2020.10.19更新

短歌:

1)大島へ 久しぶりに 渡航しても 目指す火口は 霧の無情砂漠

2)ステイホーム 内科問題を 答えれば 解くは 心臓問題 他臓器に苦しむ

3)医師なのに 若い人妻に 恋すれば 認知症だと 世間はさげすむだろう

4)独り書斎で 愛読書を 眺めれば 戦の血が沸き 殺人推理に非しむ

5)休日に 小椋佳の音 聞き入れば 青春の絵が 涙が頬に

6)苦労しか かけない妻 何度も遭うが 眼を合わせれず

7)窓の外 冬雲忍ぶ 我無心 重ねる歳 過ぎ去る日

8)美女と すれ違う 貧しき日、若き頃の恋 苦しい切ない

9)冬空に 暗い下宿に 灯りつく 毛布をかぶり パンで飢え忍

10)医学道 これしかないと 講義メモ 眺めながらに 論文で喝!おおはし

 

 

投稿者: 大橋医院

2020.10.14更新

また逢う日まで:

また逢う日まで、新型コロナが心配ならば、大橋医院は、

すぐにでも、PCRをやってくれるよ!

そんなに並ばなくて、行列が嫌なら、大橋医院へ行こう!

すぐにPCR!陰性か?陽性か?はっきりするさ!おおはし

投稿者: 大橋医院

2020.10.12更新

医師の宿命:医師として;なぜ医師になったか?
医学生のころ、研修医のころ、研究に没頭してた頃、開業して苦労して今日、新型コロナは皆さんに迷惑かけないように診察する、シュバイツアーに負けない!美女には弱い!おおはし

投稿者: 大橋医院

2020.10.10更新

伊豆大島断層:今日、ブラタモリで、伊豆大島の断層の不思議というか驚きというか、唖然としました。ドイツ語で”sprachlos"(スプラッハロス)、来週、10月17日は噴火口まで行きます。来週の、ブラタモリもお見逃しなく!何しろ、”地質断層前”というバス停があるし、バウムクーヘンのようなんです。ご覧になった方は分かりますね。しかし、タモリの博学には驚きました。少し大島のネット情報と写真を載せます。

伊豆大島の山頂には広い陥没カルデラがあります。この陥没カルデラは5世紀、7世紀の爆発的噴火によって生じたと考えられています。カルデラ形成後、 1777年までおよそ10回の大噴火があったことが地質調査から明らかにされています。これらの大噴火では島の内外に大量のスコリアや火山灰が堆積したほか、規模の大きい溶岩流が流れ下っています。現在の山頂部を形成する三原山は主に1777年の噴火(安永噴火)で形成されたと考えられています。1777年噴火以降、三原山火口からストロンボリ式と呼ばれる赤い溶岩を吹き上げる噴火を繰り返し、その噴火は「御神火」と呼ばれ島の人々に崇められてきました。最近の比較的大きな噴火は1986年(昭和61年)に発生しました。

1986年噴火は、三原山火口からのストロンボリ式噴火で始まり、溶融した溶岩を高く吹き上げる溶岩噴泉とよばれる噴火が数日間続きました。三原山火口を満たした溶岩は火口縁からあふれ出し、三原山の山腹を流れ下ってカルデラ床に広がりました。その後いったん噴火は小康状態になりましたが、突然カルデラ床から激しい割れ目噴火が始まりました。割れ目火口は次第にカルデラの外にまで拡大し、割れ目火口から流れ出した溶岩流の一部は山麓の元町集落に迫りました。そのため、全島民が一時島外に避難することになりました。その後現在まで比較的静穏な状態が続いています。

地元の人は、火山が噴火をおめでたいというし、噴火近くまで行って、灰皿まで作るし、七五三の日に噴火があったと、遊び道具と言うか、楽しんでらっやる。考えられんですな?おおはし

 

投稿者: 大橋医院

2020.10.10更新

青木昆陽:今、NHKのさつま芋の番組を鑑賞していたら、すぐに青木昆陽の名が浮かんだ。有名でしょうが、最近、「いしやきーーーいも」という動く焼き芋屋さんなんてなくなりましたね。私は、最近、食べていませんし、あまり食べたくもありません。青木昆陽のネット情報と、サツマイモの写真を載せます。

サツマイモの普及
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を青木昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。

元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命し、身分が幕臣となった。

昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘(後述「佐藤信淵による批判」章を参照)に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。

日本の飢餓時代、つい私の子供のころは、お世話になりました。お通じが良すぎて、おならが出ますので、いいイメージを持っていませんが、サツマイモが無かったら、大変でした。今、世界では人気商品らしいですね。おおはし

投稿者: 大橋医院

2020.10.06更新

古城 島崎藤村

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の
岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
おおはし

投稿者: 大橋医院

2020.10.02更新

シュバイツァー博士のアフリカでのアフリカでの活動:

「シュバイツァー」は30歳から医学部で学び、アフリカに旅立つ
30歳になったシュバイツァーは、「世のために尽くす」との思いから、医学部に入学します。その後、38歳で医学博士を取得し、医療活動のために、1913年アフリカのガボンに旅立ちます。

シュバイツァーは、ガボンでは文字通り、一から医療活動を開始しました。鶏小屋に始まり、バラックの診察小屋に竹小屋という簡素な作りながらも、多くの患者が連日列を作ったようです。しかし、戦争によって1914年に医療活動は中断、シュバイツァーは当時ガボンがフランス領だったため捕虜となり、ヨーロッパへと帰還させられてしまいます。

ヨーロッパ各国で講演、資金調達をして医療活動を継続
保釈後、故郷へ帰ることが許されたシュバイツァーでしたが、ほどなくしてヨーロッパ各国での講演をはじめます。ここで得た資金で、先のガボンでの医療活動でできた借金を返済するとともに、再度ガボンでの医療活動に必要な元手を作りました。

1924年、医療活動の再開を実現しますが、飢餓と赤痢によって増える患者のために、さらに大きな病院建設の資金や設備費・人件費などが必要で、シュバイツァーはガボンでの医療活動の傍ら、ヨーロッパ各国での講演活動に尽力し続けます。晩年には、医療活動を継続しながら、反核運動にも参加しています。シュバイツァーが90歳で死去すると、長年尽力したランバレネ(ガボン)の土地に埋葬されました。



おおはし

投稿者: 大橋医院

2020.10.02更新

シュバイツァー博士に負けないのだ!

シュバイツアー博士は、ドイツで、神学者で、哲学者で、一生裕福な生活を保障されていた。周囲の反対を押し切り、医学の勉強で資格を取り、

無謀にも、未開の地アフリカにわたり、そこで現地の診療に一生を捧げた。

私の診療も、信頼と情熱と医学の勉強には、シュバイツアーに負けたくない!!!おおはし

投稿者: 大橋医院