ニヤニヤしているのが分かった。いつも「眠る前には、文献を読め!」と口癖のように私たち新人に説教していたが、教授だって男には変わりは無い。学会場に着いて手続きをすませ、一緒に演題を聞く。「必ず、大切なところはメモをしなさい、それを重ねていくと、宝となるものだ。」教授の隣に座り、講義を聞くが新人の私には日本語で討論がなされていることがわかる程度である。私もメモ用紙に「ア-外に出たい、パチンコでもやりたい」と書いた。休憩時間に教授は私に言った。「今、大学では君の仲間は一生懸命仕事をしている、集中治療室では汗まみれに働いている仲間もいるのだ。そのおかげで、私たちは勉強させてもらっているのだ。」そこまで言われるとメモ用紙も真剣になってきた。講義が終わり、ホテルにチェックインである。一緒に夕食をとる。医師とはどうあるべきかの話ばかリである。たまたまインドカレー専門店での食事であったが汗まみれである。サー夕食が終わり、同じ部屋に泊まることになる。明日の発表の打ち合わせである。その後、バスを沸かし、先に教授に入ってもらう。

教授が出てから私もシャワーにする。ベッドで教授はもう高鼾だ。うるさくて隣では眠れない。睡眠薬があったので私も眠りに入った。悪夢にうなされつつ朝を迎えた。目が覚めたら、もう教授は背広を着ているところであった。「サー今日も勉強だぞ!発表もあるからな。」こんな24時間以上、教授と一緒ではかなわない。発表が終わり、仲間が来たらずらかろうと思った。今日も学会場の教授の隣に強制着席である。もう3日もこんな状態では私は気が狂うかもしれない。やっと、発表がおわり、仲間がやってきて、ほんの隙間を狙って外へ出た。空は青い、女性はきれいだ、ゲームセンターが近くにあった。一ゲームやって、ため息をつき学会場に戻った。「どこへ行っていたのだ?」と教授の眉と眉の間にしわが入った。「えー私は脈波に興味がありまして、PWVの講演会場にいました。」「うそをつけ!私はそこにいたのだ」大学へ帰ったら3倍のお説教であった.かばん持ちはつらいものだ。

 

けんしゅう

投稿者: 大橋医院

2016.11.15更新

<恋は禁物>大橋医院 大橋信昭

 医師になってはじめて、病棟の患者さんの主治医になったときのことは忘れがたいものがある。その患者さんは30歳前後の人妻であり、八千草薫の若いころのような人だった。心臓弁膜症である。詳しくは僧帽弁閉鎖不全である。24歳の私にとって、これは試練なのである。まず、医師であること、男の感情を捨てること、相手を女性として意識してはいけないのである。しかも、私は心臓の専門医を目指しているのだ。心音はしっかり聞かなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。そのそばにある、美しい乳房と乳首は意識してはいけないのだ。

 教授の質問は怖いし、鋭い。「どんな心雑音であったか?検査はしっかりしたのか?何を赤い顔をしているのだ!」分かっているし、そんなことは百も承知だ。それがどうも冷静になれないのだ。カルテには所見を書かねばならない。どんな心雑音か?理学的所見、今後の検査計画、治療方針など、やることは一杯なのだ。

 勇気をもって、カルテと聴診器をぶらさげ、彼女のところへ行く。問診だ。病歴聴取、いつから、どんなだったか、最近の調子はどうか、とろけるような解答だ。いよいよ心雑音を聞く。心音に集中するのだ!それにしても綺麗な人だ、甘酸っぱいにおいがする、馬鹿!俺は医者だぞ!何を考えているのだ?次に心電図を記録する。胸部誘導は第4肋間胸骨右と左にV1,V2,左乳頭直下にV4,V4とV2の間にV3,乳頭の左にV5,V6が続く。心電図に集中だ。乳頭はどうでもよい。心臓超音波検査だ。ビームを彼女の左乳房に置く。画像に集中だ!まだまだ検査がある。心音図だ。やたらと彼女をヌードにせざるをえない。当たり前だ。医師として仕事をしているのだ。

 心臓カテーテルの検査がやってきた。彼女は泣きそうに怖いと私の耳元で囁いた。甘い息が私の耳をくすぐった。馬鹿!カテーテル検査は命がけなのだ。まだわたしは新米なので、彼女の全身状態を見る係であった。オールヌードにさせられ、股動脈や大伏在静脈を穿刺され、カテーテルは彼女の心臓の中を躍っていた。最後に造影剤が勢いよく左心室に流された。彼女は苦痛のあまり、私の手を握った.柔らかい手であった。いけない、心臓カテーテルの検査を頭にたたきいれるのだ!

 無事病室に帰され、私は穿刺された彼女の左股の出血が内科、よく確認せねばならなかった。治療方針も決まり、彼女の退院日が近くなった。妙に寂しくなった。しかし、弁膜症は治ったわけではない。外来でお逢いできるだろう。

 退院の日、彼女は綺麗に着飾り、まぶしかった。いけない、相手は病人だぞ、私は医者だ。その後、外来で意識的によくお逢いするようにした。

 転勤の日が決まった。いよいよ引っ越しだ。名護屋を去る日、彼女は誰もいない外来に、一人立っていた。

「どうしたんですか」「転勤されるそうですね」「はい」「お世話になりました。向こうでも頑張ってください」と頭を下げた。真っ赤な顔でろくに挨拶が出来なかった。医師に恋は禁物だ。

 

こいは

 

投稿者: 大橋医院

2016.11.15更新

<恋は禁物>大橋医院 大橋信昭

 医師になってはじめて、病棟の患者さんの主治医になったときのことは忘れがたいものがある。その患者さんは30歳前後の人妻であり、八千草薫の若いころのような人だった。心臓弁膜症である。詳しくは僧帽弁閉鎖不全である。24歳の私にとって、これは試練なのである。まず、医師であること、男の感情を捨てること、相手を女性として意識してはいけないのである。しかも、私は心臓の専門医を目指しているのだ。心音はしっかり聞かなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。そのそばにある、美しい乳房と乳首は意識してはいけないのだ。

 教授の質問は怖いし、鋭い。「どんな心雑音であったか?検査はしっかりしたのか?何を赤い顔をしているのだ!」分かっているし、そんなことは百も承知だ。それがどうも冷静になれないのだ。カルテには所見を書かねばならない。どんな心雑音か?理学的所見、今後の検査計画、治療方針など、やることは一杯なのだ。

 勇気をもって、カルテと聴診器をぶらさげ、彼女のところへ行く。問診だ。病歴聴取、いつから、どんなだったか、最近の調子はどうか、とろけるような解答だ。いよいよ心雑音を聞く。心音に集中するのだ!それにしても綺麗な人だ、甘酸っぱいにおいがする、馬鹿!俺は医者だぞ!何を考えているのだ?次に心電図を記録する。胸部誘導は第4肋間胸骨右と左にV1,V2,左乳頭直下にV4,V4とV2の間にV3,乳頭の左にV5,V6が続く。心電図に集中だ。乳頭はどうでもよい。心臓超音波検査だ。ビームを彼女の左乳房に置く。画像に集中だ!まだまだ検査がある。心音図だ。やたらと彼女をヌードにせざるをえない。当たり前だ。医師として仕事をしているのだ。

 心臓カテーテルの検査がやってきた。彼女は泣きそうに怖いと私の耳元で囁いた。甘い息が私の耳をくすぐった。馬鹿!カテーテル検査は命がけなのだ。まだわたしは新米なので、彼女の全身状態を見る係であった。オールヌードにさせられ、股動脈や大伏在静脈を穿刺され、カテーテルは彼女の心臓の中を躍っていた。最後に造影剤が勢いよく左心室に流された。彼女は苦痛のあまり、私の手を握った.柔らかい手であった。いけない、心臓カテーテルの検査を頭にたたきいれるのだ!

 無事病室に帰され、私は穿刺された彼女の左股の出血が内科、よく確認せねばならなかった。治療方針も決まり、彼女の退院日が近くなった。妙に寂しくなった。しかし、弁膜症は治ったわけではない。外来でお逢いできるだろう。

 退院の日、彼女は綺麗に着飾り、まぶしかった。いけない、相手は病人だぞ、私は医者だ。その後、外来で意識的によくお逢いするようにした。

 転勤の日が決まった。いよいよ引っ越しだ。名護屋を去る日、彼女は誰もいない外来に、一人立っていた。

「どうしたんですか」「転勤されるそうですね」「はい」「お世話になりました。向こうでも頑張ってください」と頭を下げた。真っ赤な顔でろくに挨拶が出来なかった。医師に恋は禁物だ。

 

こいは

 

投稿者: 大橋医院

2016.11.15更新

<恋は禁物>大橋医院 大橋信昭

 医師になってはじめて、病棟の患者さんの主治医になったときのことは忘れがたいものがある。その患者さんは30歳前後の人妻であり、八千草薫の若いころのような人だった。心臓弁膜症である。詳しくは僧帽弁閉鎖不全である。24歳の私にとって、これは試練なのである。まず、医師であること、男の感情を捨てること、相手を女性として意識してはいけないのである。しかも、私は心臓の専門医を目指しているのだ。心音はしっかり聞かなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。弁膜症なのだ。心臓の音に全神経を集中しなくてはいけない。そのそばにある、美しい乳房と乳首は意識してはいけないのだ。

 教授の質問は怖いし、鋭い。「どんな心雑音であったか?検査はしっかりしたのか?何を赤い顔をしているのだ!」分かっているし、そんなことは百も承知だ。それがどうも冷静になれないのだ。カルテには所見を書かねばならない。どんな心雑音か?理学的所見、今後の検査計画、治療方針など、やることは一杯なのだ。

 勇気をもって、カルテと聴診器をぶらさげ、彼女のところへ行く。問診だ。病歴聴取、いつから、どんなだったか、最近の調子はどうか、とろけるような解答だ。いよいよ心雑音を聞く。心音に集中するのだ!それにしても綺麗な人だ、甘酸っぱいにおいがする、馬鹿!俺は医者だぞ!何を考えているのだ?次に心電図を記録する。胸部誘導は第4肋間胸骨右と左にV1,V2,左乳頭直下にV4,V4とV2の間にV3,乳頭の左にV5,V6が続く。心電図に集中だ。乳頭はどうでもよい。心臓超音波検査だ。ビームを彼女の左乳房に置く。画像に集中だ!まだまだ検査がある。心音図だ。やたらと彼女をヌードにせざるをえない。当たり前だ。医師として仕事をしているのだ。

 心臓カテーテルの検査がやってきた。彼女は泣きそうに怖いと私の耳元で囁いた。甘い息が私の耳をくすぐった。馬鹿!カテーテル検査は命がけなのだ。まだわたしは新米なので、彼女の全身状態を見る係であった。オールヌードにさせられ、股動脈や大伏在静脈を穿刺され、カテーテルは彼女の心臓の中を躍っていた。最後に造影剤が勢いよく左心室に流された。彼女は苦痛のあまり、私の手を握った.柔らかい手であった。いけない、心臓カテーテルの検査を頭にたたきいれるのだ!

 無事病室に帰され、私は穿刺された彼女の左股の出血が内科、よく確認せねばならなかった。治療方針も決まり、彼女の退院日が近くなった。妙に寂しくなった。しかし、弁膜症は治ったわけではない。外来でお逢いできるだろう。

 退院の日、彼女は綺麗に着飾り、まぶしかった。いけない、相手は病人だぞ、私は医者だ。その後、外来で意識的によくお逢いするようにした。

 転勤の日が決まった。いよいよ引っ越しだ。名護屋を去る日、彼女は誰もいない外来に、一人立っていた。

「どうしたんですか」「転勤されるそうですね」「はい」「お世話になりました。向こうでも頑張ってください」と頭を下げた。真っ赤な顔でろくに挨拶が出来なかった。医師に恋は禁物だ。

 

こいは

 

投稿者: 大橋医院

2016.11.15更新

 私は往診カバンでございますが、かなり高齢化しておりまして、院長は廃棄処分にしようと何度も考えておりますが、私にとって暖かい診療所のstbaffにより修復を繰り返し今日まで生き長らえております。

 

 その患者は、喉頭癌では肺転移、脳転移まで至っておりました。もう根治の方法はありません。終末をどうするのか御家族は悩んでおられました。息子さんはDR,娘さんが看護師でいらっしゃいまして、院長は家族と何回も話し合いをなされました.一つは延命至上主義のもと、中核病院に紹介し、心停止まで現代医学の技術全てを注ぐという考えです。二つ目はホスピス施設を探すという考えですが、この近くにそんな施設はございません。三つ目は在宅ホスピスという考えです。しばらく、在宅で院長は、私:往診カバンを車に載せ何回も通っておられました。

 家族は終末をどうするか、かなり悩んでおられました。院長はこうおっしゃられました。「ご本人のご自宅で、愛犬もいるし、好きな音楽も流れ、家族に見守られ、これ以上の施設があるでしょうか?」息子さんのDr,娘さんの看護師もいらっしゃいましたが、ご家族が看取られ、静かに昇天されました。

 

 院長は私:往診カバンにモルヒネをよく入れておられましたが、患者さんの苦痛を考えれば当然のことでございます。最後の一週間は、院長はICUと変わらぬような体制で患者宅に通いましたがので疲労困憊でした。院長は憂さ晴らしにかなりお酒をお飲みになりましたが、私:往診かばんは休めませんので院長の体調が心配でなりません。

 

 そのおばあさんは99歳で肺がん末期でありました。お嫁さんと院長は話し合われました。お嫁さんは「もう年なんですから、先生、家で面倒見てください」と簡単に言われました。さて、院長と私:往診カバンが患者宅に行きました。おじいさんは一人きりなのです。朝、牛乳とパンを与えられ、昼は配給弁当です。おじいさんは苦痛の中、ほとんど食べておられません。院長は頻回に私:往診カバンを連れて、布団の中から起こしてあげ、食事を口の元に運んだり、無くなった奥さんの話をしておられました。おじいさんは涙を流し、よく院長を話し相手に呼びつけました。当然、私:往診カバンも付き合いました。

 院長は最後の死に水を引き取るつもりでしたが、お嫁さんが勝手に近くの病院へ無理やり入院させ、暫くして患者さんの死亡を聞かされました。「人の一生は何なのか?」と、院長はお怒りになられ私:往診カバンをひっぱたかれました。私も高齢化しておりますので、八つ当たりはご勘弁を願います。

 

 老夫婦がやっと二人暮らししておりました。おばあさんが急速に衰え、アルツハイマーからの廃用症候群で、あっという間になくなりました。院長は残されたおじいさんを心肺され、私:往診カバンを自転車の前カバンにのせ何回もおじいさんのお宅に向かいました。

 おじいさんも徐々に体力が低下し、介護度も悪化していく中いろいろお話されました。「私は、戦争中、中国に行き,お国の指示とはいえ今では考えられない極悪非道を繰り返した」というのです。「夜、夢枕に被害者が立つ」といいます。おびえながら、苦しみながら朝、昇天されました。

 「この人こそ戦争の犠牲者だ」と、また私:往診カバンを院長室のソファーに投げつけました。もう私もそろそろ施設入所を考えていますので、院長様、私に当たらないでください。

 その患者さんは肺がんを院長により診断され、骨転移もあり、在宅でターミナルを迎えることを家族との話し合いで結論しました。お元気な頃は、犬の散歩に付き合いながら好きなタバコを吸っておられました。しかし、やがて歩けなくなり、食べれなくなり、院長は私:往診カバンの中に点滴セットをいれ、日参しておりました。好きなタバコを吸いながら安らかに永眠されました。棺にはたくさんのお好きなタバコが入っておりました。

 

 私:往診カバンは知っております.ターミナルにはいろいろあります。「延命至上主義」「在宅でのホスピス(尊厳死)」「病院での尊厳死」「介護施設での尊厳死」etc。

 日本全体でターミナルを考えねばなりません。老化、各種疾患で自分の親が食べられなくなッた時、日本人はどうするのか。死ぬ20分前に「中核病院へ搬送してください」と急に意見を変える家族が多いです。それは、患者にとって本当に幸せでしょうか?院長は、私:往診カバンにいつも八つ当たりしますが、私ももうごめんです。一度国民全体でターミナルについて全国レベルで話し合う必要があります。お願いします。もうこれ以上、私:往診カバンが院長の虐待に会いますと、もう火葬されてしまいます。皆様、私:往診カバンを院長の横暴からお助けください。

 欧米では食べられなくなりますと、医療全てを撤退すると聴いております。やさしい日本人は患者ごとに、ターミナルを話し合います。医療費、介護費の問題もありますが、やはり日本人はやさしいのです。ターミナルに解決がありません。

 私:往診カバンは院長に八つ当たりされても、この在宅医療に付き合ってまいります。

投稿者: 大橋医院

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