2016.11.29更新

「カードを持つ」
大橋信昭

僕みたいな田舎者が「カード」を持ちたい。
亡くしたら、大変なことだ。よって、主にネットショッピングに使うつもりだ。
医学書を、文献を、名古屋の都会まで、行って、探すのは大変なのだ。
カードはそれを、便利にしてくれる。
それからパソコンの微妙調整にもカードで修理するようだ。
主な目的は、名画のDVDを集めることである。
僕はある日、ケーリグラントになる。そして、
オードリヘップバーン、イングリットバーグマンとキスしまくる。
ジーナロロブリジーナという女優が大好きで、彼女の作品を集めたいし、
ピーターセラーズ、チャールズブロンソン、など素敵な映画劇場に、私の書斎が
変わってしまう。
もうすぐ銀行家が来るので、楽しみである。
けーりー

投稿者: 大橋医院

2016.11.26更新

今年はインフルエンザの大流行が早いといわれています。

お早めに、インフルエンザ予防接種を摂取してください。いんふるえ

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

<私はおじいちゃん> 大橋信昭
昨年の大晦日に、娘が婿と一緒に帰ってきた。正月遅くまでいてくれるらしい。
娘は素直に自分が身重である事を言った。おめでたが近い。
つまり、私がおじいさんになるのが近い。
喜びは日増しに、増加した。早く、孫の顔が見たい。
そのためには、生きていなくてはいけない。相変わらず酒を飲んだくれてはいけない。
私の生活は健康とほど遠い。大晦日も正月も死亡診断書を連日書いている。
娘は昭和60年生まれの28歳、赤ん坊の頃は、顔中キスするのが楽しみであったが、
彼女にその話をすると不愉快な顔をして、顔を洗いに行く。パパパパと私に抱擁を求めたが、
28歳の彼女が60から61歳になろうとする私に同じ行動をとったら精神障害かも知れない。
幸い、そんなことはなく、婿さんとべったっりである。仲が良い夫婦になった。嬉しいことだ。
お産はわが町で、産後当分我が家にいるそうだ。これも楽しみである。
私はおじいさんになった。
岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、動脈硬化症に全力を尽くします。

おじいちゃん

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

<私はおじいちゃん> 大橋信昭
昨年の大晦日に、娘が婿と一緒に帰ってきた。正月遅くまでいてくれるらしい。
娘は素直に自分が身重である事を言った。おめでたが近い。
つまり、私がおじいさんになるのが近い。
喜びは日増しに、増加した。早く、孫の顔が見たい。
そのためには、生きていなくてはいけない。相変わらず酒を飲んだくれてはいけない。
私の生活は健康とほど遠い。大晦日も正月も死亡診断書を連日書いている。
娘は昭和60年生まれの28歳、赤ん坊の頃は、顔中キスするのが楽しみであったが、
彼女にその話をすると不愉快な顔をして、顔を洗いに行く。パパパパと私に抱擁を求めたが、
28歳の彼女が60から61歳になろうとする私に同じ行動をとったら精神障害かも知れない。
幸い、そんなことはなく、婿さんとべったっりである。仲が良い夫婦になった。嬉しいことだ。
お産はわが町で、産後当分我が家にいるそうだ。これも楽しみである。
私はおじいさんになった。
岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、動脈硬化症に全力を尽くします。

おじいちゃん

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

<私はおじいちゃん> 大橋信昭
昨年の大晦日に、娘が婿と一緒に帰ってきた。正月遅くまでいてくれるらしい。
娘は素直に自分が身重である事を言った。おめでたが近い。
つまり、私がおじいさんになるのが近い。
喜びは日増しに、増加した。早く、孫の顔が見たい。
そのためには、生きていなくてはいけない。相変わらず酒を飲んだくれてはいけない。
私の生活は健康とほど遠い。大晦日も正月も死亡診断書を連日書いている。
娘は昭和60年生まれの28歳、赤ん坊の頃は、顔中キスするのが楽しみであったが、
彼女にその話をすると不愉快な顔をして、顔を洗いに行く。パパパパと私に抱擁を求めたが、
28歳の彼女が60から61歳になろうとする私に同じ行動をとったら精神障害かも知れない。
幸い、そんなことはなく、婿さんとべったっりである。仲が良い夫婦になった。嬉しいことだ。
お産はわが町で、産後当分我が家にいるそうだ。これも楽しみである。
私はおじいさんになった。
岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、動脈硬化症に全力を尽くします。

おじいちゃん

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

<私の女性恐怖症>
大橋信昭

(御注意:この文章は、現実とかけ離れており、文章が過激で、13歳以下の児童がお読みになる場合は、ご両親同伴でお願いします) 

私が幼稚園に通い始めた頃、近所に千佳ちゃんという同級生がいたが、よく手をつないで通ったものである。“この手をつないで”という行為は、小学校3年生以来、しばらく経験しなくなる。「のぶちやん(信昭の愛称)はね、お母さんが言ってたけど、ニンジンが嫌いなのね。私のママも言ってたけど、ニンジンを食べないけど偉くなれないのだって。あの、乃木将軍も頑張ってニンジンが食べれることが出来るようになったのだって。」なんだか叱られているのか甘えられているのか、彼女の体臭、口臭は甘かった。幼稚園でも遊び、一緒に帰り、話題は彼女がリードしていた。当時、銭湯が近くに入り、社交場になっており、私は母と一緒に入っていた。幼稚園児は女性側のお風呂出入りOKということである。私も5歳以下であったので、違和感が無く、母に介助を受けて入浴をしていた。そこへ、千佳ちゃんがオールヌードで登場である。「のぶちゃんも大きくなったのだから、お父さんと入らなければ、駄目よ!」頭を下げるしかなかった。このまま、千佳ちゃんと、幼稚園、小学校と通い続けるつもりであったが、父の仕事の都合で、転校となった。すぐに、千佳ちゃんの家に行ったが、
彼女は熱性疾患に罹患しており、頭部に氷枕をして、ぐったりしていた。彼女のお母さんが、今日はもうお帰り!と言った。転校後も何回か遠い道を千佳ちゃんに逢いに行ったが、お母さんはそれ以来、門前払いだった。
 私の小学校や中学校や高校時代の、女性との触れ合いなんて上記のごとくで読者には、迷惑である。幸いクラス委員に毎年、なっていたので、副委員長は美人で秀才と決まっていた。生徒会活動は、美人と活動することになり、とても楽しかった。中学2年の副委員長、すなわち同級生美女ナンバー1と、ある日、振り向きざまに、唇が触れたことがあった。ただし、これは事故であり、恋愛感情からくるものでは無かったが、私は暫く幸福感に浸れた。
高校に入ると、どうしても医学部に入りたく日夜勉強していたが、通学の市電の中で、私と視線をわざと合わせる女性がいた。毎日、繰り返している度に恋となった。電話をして、お母さんまで、説得して数回デートしたが、難しい文学論ばかり私はしゃべり、すぐに振られた。サー遅れた分、医学部入試の勉強が大変であった。
医学部になると、これが世の中ひっくり返った。薬学生、看護学校の生徒、女性に取り囲まれている雰囲気になった。1年生の時、クリスマスの晩、ある女性が私の下宿を訪れた。クラブの薬学生である。「私の悩みを聞いてほしい」と、体を私に摺り寄せてきた。私はそのまま、朝まで彼女の悩みを聞いており、そのままおかえり願った。残根な事実であり、二度と彼女は私に近づかなかった。医学部の3年から4年になると、看護学生や(当時)看護婦さんとの触れ合いが講義中、病棟でも多くあった。看護学生が私に看護雑誌に載せたいとインタービューに来た。貧乏学生の私を、看護学生が3人タクシーに乗せ、今夜ご一緒しませんか?と飲めない酒を無理やり強制した。酩酊が先行し、朝、下宿に着いたときは何も記憶が無かった。何もなかったのだろう。
医師になると、医師寮が与えられ、4LDKで一人は贅沢であった。毎日,寝る部屋を引越しした。目の前は看護師寮であり、東側は看護学校の寮であった。毎晩、ノックがあり、台所、リビングを勝手に掃除する女性が毎晩、交代で現れた。あっけにとられ、眺めているだけであった。当直室へ、突然入ってきて、私、悩みがあるの、聞いてくださると、唇と唇が重なりそうに接近する看護婦は降参だ。貞操は守ったはずだ。(馬鹿者!ここは男性ホルモンにまかせればよい)私の外来は、看護学生、看護婦が多かった。皆、風邪をひいていると言い、立派な、乳房が露見された。乳癌はありませんかという看護婦もおり、その乳房をしっかり触診せざるを得なかった。癌を見逃したら大変だ。
学校の検診もあった。女子専用の学校である。朝から昼、夕と中学生、高校生、や大学生の上半身と乳房を無限に見た。桃源郷の世界を歩いているようであった。
しかし、職場では、ルールがあった。おはようの順番である。まず婦長、次に主任、それから年代順、一番若くて、ピチピチの看護婦は最後だ。そんな環境で仕事をしているうちに、嫁をもらった。28歳の時である。これで持てなくなると思っていたら、産気づいた女房をよそに、これから、ご不自由ですねと接近してきた看護学生の朝までのパーティーに参加した。何人とキスしたか覚えがない。それから、人妻の看護師と真剣な恋愛に陥りそうであった。嫁さんが悪阻で苦しんでおるのに不道徳だ。これは支離滅裂な人間関係だ。転勤しかない。30歳位の時、病院を変わった。送別会、歓迎会でも、女性の体当たりは強烈であった。やがて、子供ができ、禿が進行し中年化が顕著化したとき、彼女たちのターゲットは次の若い医師に変わったようである。
今は開業して、院長となり、孫もできたが、相変わらず恋は続行中である。
しかし、これは、私の一方的幻想かもしれない。(完)

みずうみ

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

<小生の散歩道>

大橋信昭
 小生は、診療後、患者さんの憂いを朝から晩まで聞き続け、すっかり世俗の暗澹たる気持ちに陥ったとき、何とか乳幼児の瞳のように、心身を洗浄しようとして、愛している散歩道がある。午後7時半に、運動靴に履き替え、スポーティなズボンと上着に着替える。扉を施錠し、シャッターを閉める。昨今、押し入り強盗が多いので、ガード会社と提携し安全は確保している。急患相手に携帯を持ちつつ散歩に出なければいけない。この辺が小生の職業は、散歩さえ自由にいかない。
 さて、まず狭い道を南に向かい、すぐに市営駐車場を東に向かう。なるべく誰にも逢わずに、特に診療時間には大切な患者さんは、散歩中は極力避ける。この前の血液検査を問い詰められると、白衣を着ている時と、交感神経が同じになるからである。県道に到達すると、右折をして一気に南下する。右手は、恐ろしいほどに自動車が南や北へ、騒音を立てて行きかう。左手は商店や住宅があり、空き地もあり、この辺りは日常性に近い。一気に市民病院の六つ角を右折し、松尾芭蕉が立っている記念館へ向かう。
 この辺りになると、水門川が大垣城を囲って、小生の町の隅々まで川を経由して流れている。桜の枝が密林のように垂れ下がり、城の鑑賞の邪魔になるが美しい。すぐ北側に上に凸型の橋が架かっており、噴水も溢れ優雅なものである。城を見ていたら、籠城していた石田三成が、徳川家康が無視して、京都方面へ向かうものだから、三成は、静観に耐えきれず、慌てて城から関ヶ原へ家康を追う風景が小生の脳裏に浮かんだ。
 この松尾芭蕉記念館を見て、水門川に沿って西へ向かう。俳句記念碑がところどころにある。小生も一句考える。「日も過ぎて、川の流れに、寒風が」
出来が良くない。大垣市民は、伊吹山を恐れる。伊吹山は神様であり、あの強烈な風、雪、豪雨は息吹きと書き伊吹に書き換えられた。強烈な北北西の風が小生の体を叩く。凍てつくような風であるが、今まで歩いてきた過剰エネルギーが小生の体を温めており、小生の体温は一定となる。
 ところで、散歩に大敵は犬である。水門川の細い道に歯をむき出した、紐には繋がれている犬が、小生に向かって、吠えたてたのである。小生はバランスを失い、前に転倒した。膝を強打した。膝に激痛が走り飼い主を睨んだが、「お気をつけて」と立ち去った。犬だけが小生を咬めなかったことに後悔があるようである。膝に擦過傷である。足の屈伸をして、散歩続行を確認した。
 川底には、緑の藻が乱世しており、川水は伊吹おろしと戦い,しぶきをあげ、散歩道に寄り添う木々は、右や左に揺れている。小生は立位の姿勢を取り直し、西大垣駅に向かった。さびれた、開くことがあるのか不明の商店街がシャッターの合奏を始める。古い町のドーナッツ化現象を肌で感じる。
 すると、すぐそばの後ろから前へ、あっという間にアスリートの人影が消えた。医師会でよく知っているマラソンマンである。次回の42.195㎞のために、猛練習しているのだ。すごいスピードである。小生からすれば100メートル、短距離競走のスピードである。
 さらに、西大垣から、小生の診療所へ東へと、帰宅を急いでいる。途中繁華街を通過せねばならず、酩酊状態の集団とのトラブルには極力神経を研ぎ澄ます。客引きにも注意せねばならず、一銭も持っていないから、うっかり彼女らの命令どおり、怪しげな酒場に入ってしまえば、刺青のお兄さんに取り囲まれ、過剰な飲み代を請求されるのはよくわかっている。小生は小銭しか持っておらず、客引きは、追い払う。
 もうすぐに、我が家である。大垣市のいいところは、いたる所に湧水がある。そこで、水を一杯飲み、汗を流す。すっきりして、小生の診察室の扉を開く。
これが小生の散歩であるが、一時間はかかるが、美しい所と危険な所が紙一重にある。今、汚れた汗臭いスポーツシャツを脱いで、温かいシャワーを浴び、やっとソファーに横になり、眠りに入るところである。散歩も命がけである。
さんぽ

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

やくいん

大橋信昭

 3日前の日曜日に町内の役員会があった。私は会計監査という役員をやっている。1年間の会計が監査をする役だから、責任重大であるはずである。しかし、もう一人の会計監査が御隠居であり、朝から酒を飲んでいる人であるから、会計帳簿を見る前に「大変結構です」という。そして、私に「この会計さんなら、もう間違いはありません。何、町内から苦情が出たら、御尻でもまくって辞職願を出しましょう。」と最初からやる気がない。だから一度も会計簿をじっくり見たことが無い。役員会の席ではひやひやである。役員会にはその酒豪は出ないので、私一人決まりきったように「平成27年1月4日に、予算決算書を監査したところ、適正なる会計であり、ここにご報告します。」と言う。司会者が「御異議無ければ拍手をお願いします。」という。しばらく沈黙の後、拍手が起こる。ほっとする。世の中、こんないい加減で良いものかと考える。
 何しろ、私は役員というものには適正ではない。今年、組長であるが今年、葬式でも起きたら、何の役にも立たないから困ったものだ。
大体、町内の行事は私には向いていない。まず大垣祭りである。あんな伝統を400年間も続行するものだから、大変な迷惑である。紋付き袴、足袋か下駄をはかねばならない。自分では紋付き袴は着ることが出来ないので、妻に任せている。あれを着るたびに、昔の日本人を尊敬する。私の家の家紋付き紋付き袴を着て、足袋をはき外へ一歩出た段階で、疲れ切っている。この祭りにまともに付き合うと私は途中で失神発作を起こすので、途中、消えて私の家で、そっと外の祭りの音に耳を塞ぐ。町内の山(車編に山を付ける)と、市内を練り歩くのだから、町内や関係者の体力には感心する。子供のころには、祭りの雑音や、屋台のお菓子には、心を騒いだが、笛も吹けず、太鼓も叩けず、紋付き袴で、後ろめたく町内の人の後方に付く。普段力仕事をしていないから、聴診器と往診鞄しか持たないから、提灯を飾り、まして祝儀集めに各家に行くのは聞く力避けている。
 大垣祭りが終わるとほっとするが、そこでまた会計監査の仕事がある。いつもの調子で、会計は適正であるという。拍手が終わりほっとする。誰も見ていないのか、国家の予算決算はこんな調子ではいけない。優秀な官僚がいるから本当に適正な予算決算であろう。
 その次は、8月に行われる夏祭りである。青年部主催であるが、私はすでに松竹会(還暦過ぎの人の集合)に入っており、前回の役員会で、同じ人間が青年部と松竹会に属するのは非合理であると主張したが、相手にされなかった。8月の第一日曜日の正午に、公民館集合となっているが、私には不可能である。熱中症になるであろう。若い人は、その40度近い炎天下に滑り台や、長椅子を動かしテントを張り、屋台を組み、みたらしやお好み焼き作り、肉を焼き始めるのである。私には決して向いていない。太陽が西に傾き、薄暗くなってから私は姿を現す。後片づけの手伝いである。しかも、できるだけ軽い荷物を選択し、朝から重労働をしていたような格好をする。お祭り後の反省会には出席し、若い人たちの御苦労をねぎらう。
 こんな調子であるから、会計監査以上の大役は、緊急患者が多いからと町内には断っている。実際、24時間365日体制で、診療に向かっているのでご勘弁願いたい。1年間、皆さんに迷惑をかけることなく暮らしていくのは私の町内では大変である。色男でもなく、力も芸もないが、医師として何とか面目を保つようにしたいのである。
 

 

投稿者: 大橋医院

2016.11.21更新

すいもn

<水門川>
大橋医院 院長 大橋信昭

今日、大垣市の福祉会館の4階で、ある会議があった。会場に早く着いたので、窓を開けバルコニーへ出た。そこには水門川が一面に見渡せることができ、昔は桑名への重要な交通路として汎用され、今は桜の季節になると、大勢の観光客が乗る渡し船が停泊していた。私は、思わず俳句心が高揚し、二句、メモ用紙に書き込んだ。
“深緑の、水せせらぐ、水門川”
“深緑の、船は流れる、水門川”
久しぶりの俳句に私は大変機嫌がよくなった。
私は、50歳を超えるころまで、この水門川を、よく散歩したものであった。午後の診察を終え、夕食をすまし、運動靴に履き替え、スポーツシャツに着替え、私の診療所から、県道258号線にまで歩き、その後市民病院正門を素通りし、西に方向を変え、松尾芭蕉の銅像が立っている所へ、早足に到達する。この大垣市に俳句ブームを起こした松尾芭蕉に敬礼をする。その後ろには水門川が、大垣城を取り囲み、旧大垣市街を蜘蛛の巣のように流れているのである。その水は清らかで、透明でそこには藻が流れている。鯉も気持ちよさそうに泳いでいる。伊吹山の豊かな雪が地下水となり、大垣市はいたるところで湧水が出る。そして、水門川に沿って、さらに西へ歩くのである。のどが渇けば、いたる所に、湧水があり、給水には事欠かない。のどが渇くことは散歩中も私は知らないのである。やがて、西大垣駅に至り、やっと当院まで東へ散歩が続行する。春には桜が咲き乱れ、舞い、やがて悲しく散っていく。夏には木々は思いっきり背伸びをし、縄張りを争い、深緑のたくましい葉が灼熱の青空に、自己主張する。秋には、アポトーシスが始まり、あの緑の葉が黄金色に、赤や黄色に変身し、寂しそうな土にかえる。冬は木の葉を落とした大木が伊吹山からたたきつける木枯らし(大垣では伊吹おろしという)や吹雪に耐え、一年を終える。その間、水門川は、黙々と流れ続ける。時々、川底の鯉をカラスが狙う。ほとんど空振りである。
 昨日、水門川にそびえ立つ大木の根元に蝉が死にそうになっていた。天敵の餌にはかわいそうなので、葬ろうとすると、指に絡みついてきた。ここで短文を読んだ。「息絶えた,蝉を葬ろうとしたら、私の指に絡みついてきた。命のはかなさ、短さを考え、そっと土を盛り、土手を築き、天敵に襲われないように、できるだけ長生きをし、最後は、安らかにお眠りなさい。」(完)

投稿者: 大橋医院

2016.11.20更新

くら2

<蔵のある家>
大橋医院 院長 大橋信昭

 その年は例年になく、雪が降りよく積もった。私が頼まれた仕事は寝たきりの母が息も絶え絶えであるから、家で往生させてくれという話である。介護保険制度も始まっていない少し昔の話になる。その家は旧家なのか、小高い丘の上にあり、雪を踏みつけながら往診依頼した息子さんの標札にたどり着くと、木戸がみえ、それを右から左へ、ギシギシ音を立てながら、開くとやっと庭が見られるのである。その家の奥に白壁で覆われた大きな蔵が私を圧迫した。
 蔵を見上げながら、やっと上り口に、60歳代にしては老け込んだ老夫婦が私を迎えた。彼らの母を診察して欲しいということである。中は以外に奥に広く、廊下、仏間、居間の向こうに暗い日の当たらぬ部屋があり、不自然にも幾重にも重なった布団があり、90歳は越した老婆がうごめいていた。息子さんが主に介護しているらしく、その妻はその老婆を見向きもしなかった。
 診察したところ、大腿部頚部骨折、褥瘡、寝たきり、廃用症候群で、認知症があり、会話は不可能でうなっているばかりであった。この年老いた息子さんが介護しているのか、おむつ交換も不十分で糞臭が立ち込めていた。私が聴診器を当てようとすると、両手が仏様を拝む姿勢で硬直しており、心音を聴取することさえ困難であった。
 「息子さん、私はあなたのお母さんに何をしてあげたら良いですか?」すると息子さんは悲しそうに、「こんな構えは立派な家だが、貧乏神が住み着いており、母には十分な医療を受けさせてあげることができなかったよ。数年前から床に着いたが、転んだり、発熱したり、苦しいと喚いたり、食事もほとんど取れないが見て見ぬふりをしていたよ。おむつを買ってきて下の世話は何とかしているが、風呂ももう何ヶ月も入らせていない。タオルで出来る範囲を拭いてやるのだ。」すると、横にいた彼の妻が怒ったように「医者なんかなぜ呼ぶのだよ!このまま見ていればいいじゃないか!私たちは、このばあさんにどんな目にあってきたと想っているのだよ。私は忘れないよ。」
 どう考えても、この老婆とこのご夫妻に不幸なことがあり、老婆の衰弱に関して二人の意見は全く違うらしい。息子さんは私による在宅尊厳死、お嫁さんは過去の憎しみから、おばあさんから背を向けているようである。何があったか知らないが、ともかく私はこう言った。「しばらく往診させてもらいます。医師としてやることはやります。お家での治療に限定して、最後まで診させてもらいます。」私が、なかなか閉まらぬ木戸に苦戦していると、息子さん夫婦の大声での罵り合いが聞こえた。あの立派な白い蔵は不自然だ。雪も激しくなりその日は帰宅した。
  私はそれからも往診を続行した。介護保険制度がなかった時代だから、もう老人の息子さんがオムツ交換までやっている可哀そうな姿を見ると、お手伝いせざるをえなかった。ともかく糞臭との戦いである。汗だくで介護のつらさを息子さんと味わった。老婆は泣いて、詫びるだけである。それにしても、何があったのか、彼の妻は姿を現さない。
 少しずつ、老婆の体は衰弱し、点滴も拒否されているから、心肺停止を聞いたのは往診を始めて、1月間も経っていなかった。死体という物質化した老婆はあらゆる苦痛から解放され、仏様のように幸せな顔であった。葬儀は自宅で済ませるという息子さんの話であった。
 私は納得がいかなかった。なぜあのご夫婦は老婆と何があったのか。お嫁さんの冷たさは?お通夜の日も雪は降り続けたが、私は白壁に囲まれた蔵のある家まで走り、木戸をあけて、「お参りさせてください!」とご遺体に焼香した。
お嫁さんはやっと重い口を開いた。「先生、どうして私がおばあさんを無視していたのか不思議に感じていたでしょう?それはね、私たちの大切な息子が幼児の時に、事故死したのよ。それは私たちのせいだけど、私たちが一番悲しいのに、すべて私のせいにして、決して許してくれなかったの!それから、ことごとく喧嘩が我が家に耐えなくて、どうしても私の義母とはうまくいかなかったのよ。」

 私は夜道を当院へ急いでいた。雪は容赦なく、私の方をたたいた。むなしさだけが私の心の穴を吹き抜けていた。立派な蔵なんて何になるのだ!人間の幸せって、仏になるしかないのか!

投稿者: 大橋医院

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