2015.01.30更新

「断酒成功」
家族会議で断酒例が、私に下り、最初は、断酒剤「レグテクト」を内服していました。
11月よりもう飲まなくなりました。今は、何も考えずに酒は一滴も飲みません。


岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、や動脈硬化症に全力を尽くします。

投稿者: 大橋医院

2015.01.29更新

<私の大垣.名古屋間>
大橋信昭
私の主任教授が亡くなられた。主任教授といえば、今日いたるまで、医師とはどういう職業か?患者さんといかに接すべきか?研究面、私生活(仲人、開院式)にもご協力していただき、御恩が深く、お通夜はどうしても出席せねば罰があたる。場所は名古屋の覚王山の地下鉄駅徒歩5分ということで、安心しきっていた。しかし、覚王山は遠い。千種、今池より東である。車内案内を頼りに不安ながら降りたが、2番出口と式場の案内に書いてあるが、2番線が無い。思い切って、1番線から地上へ飛び出たが、大きな歩道と車道と、怖い顔した人達が数人、すれ違うだけで、東西南北が分からずに、思わずに近くのコンビニへ入り込んだ。100円のチョコバーを買って、店員に東はどの方向か?と聞いたら分からぬという。必死で喪服の人たちを探し、この道をまっすぐだと教えてくれた。名古屋の5分と大垣の5分は違い、名古屋は全力で歩いて5分である。やっと葬儀場についた私は、最後のお参り人であった。奥様は変わらずお綺麗であった。「お参りさせてください。」「どうぞ」と言われ、焼香し、お祈りし、御棺の中の恐い教授を久しぶりに見た。病棟では鬼のような顔をしていたが、棺桶の中でも私は恐怖で震えた。どうして、奥様は相変わらずお綺麗なのに、教授の顔は病棟回診の時の、近寄りがたい顔をこんな葬儀場でもしているのであろう?しっかり、数珠を持ち、過去のお礼を心の中で唱えた。
サー、大垣へ帰るぞ!大垣は間違えることはあるまい。名古屋方面の地下鉄に飛び乗った。満員であったが座れることができた。気が付くと両隣は若い女性であった。私に両方からぴったり寄り添ってくる。ここで間違っても、どちらかの女性に接触したら、「この人!痴漢です!」と周囲の人に奇声をあげ、私は逮捕される予感がした。特に両手はポケットに突っ込み、両側の女性に触れるのを神経質に回避した。大垣の開業医が痴漢すると新聞紙に印刷されれば、私の店は閉じねばならぬ。最近の女性はそれくらい怖いものである。
やっと地下鉄から脱出し、名古屋駅の前に立った。なんという人の数であろう。店屋には行列が並ぶし、大垣祭りが毎日、行われているようなものだ。人の波にもまれ、IR名古屋駅にやっと入り、大垣方面快速に乗り、ラッキーにもまた座れることができた。その席は二人用であり、私は窓側に座ったのである。しかし、またしても隣に中年の貴婦人が慌てて座り込んだのである。昨今の満員電車の女性に触れたというだけで事件になっているので、私は窓を真剣に眺め、"あなたと私とは何の関係もありませんよ"という態度を貫き通した。大垣まで疲れてしまった。
大垣駅は名古屋駅と違い、降りる人も、行き会う人もまばらである。大都会と田舎の大変な違いである。まっすぐに、我が家へ向かった。ここでまた困った問題が起きたのである。大垣駅から当院へ行くには最短距離の道を選ぶと、暗い細い道しかない。その前を若いOLが綺麗に着飾り、長い足にハイヒールに音を立てながら、闊歩しているのである。他に道はないこともないが道路しかない。彼女は、私を振り返り、警戒注意報か緊急体制に入ったようである。路上で若い女性が暴徒に襲われる新聞記事が多い。私はその気はない。むしろ、体格のいいこの若い女性と格闘技をしても、完敗になりそうである。私は、前で立ち止まり、私を睨んでいる女性を避け、車道へ走ったのである。夜間の車道は、道路交通法を無視した若者がいっぱいだ。私は走った。日ごろ走ることが無いのに、女性から遠ざかり、車に気を付け、当院へたどり着いたのである。
心拍数が上がり、頭がふらふらして、汗びっしょりで、家内にやっと逢えた。こういう時の家族は、有難い。「よく、無事に帰ってきました。」私は、しばらく放心状態であったが、シャワーを浴び、寝間着に着替え、ソファーにくつろぎながら、大都会では私はつぶされてしまう、大垣の田舎よ、万歳と、思った。
名古屋からのお誘いはできるだけ避けよう。グローバル社会にお恥ずかしい話である。



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投稿者: 大橋医院

2015.01.28更新

「携帯電話」
もし、私が携帯電話から解放されれば、
私は幸せになるであろう。


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投稿者: 大橋医院

2015.01.26更新

<大橋信昭の始末書>

大橋信昭

1) 小生は、昨年の11月より断酒している。あの酒癖が悪い男が酒を飲んでいないのは信じられないと殆どの医師会員並びに関係者の方は、ほら吹きと思われだろう。本当に小生は、一滴ものんでいないのであり、忘年会、新年会とも、飲み友達を避けていたのである。これには、家族の懇願が断酒前に、聞かされたのである。その顔は真っ青で真剣であった。「お父さんは飲むと、私達にどんなひどいことをしたか知っているの?次女の部屋に勝手に入り、彼女の大切なパソコンを殴りつけ破壊してしまったのよ。素っ裸で仏壇の前で踊っていたし、一度は転倒し、ストーブに顔面打撲したのよ、このストーブが、何故変形しているのか、これはお父さんのせいよ!我が家の大切な初孫に乗っかていたじゃないの!大けがでもしたら一生ものよ!」小生は、この時ほどドキリとしたことは無い。医師会にも酔っ払いメールで社会追放問題を起こしたし、家族にもこんな迷惑をかけていたのか?もう飲まない!何回も誓ってきたが、今回は意志が強い。友達をなくし家族を亡くしてはホームレス生活者になるかもしれない。断酒は今も続行している。
2) 小生はパソコンを少し使えるが、携帯電話とか、今や常識のスマートホン、i-PADは全く苦手である。JRで名古屋を往復しようとすると、電車の中はスマートホンを食い入るように使っている人がひしめき合っている。駅に降りても、スマートホンを見ながら歩いている若者、自転車もスマートホンを使いながら、車道を横切っている。小生はこのモバイルが全く苦手なのである。携帯でラクラクホンである。それなら良いが、この1年に3回、水没させたのである。1度はトイレ、2度は浴槽、いずれも酩酊状態である。トイレや浴槽にキラキラ光る小生の携帯が浮かんでいるのを見たとき、愕然としたのである。3度目はもう、ショックで、   小生は小生の愚かさを呪ったのである。妻は眉間に皺を入れ、子供たちはそっぽを向き、携帯電話商店(いまどきスマートホンであるが)に赤面して、恥ずかしく店員に視線が合わないように、携帯電話の交代をしたのである。
3) 私は「循環器」という専門誌を毎月、定期購読していたが、今年から来ないと思っていたら、年会費を払っていなかったのである。内科抄読会は、「循環器」の最新号を発表しようと思っていたら、不可能で、医師会にご迷惑をかけて、印刷をお願い済ましてあったので、「断酒剤について一考と循環器アラカルト」と演題を決めた。来月が出番と言われていたので、内容を再読し、もっとレベルを上げようと、名古屋の医学書が置いてある本屋に3回往復した。医学書3冊購入したが、どれも小生の頭脳には難解不可能である。内科抄読会の優秀なメンバーを考えたら、インフルエンザになり、免疫力低下になり、帯状疱疹までできてしまった。このままではあまり気に病むと、悪性疾患を発症してしまうと思い、昨日、16歳の時初めて鑑賞した「太陽がいっぱい」を還暦過ぎて、再度楽しんだ。アランドロンが16歳の時にハンサムすぎると思ったが、還暦過ぎると見方が違い、中世の歴史残すヨーロッパ、切ない音楽や、まぶしい太陽、海の青さが強烈であった。主役のアランドロンがやったことは、腹が立つぐらい残酷なことであり、極刑は免れないと思った。素晴らしい映画を鑑賞した後は、内科抄読会の発表が近いことは忘れた。ストレスを忘れた。
4) 小生の主任教授が先週亡くなった。医師とはどういう職業か教育され、患者への対応や、治療テクニックなど、すべて教育してくださった先生であり、仲人、開業の際に開院式にも、出席出ていただき、父の告別式にも励ましにわざわざ大垣までお運び願ったのである。お通夜は絶対に出ないと罰が当たると思い、地下鉄覚王山東へ徒歩5分徒歩と知らせがあった。しかし、その駅に降りた途端、東西南北が分からなかった。コンビニに入り102円のチョコレートを買い店員に「東はどっちか?」と聞いたら「私には分かりません。」と、冷たくされた。幸い、喪服を着たご婦人にお逢いできたので、お通夜にやっと間に合い、奥さんにお逢いでき、ご遺体となった教授に、お参りができた。名古屋という都会は怖い。降りた途端、大きなビルと大きな道路と、交通量の多いこと、人も氷のように冷たい顔をしてひしめき合っている。私のような田舎者は、押しつぶされそうである。
以上、私の始末書である。

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投稿者: 大橋医院

2015.01.25更新

<私は岐阜高校出身である>
昭和47年卒 大橋信昭

 私が岐阜高校を受験しようとしたのは、中学3年生の担任の先生の命令である。「君は岐阜高校を受けなさい。何!一教科居眠りしても合格するから!」と
とんでもない進路指導をするものだから、その気になった。当然全教科必死に、入学試験は頑張ったのである。合格発表を見に行ったときはさすがにうれしかった。やっと受験勉強から解放され、春休みは遊び放題と思っていたからである。ところが、合格者は突然、もう記憶にないが、怪しげな、暗い講堂に集められ、大量の宿題を渡され、入学式までに完成するようにとの命令が下った。これでは、楽しい春休みも帳消しで、また勉強部屋に戻ることになった。急に問題集が難解であり、大垣の田舎の私には苦労した。宿題を片付け、ほっとしたら入学式であった。入学式も体育館に集められ、教科書や英単語辞書や、山崎偵とかいう3年間苦しめられるとは思わなかった参考書などが配布された。同時に1年6組ということも知らされ、その中に同じ中学受験者5人のうち3人が同じクラスであることが分かった。担任の先生が、高いステージに勢ぞろいされ、私はあのサングラスをはめた怖そうな先生は担任でなければよいがと思ったが、運命的なものであった。なおこのクラスは男子クラスであり、女生徒も遠くにまぶしく見えたが、いつかは男女クラスで、彼女たちともお友達になれると思っていたが、3年間男子クラスになるとは夢にも思っていなかった。おかげですっかり女子と疎遠になり、女性とまともに話ができるのは大学までお預けであった。
 初登校日、サングラスの担任の先生の教室にそっと恐々入ったら、驚いた。教室内はシーンとしており、もう教科書に真剣に、クラス仲間は向かっており、私の教科書は真白であるが、隣の生徒は半分手垢で真っ黒であった。どうして初日からこんな真剣な雰囲気なのだよ?今日はよろしくと笑顔でおしまいにならないのか?不安が高まる中、突然、例のサングラスの先生が乱入してきた。
そして、机に脚を上げ、「君たちもここの高校のことは充分わかっていると思うが、その気になってもらわないと困る!」降参だ。田舎の大垣ではそんな話聞いていないよ!数学の授業が始まった。担任の先生が言うには、私の講義は完璧だから、質問は受け付けないと言われた。その代りこの先生は、土曜も日曜日も遊べないように大量の宿題を出した。授業はやっと理解出る程度であった。
全く余裕がない。次は英語の先生が出てきた。「今日学習したことは、翌日全て記憶してください。単語のテストは毎日やりますよ。」と優しい言葉だが、最も残酷な命令であった。
 帰る際、担任の先生が、「君は遠い所からの通学だから、クラブ活動などせずに、授業が終わったら、すぐに帰宅しなさい。そして勉強以外は考えなくてよろしい!」と言われた。帰りは西野町の路面電車に乗り込み、捕虜収容所みたいに身動きできないくらい満員であった。岐阜駅に付き当時国鉄大垣行きを待っていたら、同じクラスメートが帰りは一緒なので、「君、元気がないね。」と笑ってくれた。1時間に2本しか大垣行きは岐阜駅に到着しなかった。市電と国鉄電車でかなりの友人を作った。帰宅草々、勉強するしかなかった。私の頭脳では、すべての科目が難解であり、毎日の宿題に追われるだけであった。
 それから、3年間、国鉄岐阜駅行と市電で西野町に、揺られながら通う日々が続いた。英単語の試験が毎日あるものだから、私はこの通学時間に覚えるしか手段がなかった。この姿を、当時同じ電車で名古屋方面に通勤している近所のサラリーマンが、私の事を勉強熱心で、二宮尊徳みたいなことを近所に言い触らすので迷惑であった。私は岐阜高校の授業に追いていくのが必死であったのである。
 2年生になると、担任は"名物"国語の飯尾先生が担任になった。毎回授業の前に儀式があった。「この黒板をこんなに綺麗にしたのは誰だ!」手を挙げた生徒は先生の前まで行き、頭をなぜられ、飴玉をもらえた。そして必ず誰かが、打ち合わせたように「先生、教科書を忘れました。」「そんな奴は廊下に立っとれ!」とその生徒は廊下に立たされた。そしてこれも儀式のうちであるが、「今、廊下に立っている生徒の事をどう思うか?君はどうだ!」生徒は「彼は普段真面目であり、今日、うっかりしていたのだと思います。先生、許してやってください。」「そうか、それなら中へ入れてやれ」と廊下の立たされた生徒が教室に戻ると、「今度忘れたら、後藤ひよこの屋上に立ってもらう!」この儀式は何回となく行われ、後藤ひよこは私の記憶にこびりついている。
 2年生の後半になると、個別にこの先生と普段の事を相談できる時間を作ってもらえた。「大橋は真面目だから、今の調子で頑張るようにしなさい。何!医師になりたい?もっともっと勉強するように!」と手厳しい評価であった。
 3年になると、受験を考えたか、皆の勉強に向かう姿勢がもっと厳しくなった。私のクラスの半部が医学部志望であった。私も頑張っているつもりであるが成績が今一である。最後の進路面接が母親を交えて、行われたが、担任の先生は私が医学部受験に猛反対であった。「いいかい、君の人生の問題だよ。」「私の人生だから医学部を受けさせてください」とこの問答に1時間を要した。帰りの母親の機嫌は悪かった。
 最後の国語の授業に、飯尾先生が励ましの歌を聞かしてくれた。「吹けば飛ぶような試験の紙にかけた命を笑わば笑え、、」全部は記憶にないが、激励として忘れない。その後、医学部に入り、地域医療に従事しているが、岐阜高校の厳しさが無ければ私など、医師になれなかったであろう。
 卒業式の日は受験も控えており、何の記憶もない。ただ、いい先生、いい友達に恵まれ私は大きく成長した。ありがとう。岐阜高校。私は、今でも岐阜高校卒業生であることが自慢である。

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投稿者: 大橋医院

2015.01.23更新

「藤浪隆雄教授が昇天」
昭和54年に、藤波教室の門をノックしてかrら、早40年、
かばん持ち、シュライバー、医学、医師の基礎を教えていただいた。
時には厳しく、時には優しく、世界中の学会もお一緒に参加。
いつも、一緒であった。仲人、医学博士、専門医へとご指導。
開業の時もわが子のように心配してくれた。
ありがとう!藤浪教授!さようなら、。

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投稿者: 大橋医院

2015.01.15更新

「命短し恋せよ禿げ頭」いかにも無気味なタイトルであるが、安心してください。淑女がお相手くださらない。
私としては、禿げ頭になり、61歳を超え、余命が不詳になり、うつ的な気分になる。ここで、女性を清らかな
存在、美しく干渉すべき存在として意識し、下心はありません。私に医学の勉強を押し付けられる宿命を
医師として持っておりますが、小説の乱読、随筆の作成に専念します。もし、貴女をじっと見ていてもそれは
随筆の登場人物にならないかの干渉であります。サー今年も、書き始めましょう。春が早くやってくるように。

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投稿者: 大橋医院

2015.01.14更新

「孫」小生の孫は、母親(私の長女)がいてくれれば、小生が抱擁しても天使の笑顔を見せてくれるが、
小生と孫と二人きりになると、エイリアンになる。高周波数で小生の心臓発作を招く鳴き声であり、こんな老人の
腕の中にいるのを拒絶する。イナイイナイバー、優しく右から左へ揺り動かしても、高い高いをやっても暴れまくる。
長女にSOSを送る。やっと、エンジェルになる。いつかはお買い物に付き合うような仲になっておくれよ!


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投稿者: 大橋医院

2015.01.13更新

「1月12日から13日」朝9時より小児の急患センター当直、昼ご飯を5分で食べて、一時半より再開、午後6時まで、
インフエンザAに罹患している乳幼児が120人、大集合、90%はインフルエンザA、タミフル、イナビルの内服、吸入
続行、小生休みなく、午後6時にフォーラムホテルに新年会、断酒を守りつつも、遅刻早退、
1月13日、午前の患者さんは感冒疾患で大忙し、午後2時から大垣別院入園式の健康診断予定のところ、特養の
入居者午後1時22分に昇天、往復と死体確認と診断書を書き、走って走って、幼稚園の入園式健康相談、3時半より外来。
フラフラな成人の日。


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投稿者: 大橋医院

2015.01.09更新

「馬車」小生が幼稚園に通っていたころ、大垣の町は信号機が一つであり、田園にあふれ、舗装された道路は少なく、
大いなる田舎であった。小生は、ある春の日に、幼稚園に向かう道中、馬車にひかれたのである。意識喪失、気が付いたら、
家の中の布団で寝ていた。父は馬を操縦していた人に猛烈に抗議していた。小生はその後2日で後遺症もなく元気になったのである。昭和30年初期の話である。

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投稿者: 大橋医院

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