2016.11.20更新

第六感 独田農

<第六感>

大橋信昭

 第六感とは、基本的に、五感以外のもので五感を超えるものを指しており、
現実では説明し難い、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きの事である。

「虫の知らせ」午前2時、就寝中、なんとなく、一階の正面玄関へ向かった。
なんと、背の高い小太りの丸顔の眼鏡をかけた男が、鉄の棒で、当院の正面玄関を突破しようとしている。私は思わずその盗賊、いや強盗殺人と目があった。
彼は、咄嗟に近くに車を止めており、共犯と一緒に立ち去った。警察に電話しても「気を付けてください」、ガード会社は、「すぐに、5分以内に参ります。」
そっけないものであった。私が、犯人に殺されない限り、誰も助けてくれないことが分かった。それにしても、何気なく、玄関へ私が夜中の2時に降りていくことは、ご先祖様のおかげか、第六感というものかもしれない。

「予知」孫の誕生予定日は、8月5日であった。実家で出産するということで、我が家へ長女は里帰りしていた。まさしく、8月5日、彼女の陣痛は、始まった。しかもその間隔は短縮する傾向であった。産院へ彼女は頻回に電話していた。産院のナース、医師が来てくださいということで、婿殿の大切な妻であり、初めての子供でもあり、私は、慎重に産院へ彼女を妻と運んだ。ナースがいうことには、産道がまだ狭く、一日ぐらいはかかるかもしれない、という話であった。私は明日の診療もあるし、まず我が家で待機することにした。しかし、夜中の2時半に突然、初孫が生まれた予感がして、産院へ急いだ。ブザーを鳴らし、家族と連絡したら、今、初孫が出産したとのことであった。初孫を拝むことができた。しかし、何故生まれたと感じたのであろうか?第六感であろうか?

「なんとなく」その日の診療は感冒で混んでいた。私は感冒患者を、手早く診察していた。しかし、その患者は、私は何となく、診察を止め、超音波撮影を施行した。なんと、肝臓癌を発見した。すぐに中核病家へ搬送したが、あの大勢の感冒患者から、何故肝臓癌を診断できたか、謎である。第六感であろうか?

「準備」今日は、中核病院で、夜間の小児夜間当直であった。小児科は私の専門ではない。故に、あらかじめ、小児科の予習をしていくのである。その日はなんとなく、水疱瘡の初診患者が初診で来院する予感がした。治療方針、薬用量をしっかり復習して、急患センターへ出かけた。やはり、水疱瘡患者が来院した。予習は充分してきたので、自信を持って診療できた。これも第六感であろう。

「夜中のラブレター」初恋の女性に40年ぶりに逢った。ある公的職場である。当時の思いが私の方が強かったのか、すぐに17歳の高校生に戻った。話も挨拶程度で悔いが残った。何か話をじっくりしたかったと、夜、やけ酒を飲んだ。
すっかり酩酊し、突然パソコンに向かって、ラブレターを書き、千鳥足で郵便ポストに投函しようとしたが、ご先祖様が“やめなさい”と叫んだ気がした。
突然理性が戻り、ラブレターは破り、布団にもぐりこんだ。これは第六感ではないが、大変な家庭問題になるところであった。

「禁酒」最近疲れやすく、年齢によるものかと思えば、飲酒量が増え、肝機能悪化、酒癖が悪く、酩酊し、次女のパソコンを壊し、仏壇の前で裸踊りをしていたらしい。私は,覚えがないが次女からきつく叱られた。このままでは社会的犯罪者になると思い、断酒剤を服用して、アルコールと縁のない世界になった。第六感ではないが、酒のない世界は素晴らしく、読書、随筆がはかどり、救急患者にもいつでも適応できる。

以上私なりの第六感を考察したが、皆さん、ご経験はありませんでしょうか?(完)第六感

投稿者: 大橋医院

2016.11.20更新

第六感 独田農

<第六感>

大橋信昭

 第六感とは、基本的に、五感以外のもので五感を超えるものを指しており、
現実では説明し難い、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きの事である。

「虫の知らせ」午前2時、就寝中、なんとなく、一階の正面玄関へ向かった。
なんと、背の高い小太りの丸顔の眼鏡をかけた男が、鉄の棒で、当院の正面玄関を突破しようとしている。私は思わずその盗賊、いや強盗殺人と目があった。
彼は、咄嗟に近くに車を止めており、共犯と一緒に立ち去った。警察に電話しても「気を付けてください」、ガード会社は、「すぐに、5分以内に参ります。」
そっけないものであった。私が、犯人に殺されない限り、誰も助けてくれないことが分かった。それにしても、何気なく、玄関へ私が夜中の2時に降りていくことは、ご先祖様のおかげか、第六感というものかもしれない。

「予知」孫の誕生予定日は、8月5日であった。実家で出産するということで、我が家へ長女は里帰りしていた。まさしく、8月5日、彼女の陣痛は、始まった。しかもその間隔は短縮する傾向であった。産院へ彼女は頻回に電話していた。産院のナース、医師が来てくださいということで、婿殿の大切な妻であり、初めての子供でもあり、私は、慎重に産院へ彼女を妻と運んだ。ナースがいうことには、産道がまだ狭く、一日ぐらいはかかるかもしれない、という話であった。私は明日の診療もあるし、まず我が家で待機することにした。しかし、夜中の2時半に突然、初孫が生まれた予感がして、産院へ急いだ。ブザーを鳴らし、家族と連絡したら、今、初孫が出産したとのことであった。初孫を拝むことができた。しかし、何故生まれたと感じたのであろうか?第六感であろうか?

「なんとなく」その日の診療は感冒で混んでいた。私は感冒患者を、手早く診察していた。しかし、その患者は、私は何となく、診察を止め、超音波撮影を施行した。なんと、肝臓癌を発見した。すぐに中核病家へ搬送したが、あの大勢の感冒患者から、何故肝臓癌を診断できたか、謎である。第六感であろうか?

「準備」今日は、中核病院で、夜間の小児夜間当直であった。小児科は私の専門ではない。故に、あらかじめ、小児科の予習をしていくのである。その日はなんとなく、水疱瘡の初診患者が初診で来院する予感がした。治療方針、薬用量をしっかり復習して、急患センターへ出かけた。やはり、水疱瘡患者が来院した。予習は充分してきたので、自信を持って診療できた。これも第六感であろう。

「夜中のラブレター」初恋の女性に40年ぶりに逢った。ある公的職場である。当時の思いが私の方が強かったのか、すぐに17歳の高校生に戻った。話も挨拶程度で悔いが残った。何か話をじっくりしたかったと、夜、やけ酒を飲んだ。
すっかり酩酊し、突然パソコンに向かって、ラブレターを書き、千鳥足で郵便ポストに投函しようとしたが、ご先祖様が“やめなさい”と叫んだ気がした。
突然理性が戻り、ラブレターは破り、布団にもぐりこんだ。これは第六感ではないが、大変な家庭問題になるところであった。

「禁酒」最近疲れやすく、年齢によるものかと思えば、飲酒量が増え、肝機能悪化、酒癖が悪く、酩酊し、次女のパソコンを壊し、仏壇の前で裸踊りをしていたらしい。私は,覚えがないが次女からきつく叱られた。このままでは社会的犯罪者になると思い、断酒剤を服用して、アルコールと縁のない世界になった。第六感ではないが、酒のない世界は素晴らしく、読書、随筆がはかどり、救急患者にもいつでも適応できる。

以上私なりの第六感を考察したが、皆さん、ご経験はありませんでしょうか?(完)第六感

投稿者: 大橋医院

2016.11.20更新

<旅立ち>
大橋信昭
(この随筆は終末医療を考えるために書かれており、現実症例は御家族の同意を得たものです)

在宅でも施設でも、患者さんの御様態からして、そのまま今、休んでおられるところで尊厳死とか看取りについてご家族と話し合うことがよくあります。最近ではマスコミの影響もあり、最後まで最先端延命治療を望まれない御家族が多くなりました。
「先生に全てをお任せします。」と言われますと、その責任の重さに腹痛を感じることがあります。看護師と介護士の協力のもと、頻回にケアマネージャーも交えて担当者会議が行われます。担当者会議の出席者は医師、看護師、介護士、ケアマネージャー、歯科衛、家族、でありそれぞれの立場になり意見を出し合います。患者さんの心停止までのそれぞれの役割、意見に最後は医師である私が総括することになりますが、私に協力してくださるco-medicalは素晴らしいものです。ご家族への声かけ、言葉の選び方、患者さんには必ず最後まで希望を持ってもらうように、できたら笑い声が起きるくらいの明るい雰囲気を作ります。患者さん、いつかはご遺族になられる方には、やはり最初から最後まで感情をnegativeにさせない言葉を選びます。みんなで協力して、全力を尽くして、患者さんが旅立たれるとか昇天、天国に召されるように頑張るとか、看取り体制に入っていくときの言葉はむつかしいものです。過去に仏になるとか、仏のようなお顔をして旅立たれたという方を思い出しながら、使います。
最近、遭遇した終末見取り例を思い出しながら、結論の出るはずのない症例が代表として3例、書かれることになります。

その老婆は1年前より右眼球に悪性腫瘍が発生していた。
日毎にその腫瘍は増大し、手掌大になった。
軟膏とガーゼ交換、胸水、腹水、
苦痛はひどいはずである。
しかし、その老婆は回診に行くと笑顔で、
「先生、治してくださいよ。」と笑うだけであった。
家族も決して苦痛だけは与えないでくださいというものの、
老婆はいつも笑っていた。
そして数日前、笑ったまま昇天した。
実に不思議な話である。
苦しいのを我慢しておれるはずはない、不思議にも笑ったまま天国へ行った。
いつも渋い顔をしていた息子さんもかなりの感謝の言葉を頂いた。腫瘍の発生場所の運が良かったのか、あの老婆の笑顔が忘れられない。
その家族は全員が刑事のようであった。長男、次男、娘さんがご家族だが、母親は90歳をとっくに過ぎており、高齢から来る廃用症候群であり、多臓器不全といってもよかった。それでも、介護士、看護師が頑張り、手と手を握りあい、肩をさすり、24時間見守り、付き添いによりその母親は寿命が保たれていると思われた。そんな素晴らしい介護体制を、この3人家族は、私を含めて尋問して、細かく手帳に記載した。この嚥下機能はなぜ低下してきたか?義歯が合わなくなったのはなぜか?転倒防止体制は万全か?
すべての質問を書く介護スタッフに浴びせた。私には老化からくるリスクを述べることであった。私は久しぶりに立腹した。これだけスタッフがこの老婆に全力を尽くしているのに、刑事のように尋問し細かくメモを手帳に書き付ける。私は、手を震えながら我慢した。ある夜に老婆は眠るように息を引き取ったが、駆けつけた家族は相変わらず私や看護師、介護士の話を手帳に書き付けたが借りてきた猫のように出棺の時はおとなしかった。

 その老婆は90歳代後半であった。やせ衰え寝たきりであったが、いつも手を合わせありがとうしか言わなかった。その日の回診時も笑顔がいっぱいいで、私は仲良くその老婆と握手した。カルテを見ると既往症は全くなく、病気一つもせずに年を重ねたことになる。2日後に眠るように昇天していた。家族は、感謝の言葉がいっぱいで、私もこんな死に様は羨ましいと思った。

 すべての人に言えることだが、どんな病気で、苦しもうが、胃瘻や気管切開で不自然に延命され、植物状態であろうが、ご遺体の顔は皆穏やかである。冒頭に書いたように仏のような顔になる。すべての苦痛から解放され、幸せそうな顔で正しく仏様である。
この穏やかな顔を見て、私はホッとして死亡診断書を書く。臨終に結論はないが、患者さんの残されたご寿命に医師として何が最善な治療か医療行為か悩む毎日である
たびたち

投稿者: 大橋医院

2016.11.19更新

<記憶の糸>    大橋信昭
 私は長崎県長崎市の生まれである。何故か私はこれを自慢する。大垣市の生まれでないことを自慢するのか、幕末に蘭学のメッカ長崎市出身であることが自慢なのか分からない。私は母の産道を苦し紛れに現世に現れたのは覚えていないが、長崎市から大垣市へ向かう電車の一場面を覚えている。母と父との間で抱擁されながら窓を眺めていると、石炭雄黒いガスが入り込み母に擦り寄っていた私を覚えている。無限のトンネルをくぐりながら電車は大垣に向かったのであろう。3歳のことである。
 次に私の記憶に残っているのは、大垣市南頬町の小さな木造家屋であった。父は仕事で疲れているのか、いつも機嫌が悪かった。母は父の仕事の経理を手伝っていたのか大きな台帳に数字を書いていた。「ここらが今の仕事の引き時だ!」と父はライオンのように吠えた。恐怖のあまり、母の後ろに私は隠れた。それから数日後、私の家にスマートボールの台がいくつも積まれてあった。4歳のころであろう。
 私は幼稚園に行くのを拒否した。5歳にして登園拒否である。何度も何度も母に叩かれ、数軒隣の年上のお兄さんと行かざるをえなかった。そのうち、幼稚園に行くのが楽しみになった。同級生の女性で一緒に登園してくれる女性が二人も現れたからである。やはり幼児の時でも、どうせ歩くなら異性のほうがよいのであろうか?ある日、千夏ちゃんが発熱で倒れこんでいた。氷枕で「信ちゃん、今日は一人で行ってよ」と言われた。もう一人の真理ちゃんはどうも恋の片道切符で疎遠になっていた。
 私は一人で蓮華草咲き乱れる田園をあぜ道伝いに登園した。季節の流れと田園の景色の変化を楽しんでいた。そんなある日、明らかに私は馬車に轢かれた。突然転倒し、頭の上を荷車が通過するのを覚えている。意識を取り戻したのは,自宅の蒲団の上であった。見慣れぬおじさんが土下座をしていた。父はやくざの様に猛烈に怒鳴っていた。「俺の息子をどうしてくれるのだ!」私はこの事件がどうやって解決したのか解らないが、あのおじさんが謝りに来たときは風呂敷を肩に垂らし、スーパーマンになりきり飛び回っていた。
父はいつの間にか我が家で病人として倒れ込んでいた。転職した石油販売業で、当時の素朴な機械で石油を誤嚥したらしい。父の闘病生活は長くあった.時々幻覚症状、何が反応しているのか苦悶症状をしていた。近くの慰謝が来ていたが、当時としては経過観察敷かなかったのではないか?私は何度も父の傍に呼ばれ、父は私の手を握り頭を撫ぜ、血tの涙を見た。しかし、父は元気になった.如何にして元気になり、記憶の糸が切れている。また雷親父に逆戻りであった。私はいつも父の機嫌がよいことをいつも願う日が続いた。大きな秋田県がいたような、部屋に小鳥がいたような、記憶の糸はつながらない。千夏ちゃんも真理ちゃんも記憶の糸には無くなった。母が血tの仕事を手伝うようになってから居残りが増えた。先生が優しくビスケットを下さった。それに時間をかけて食べ、画用紙に絵を描いていた。寂しかった。
今日は,すぐに帰れる!母が家にいるのだ、慎重に帰るぞ、馬車に轢かれるのは嫌だ。

 

  
いと

投稿者: 大橋医院

2016.11.19更新

<往診カバンは埃だらけ>   DR.NO 独田農 大橋信昭

 

<往診カバンは埃だらけ>    DR.NO

 私は往診カバンでございます。院長に購入され酷使されること17年がたちました。生まれたての頃は真っ黒の立派な表皮でしたが、今では埃だらけで昔の面影もございません。院長様、たまには私を掃除してください。さっぱりしたいものです。
 今日は、ある老人をめぐって深刻な話し合いが患者宅で行われます。私も同伴します。
 北風が敲きつけるその家は、木造の2階建てにあり,ひっそりと鎮まり帰っていました。一階に寝たきりのお爺さんと、お婆さんが、2階には若夫婦と子供たちが暮らしていました。お婆さんは、駅前通りに殆どお客が出入りしたこともない衣料品店を経営していました。お爺さんに朝食を与えて、来る当てもないお客さんを待つのです。その店の2階には離婚して傷心した娘さんが寝起きしているのです。この娘さんは魂が抜けており、老夫婦の年金の余ったお金で最低限の生活をしておりました。表に出ることには恐怖心を抱き、4畳半の天井のみ、見ていました。
 お爺さんは、もう寝た切り、ベット上で排泄物は垂れ流し、もう昼か夜か、春か夏か分からなかったのです。ただお婆さんは「主人は私だけが頼りで、いつも一緒でなくてはいけなく困ったものです。」と言われます。
  私は往診カバンでございます。院長に購入され酷使されること17年がたちました。生まれたての頃は真っ黒の立派な表皮でしたが、今では埃だらけで昔の面影もございません。院長様、たまには私を掃除してください。さっぱりしたいものです。
 息子さんも、生活に追われていました。運送業といえども厳しい世界で、朝も、昼も、夜もない生活です。お客さんの商品を要求のまま運びわずかな利益を得ていたのです。それではやっていけませんから、もっと多くのお客さんの要求にも応えねばなりません。寝る暇もないのです。奥さんもパートに出ていましたが、お爺さんの具合の悪化、お婆さんの痴呆が忍び寄り、狭いお自宅でお二人の世話に限界が来ていたので今井はお爺さんにのお客さんの要求にも応えねばなりません。寝る暇もないのです。奥さんもパートに出ていましたが、お爺さんの具合の悪化、お婆さんの痴呆が忍び寄り、狭いお自宅でお二人の世話に限界が来ていたので今はお爺さんに付き添っています。お孫さんたちも、アルバイトに出かけますのが、自分達の生活費に消えていくのです。
 ここに介護制度があります。今日、ケアマネージャー、私、訪問看護ステーション、ヘルパーなどと家族全員が集まり、話し合いました。院長は、会議の主導権を強く珍しく怖い顔をしておとりになりました。みんなが集まれる機会はめったにございません。院長の言葉はいつもと違って冷淡に、何の修飾も無かったのです。
 「お婆さんが言うようなお爺さんのこの家での生活は家族全員が共倒れです。お婆さんが夢見ているほど、お爺さんは何も分かっていません。介護はプロに任せるべきです。幸い私は老人ホームの嘱託医です。お爺さんは、最初不安でしょうが、デイサービス、ショートステイを利用すべきです。このまま、在宅のヘルパー、看護師の支援も受けましょう。夫の介護を施設に任せることは恥ではありません。お爺さんもきっと慣れてきます。施設を利用しなさい。そこにはエネルギッシュな若い介護士が一杯います。何もかも面倒をみてくれ、しかも若い人のエネルッギーをもらい若返りますよ。これは近所に体裁が悪いなんて、間違っています。よし、今、私が施設に電話します。段取りを取りましょう。お爺さん、お婆さん息子さん夫婦、お孫さん、在宅で世話する人たち、みんな幸せな方向へ向かいます。施設にいる寂しいお爺さんのところへはお婆さんはいつでも行ってやってください。後は、私が何でも責任を取ります。このままではだめです。前向きに幸せの風をこの家に呼び入れましょう」
 とんとん拍子で、施設利用は決まりました。もう陰で、ののしりあうお婆さんとお嫁さんと、間で苦しむ息子さんの苦痛も減るのではないでしょうか?
 こんなご家庭が現実です。
 最近は私も院長もターミナルで疲労の極致に何回かなりました。
 少し告白させてください。プライバシーは守るように書きます。不愉快な人は読まないでください。

 彼は裁縫職人として知られていました。ひたすら、針と糸と布地に戦いながら何十年と畳に座り続けたのです。
 80歳を超え、彼は体力の低下を感じ、当院を受診しました。肺の進行癌でありました。家族は「最後まで、自宅で仕事をさせてやりたい。助からないなら、彼の好きな仕事をできるまでやらせてやりたい。助からないなら彼の好きな仕事をできるまでやらせてやりたい」ということを言われました。しかし、病気は進行し,寝たきりになり、何も食べられなくなり意識混濁となりました。一日1000mlの補液で、最後の瞬間を私と家族は待っていたのです。不思議なことが起こりました。
 脳死になっているのではないかと思われる彼が昇天直前、「先生、ありがとう」と言って笑顔で息を引き取りましたのです。科学では解明できない現象でありましょう。

 彼女は胆管癌で黄疸も出現、苦悶は極限に達していました。どんな鎮痛剤も彼女の苦痛をやわらげることはできませんでした。あまりにもの悲惨さに院長は救急車で中核病院に入院させました。モルヒネで昏睡にさせたのです.しかし、ほんの意識が回復した瞬間に、
彼女は主治医に直訴したのです。「私を家に帰してください。家に帰さないとあの世から恨みますよ」と主治医は聞いたのです。慌てた彼は院長に在宅ターミナルを懇願しました。家族の希望により、点滴ルートを外し、苦悶を訴えるときのみ、モルヒネを注射しました。一週間の苦しみのあと、昇天されました。住み慣れた家と多くの家族に看取られ幸せそうでありました。

 八百谷のご主人がありました。病気のためか、50台をはるかに超えた老人に見えました。お子さんたちは「いつまでも、少しでも生きていて欲しい」。ぺーすめーかーと言われました。院長は御自宅に往診し,患者さんを診察し中心静脈を確保し、ヘパリンロックを使い、朝9時から夕方7時まで高濃度のカロリーを点滴し、モルヒネを持続的に投与し、お子さんたちの希望に応えました。ある日のことであります。患者さんは言われました。「先生、私のお腹を診てください、この手術痕、最初の手術も手遅れだったのです。この子たちが熱心に懇願するものだから手術を受けました。2回目は癌が腸に転移し、閉塞したのです。姑息的な腸の手術もこの子たちの涙で受けました。先生、もう勘弁してください。もう点滴はやめてください.全ての医療を止めてください。」と言われました。全ての補液、治療を止めて、彼は一週間後昇天されました。夜明けの4時でたちの涙で受けました。先生、もう勘弁してください。もう点滴はやめてください.全ての医療を止めてください。」と言われました。全ての補液、治療を止めて、彼は一週間後昇天されました。夜明けの4時で薄ら明るかったが、微笑んでいるようでありました。

 102歳の老婆の娘さんは元看護師さんでありました。おおきな中核病院の婦長をしておられました。お婆さんはさすがに衰弱しておられました。ペースメーカーが彼女を無理に延命していたのです。彼女はそのペースメーカーをかなり悪性腫瘍の様に気にされました。元看護師の娘さんが、訴えました。「先生、このまま自然死で結構です。しかし、母はあれほどペースメーカーを気にしていました。なくなったら、あの機械を取り除いてください。」と言われました。ある午前3時にお婆さんは亡くなえられました。娘さんの希望通り、院長はメス、糸とガーゼを私の往診カバンに入れ往診されました。死を確認された後、メスをいれ機会を取り除き、老母も娘さんも満足そうでありました。

 いやな話ばかり書いて、ごめんなさい。私と院長はこの後、例えようのない疲労が全身を覆うのです。院長は必ず言います。「頑張って明日も白衣と聴診器で頑張るぞ!」おっと!私、往診カバンもまだまだ頑張りますよ。
  
ほこり

投稿者: 大橋医院

2016.11.18更新

しんさつ

<シュライバー>  DR.NO

 シュライバーとは書くとか記録することをドイツ語でschreibenというところからきたのか、上司、主に教授の外来の記録係をいう。特に医師になりたてのフレッシュにとって、教授の外来のシュライバーをやらしていただくというのは光栄の極みであるはずである。教授のお傍で、診察技術をご指導してもらい、検査の進め方、処方なども勉強できるのである。しかし、いずれのフレッシュもこの日は憂鬱なのである。またどんなことでも、お叱りを受けるかわからないからである。
 私もシュライバーになる日が来た。おはようございますにも緊迫感が漂っている。私語など交わす雰囲気ではない。私の最初の仕事は教授の処方を処方箋に書き写すという単純な仕事である。つまり、薬の名前や処方の量が勉強できるのである。そこで私は教授の処方で最初とても感心したのである。カルテにRp:do 3x1毎食後と書いてある。そういえばどのカルテにも“do”がよく書いてある。これはよく使う薬で、是非どんな薬か後で勉強せねばならぬと思った。堂々と処方箋にRp:do 3x1毎食後と薬剤部に回した。早速、薬剤部から電話が入った。処方箋にdoを書いたやつは誰だというお

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<同級生>

大橋信昭

 土方君とは帰り道がいつも一緒で、同じ中学3年生のクラスメートであった。実は、僕は中学2年までは、いつも、学校のテスト成績はクラス一番であった。
記憶は小学校4年ぐらいまで遡るが、クラスで勉強は一番、クラス委員は僕が当然やるということは当然の事であった。ところが、肝心の中学3年生になって、どうしても成績がかなわない男が今、一緒に歩いている土方君であった。
クラスで2番、これに僕の母は激怒した。「どうして一番じゃないの!何よ、2番て?」しかし、いくら母が怒っても、彼にはかなわないのだ。帰宅道中、彼は指導教官みたいに僕を刺激した。「何だって!君は朝日新聞の天声人語は読まないのか?」「僕の所に朝日新聞は無いんじゃないかな?」土方君は「これは日本の常識で、朝起きたら、まずは天声人語だよ!」困ってしっまた。あのいつ怒り出すかもしれない父に朝日新聞を勉強のためにとってくれと、お願いするのにかなり勇気が必要であった。朝日新聞は毎日、届くようになったが、天声人語は苦手であった。土方君はこうも言った。「夏目漱石の3部、坊ちゃん、吾輩は猫である、草枕は常識として読んでいるのかい」、僕は真っ青になり、本屋に急いだ。母親に「この3冊を読むことは受験勉強にとても大切なんだ。」、買ってもらったが、“坊ちゃん”だけは分かりやすく、“吾輩は猫である”は途中から漢文、物理学が常識として使われており、主人公の猫が絶命するまでに、僕の頭は、破裂寸前であった。“草枕”に至っては、最初から分からなかった。
「智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、とかくこの世は住みにくい、、、、」
最初の2-3ページはあまりにも哲学的で、還暦過ぎても分からない。これを夏目漱石は30歳を過ぎた時に人生を振り返って書いたのである。土方君はまた僕を刺激した。「君、芥川龍之介の歯車は読んだだろう。もちろん全作品は目を通すべきだ!」僕はめまいがした。教科書で「蜘蛛の糸」は仕方がなく読んだが、他の作品は知らない。父は怖いから母を本屋に連れて行き、「どうしても、クラスで一番になるには、あの土方君を追い越さなくちゃいけないんだ。どうしてもこの芥川全集を読む必要がある。」すると母は、「最近、信昭は勉強をほとんどせずに、本ばかり読んでいるけど、そんなことでクラス一番になれる?」、
仕方がないと買ってくれた。必死に読みふけっていると、土方君が僕の書斎に遊びに来た。「しかし、君は、ドストエフスキーは一冊もないね。僕はね、“罪と罰”を読み終わり今、“カラマゾフの兄弟”を読んでいるのだ。」と不敵な笑いを残し帰って行った。僕は息切れをして過換気になったと思う。貯金してあるへそくりから、こっそり、旺文社の世界文学大全集からこのどこの国の人か分からないのに本を読もうとしていた。夏休みになって、自由研究の宿題が出た。僕は別の少し成績悪い友達と適当に科学に関する研究で済ませた。いい加減に勉強もしないと来年は受験なのだ。夏休みが終わり、自由研究が発表されると、驚いたことにあの土方君の研究が学年で最優秀賞になっていた。「浮力に関する研究」としか理解できなかった。土方君は僕の自由研究を軽蔑するように観て、「君、何故、あの重い飛行機が空を飛ぶことを考えたことは無いのかい?」と言った。僕は理科の授業は土方君がいてもいつも百点に近く、先生の話は全て聞いていたが、“浮力”は、初耳であった。このまま、卒業まで馬鹿にされ続けられるのかと、初めての屈辱感を感じた。
 そんなときである。学校側が、両親が無い子、片親の子を集めて、なにか特別な授業をやるらしかった。不思議なことに、あの土方君も、集められていた。
聞くところによると、あの土方君の御両親はいなく、おじさん夫婦に育てられているらしい。それで、お金も迷惑のかけない「工業専門学校」に進学するそうだ。僕なんか両親がきちっといて、その後、岐阜高校から医学部へ進学することになるのだけど、土方君は高業専門学校を卒業し、いったん企業に就職し、お金を苦労して貯金し、京都大学の工学部から、ソニーへ入社したらしい。開発品が優秀で、世界的な賞状をもらったと聞くのは随分、後の事である。
 しかし、土方君は両親もいないのに、少しも寂しそうな顔をせずに、僕をいつも刺激し続けた。中学を卒業し、岐阜高校の数学の宿題を大垣の図書館で悪戦苦闘していたら、「随分、レベルの低いことをやっているのだね。」と相変わらず土方君は、もう大学生がやっている数学の本を開いて笑った。「君、労働についてどう思う?」と彼は聞いた。「いや、実は僕は医師になりたくて、今のところ、勉強だけでよいと、両親が言うものだから?」すると、彼は険しくなり、「君、労働を馬鹿にするものでは無い!僕は今、北海道の酪農の仕事を手伝って帰ってきたところだ!マルクス曰く!!、、、」「降参!!」仕方なかった。
 それから僕が40歳を越して、中学のクラス会をやるというものであるから、クラス幹事として、土方君の住所と連絡先、電話番号をやっと調べた。同窓会をやりたいから、ご主人と話がしたいと、やっと奥さんに連絡が取れた。しかし、彼は電話に出なかったし、その後のクラス会にも顔を出さなかった。どうして、逢ってくれないのだろう。エリート会社に就職し、社会的にも立派に成功しているのだろう?でもあきらめた。彼が姿を出さない理由が分からない。このことは初恋の失敗より辛いものであり、両親もいなく、自力で社会で成功した彼は、僕なんか甘えん坊にしか見えないのであろう。どこかで、また逢えないかな?土方君!!(完)

とも

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<旅立ち>
大橋信昭
(この随筆は終末医療を考えるために書かれており、現実症例は御家族の同意を得たものです)

在宅でも施設でも、患者さんの御様態からして、そのまま今、休んでおられるところで尊厳死とか看取りについてご家族と話し合うことがよくあります。最近ではマスコミの影響もあり、最後まで最先端延命治療を望まれない御家族が多くなりました。
「先生に全てをお任せします。」と言われますと、その責任の重さに腹痛を感じることがあります。看護師と介護士の協力のもと、頻回にケアマネージャーも交えて担当者会議が行われます。担当者会議の出席者は医師、看護師、介護士、ケアマネージャー、歯科衛、家族、でありそれぞれの立場になり意見を出し合います。患者さんの心停止までのそれぞれの役割、意見に最後は医師である私が総括することになりますが、私に協力してくださるco-medicalは素晴らしいものです。ご家族への声かけ、言葉の選び方、患者さんには必ず最後まで希望を持ってもらうように、できたら笑い声が起きるくらいの明るい雰囲気を作ります。患者さん、いつかはご遺族になられる方には、やはり最初から最後まで感情をnegativeにさせない言葉を選びます。みんなで協力して、全力を尽くして、患者さんが旅立たれるとか昇天、天国に召されるように頑張るとか、看取り体制に入っていくときの言葉はむつかしいものです。過去に仏になるとか、仏のようなお顔をして旅立たれたという方を思い出しながら、使います。
最近、遭遇した終末見取り例を思い出しながら、結論の出るはずのない症例が代表として3例、書かれることになります。

その老婆は1年前より右眼球に悪性腫瘍が発生していた。
日毎にその腫瘍は増大し、手掌大になった。
軟膏とガーゼ交換、胸水、腹水、
苦痛はひどいはずである。
しかし、その老婆は回診に行くと笑顔で、
「先生、治してくださいよ。」と笑うだけであった。
家族も決して苦痛だけは与えないでくださいというものの、
老婆はいつも笑っていた。
そして数日前、笑ったまま昇天した。
実に不思議な話である。
苦しいのを我慢しておれるはずはない、不思議にも笑ったまま天国へ行った。
いつも渋い顔をしていた息子さんもかなりの感謝の言葉を頂いた。腫瘍の発生場所の運が良かったのか、あの老婆の笑顔が忘れられない。
その家族は全員が刑事のようであった。長男、次男、娘さんがご家族だが、母親は90歳をとっくに過ぎており、高齢から来る廃用症候群であり、多臓器不全といってもよかった。それでも、介護士、看護師が頑張り、手と手を握りあい、肩をさすり、24時間見守り、付き添いによりその母親は寿命が保たれていると思われた。そんな素晴らしい介護体制を、この3人家族は、私を含めて尋問して、細かく手帳に記載した。この嚥下機能はなぜ低下してきたか?義歯が合わなくなったのはなぜか?転倒防止体制は万全か?
すべての質問を書く介護スタッフに浴びせた。私には老化からくるリスクを述べることであった。私は久しぶりに立腹した。これだけスタッフがこの老婆に全力を尽くしているのに、刑事のように尋問し細かくメモを手帳に書き付ける。私は、手を震えながら我慢した。ある夜に老婆は眠るように息を引き取ったが、駆けつけた家族は相変わらず私や看護師、介護士の話を手帳に書き付けたが借りてきた猫のように出棺の時はおとなしかった。

 その老婆は90歳代後半であった。やせ衰え寝たきりであったが、いつも手を合わせありがとうしか言わなかった。その日の回診時も笑顔がいっぱいいで、私は仲良くその老婆と握手した。カルテを見ると既往症は全くなく、病気一つもせずに年を重ねたことになる。2日後に眠るように昇天していた。家族は、感謝の言葉がいっぱいで、私もこんな死に様は羨ましいと思った。

 すべての人に言えることだが、どんな病気で、苦しもうが、胃瘻や気管切開で不自然に延命され、植物状態であろうが、ご遺体の顔は皆穏やかである。冒頭に書いたように仏のような顔になる。すべての苦痛から解放され、幸せそうな顔で正しく仏様である。
この穏やかな顔を見て、私はホッとして死亡診断書を書く。臨終に結論はないが、患者さんの残されたご寿命に医師として何が最善な治療か医療行為か悩む毎日である。
たび

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<私の愛した人>
大橋医院 院長 大橋信昭
私は11人兄弟の7番目の子です。どうでもいい子なんですよ。この田山家には私も主人ももらわれてきたのですよ。
どうでもいい子だったのです。それでも義理の両親ですけど私を可愛がり、主人も愛してくださったのですよ。
学校の先生でしてね。生徒たちからも近所からも「先生!先生!」と言われて土地になじまない私たちを支援してくださったのですよ。
お恥ずかしい話ですが、男の子を二人授かりまして、それはそれは大切に育てましたのよ。
甘い新婚生活なんてあったかしら。育児や家事に追われ、間もなく、姑が脳出血で倒れたのよ。
当時は、家で嫁が世話をするのが常識だったけど、辛かったわ。病院なんて入れないの。主人は学校の先生だから、そのお給料だよりだけど、お医者様はよく往診してくださったわ。
私も若いなりに、子供を教育しながら義母の面倒を身を粉にして世話したけど、当時の医療では3年で他界されたは。悲しかったけど、本の一息がついたわ。
 息子の成長と主人の老化は比例するのかしら。主人は管理職で定年前の64歳の時に、突然倒れたのよ。脳梗塞だって後でわかったわ。
その時は、救急車を呼んで「あなた、大丈夫?頑張りなさい!」と看病に必死だったわ。
中核病院に搬送され、いろんな検査を受けた結果、主人は右半身麻痺と言語障害を合併した左の脳梗塞であったらしいわ。
 病院の集中治療室から一般病棟へ、そしてリハビリテーションが始まったの。私はつきっきりだったわ。
息子ふたりはたまに見舞いに来たけど、男の子はダメね。「まー喋らないオヤジなら僕仕事に帰るよ」勝手なものね。
 病棟の部長さんがやってきて、国立リハビリセンターに転院しなさいって言うのよ。それは山奥にあるのよ。仕方がなくリハビリセンターにいったわ。
山へ向かう途中のトンネルを越えるごとに涙が出たわ。でも、私の愛した主人なんだから、少しでも良くなるように願っていたの。
2年が経ったかしら。私は一生懸命に、看病したのだけれど、やはり右半身麻痺と言語障害は治らなかったは。
 もう家に帰りたいって主人はこの頃から、駄々をこねたわ。自宅を介護ができるように改造して連れて帰ったわ。
近くにかかりつけのお医者さんがいたから、時々往診に来てもらい、リハビリも続けたのよ。
 主人も今年84歳よ。姑の看病と20年の夫の看病、いくらかつて愛した夫だけど、私の人生はどうなっているの?
そんなことを考えていたら、夫の様子がおかしいのよ。食べれなくなり、息苦しそうなの。近くの診療所に介護タクシーで連れて行ったら肺炎ですって。
紹介状を書くから中核病院へ行きなさいってそのドクターはおっしゃったわ。とても親身になってくれるの。
すぐに中核病院へ行ったら抗生物質の点滴を1っ週間やって、「もう高齢だから近くの病院へ行くように、2度とこの病院へ来てはいけない。」と言われたの。
私の街の中核病院なのにひどい話ですよ。それで、近くに中小病院があったので、そこへ移ったの。
 その時よ。主人が動く方の手で遺書を書いたの。
「私は苦しまずに痛くもなく、胃瘻や中心静脈栄養のような不自然な治療を拒否します。すぐに家に帰りたい。家で死にたい。」と言い出したの。
"絶対帰りたい。家で尊厳死を激しく主張するの。根負けして、家に帰ったの。
だって、近くに在宅尊厳死を一生懸命に取り組んでいられる、優しいお医者さんがいるので頼んだの。
すぐに来てくださって「訪問看護ステーションの看護師と介護関係の協力を得て頑張りましょう。」そのお医者さんは土曜も日曜も、
夜中も関係なく何回も往診してくださったの。その先生は私を注意するのよ。「奥さん、私に任せて!そんなに動き回ったら奥さんが倒れますよ。」
私は大丈夫。私の主人を丁寧に診察してくださるのね。長くても一週間の主人の命だと先生はおっしゃるの。
私はもっと長生きしてもらいたいから、主人に全力投球をしたの。痛いところはさするようにしたし、今までの夫婦の生活を思い出して、楽しかった頃の話を一生懸命したの。
家に帰って11日目かしら、全く動かなくなったし、下顎呼吸というのかしら、とても危ないって私にもわかったのよ。
近所のお医者さんがすぐに駆けつけてきて下さりもう付きっきりなの。
そして私にこう言ったわ。「奥さんの御主人に対する愛情はようわかりますが、もう2時間ぐらいでしょう。一旦帰りますが、それまでご主人と大切な時間を作ってください」
そして、私は主人が蘇るようにまた全力投球したの。でもあのお医者さんが言うように、徐々に主人呼吸が少なくなっていったの。
何を喋っても。もう一度あのお医者さんに電話したの。お医者さんはすぐに駆けつけ、「ご臨終です」死亡時刻午前11時3分ですって。
「奥さんは頑張られました。素晴らしい在宅尊厳死です。」死亡診断書を作った医師は主人に向かって合掌し深々と頭を下げ帰っていったの。
明後日には荼毘にされるのよ。主人をきれいにしとかなくちゃ。「ねーもう一度喋ってみて」と主人の耳元で大声を出したの。
でも私は馬鹿ね。ありがとうパパ。いつの間にか涙で私はいつまでもいっぱいで主人の顔を見ていたわ。これから一人になるのね。
もう一度最後に言うわ。ありがとうパパ!

あい

投稿者: 大橋医院

2016.11.17更新

<牢獄>
大橋医院 院長 大橋信昭
(この文章は私の創作したもので現実と関係がありません。)

 森竜二氏は、母の最後も妻の最後も、私により看取られていた。妻の最後は、かなり精神的に落ち込んだらしく、いつもの口癖が連発していた。「先生、早くあの世へ送ってくださいよ。」「神様がお与えた寿命は生きねばなりません。」と神妙に答えるだけであった。
 しかし、その後、森氏の家の前を通ると、必ず、彼は背中で悲しみを最大限に表現し、うなだれていたのである。何かよほど人に相談できないような問題を、自分の胸の中に締まっていたに違いない。
 森竜二氏は、慢性心不全、肺線維症で在宅酸素療法を施行しており、もう約10年間通っている患者さんである。「最近の調子は如何ですか?」「先生、絶好調ですよ!もう酸素いりますか?」と無理な作り笑顔を作った。内服と在宅酸素療法は永久に必要である。「お大事に。」の私のスタッフたちの笑顔に満面で同様な笑顔が返っていた。
 ある日曜日の朝、近所の人が、チャイムを鳴らし、「先生、すぐに来てください!!」私はとりあえず洗顔だけ済ませ森竜二氏の自宅に駆け付けたのである。
彼の希望通り、彼は冷たくなっていた。何の生命反応も見られない。独居である。この後どうするのか?組長を呼んで、隣の中森氏と、森氏の机の上に置いてある“遺書”を森氏のかかりつけの弁護士にも来てもらって中身を読んだ。
第一文は、息子さん宛てである。「幹夫よ!私はお前を信じている。きっと社会復帰してくれるだろう。だから真面目に刑期を務め、一人前になりなさい。私も、母も、祖母もいないが君なら、きっとやっていける。信じているよ。刑期がすぎ再会を楽しみにしている。」
第二文は自分の死後の手順であった。「私の死後、町内には一切迷惑をかけないでいたいのです。私の興亡寺の住職に頼んであるから、枕経だけいただき、戒名は必用がありません。初七日も必要なし、医師に死亡診断書を書いてもらい、すぐに荼毘をしてもらいたいのです。お願いします。」
 噂では、息子さんが世間へ出られない事情があることは知っていた。みんなで話し合った。「まず枕経を読んでもらいましょう。」「私は死亡診断書を書いてきます。昨日に、実は沈んだ表情でしたが24時間以内に診察していますので、
検死は必要ないと思います。」弁護士は「刑務所の中の彼に父親の死を知らせましょう。逢えることはできません。一人っ子のようですので相続は問題が起きないでしょう。」近所の中森さんは「私は、班の人たちとひとまず祭壇を作り、
ここに書いてある連絡先、おそらく遠い親戚でしょうが読んでみます。」
それぞれが役割を分担し、冠婚葬祭業社は荼毘や特殊自動車や、小さくても形だけの葬儀をするべきであると連絡し、2時間後最集合である。
 驚いたように遠い親戚の人が現れた。「私たちは普段、お付き合いがないのですよ。息子がしっかりしていればね。」近所の人たちの献身ぶりを見て、葬式の喪主になってもらった。荼毘も済み、お骨の半分はお寺に引き取ってもらい、やがて出所してくると思われる息子さんのために、法名のない位牌の横にお骨が置かれた。夜も6時を過ぎ、初七日はやるべきであると近所の人のご意見であった。ご住職はもうお帰りになり、私にお経さんを読んでほしいという話であった。驚いたものだ。朝は死亡診断書を書いたのに、夜には住職の役である。ともかく、大きな声でお経さんを読み皆さんの合唱に後押しされ、住職の役は務まった。
 翌日もいろんな雑用があったが、親戚の人も、ふってわいた災難のようだが、一生懸命働き、ひとまずひと段落した。みな、疲労は隠せないし、森竜二氏への最近の悲しみの理解と同情とを共有し、家の鍵は顧問弁護士が預かり、あとは息子の出所待ちである。
 数か月がたち私たちも、森氏のことは忘れて、日々の生活に追われていた。
ある日、真っ暗の森氏の家に明かりともった。どうやら、出所したようである。
数日後、私の診療所に現れ、照れ笑いに「すいませんでしたな。」と軽く頭を下げ帰宅した。私は怒りに震えた。あのお父さんの悲しみを彼は理解しているのか。何だ!あの旅行から帰ってきたようなあの態度は?不愉快であった。やはりである。今回のことで一番ご苦労された中森さんは、この息子の態度に激怒し大喧嘩となりそうになり、パトカー騒ぎとなった。

 何か月も経つと人々はやさしいものである。警察の保護下で、彼は仕事を始めた。町内の雑用にも参加し始めた。口をきく人は少なかったが、理解される方が出来はじめた。今度こそ、まともな町民になってもらいたものである。
もうすぐ祭りだ。彼はお父さの紋付き袴で出席するであろう。私もお父さんの森竜二さんのことを思い出し、そのすべてを知り、息子さんを応援する気持ちになった。医師とはいろんな仕事があるものだ。診察、死亡診断、冠婚葬祭、住職、出所者の社旗復帰である。
 月日がたてば、何事も無かったような平和な町内になっていた。今年の夏祭りも皆さんはきっと頑張るだろう。森氏も私も頑張るつもりだ。祭りが楽しみだ。
ろうごく

投稿者: 大橋医院

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