2020.06.09更新

物の理ものを理解する時に、どこかで止まる。もうこれ以上、進めない、理解できないというところに突き当たる。自分の考えにこだわり、
相手の考えを耳に入れない。全体の状況を考えて、多角的視点から、適切な判断を下せない。人は、自分のいやな事、知りたくない事、興味のない事に対して、その情報を無視しようとする。耳をかさない人に話が通じない。「話せばわかる。」「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえる。」というのは、幻想に近いのか。人は、知りたくないことに耳を貸そうとしない。人間は、そもそも関心がなかったり、信条的になっている状態では、話してもわからない。自分は正しくて、相手は正しくない。個人の間のコミュニケーションだけでなく、戦争、テロ、民族間宗教間紛争までたどりつく。互いに話が通じない関係は世に蔓延している。人は、自分の脳に入ることしか理解できない、学問が最終的に突き当たるのは、自分の能である。様々な意見が否定されないのは住みよい社会である。個性、独創性教育は、脳

や文明の方向性と矛盾する。本来、意識は、共通性を徹底的に追求する。意識の共通性を徹底的に確保する為に、言語の論理と文化、伝統ができる。伝統は、本来は、人間の知恵の集積である。個性を伸ばす事よりも、まず、他人の気持ちを聞き取れる、理解できるような教育の方が大切と考える。 現代人は、無意識、身体、共同体を忘れている。学習は身体を通した出力によって成り立つ。共同体の忘却は、共通了解の喪失を意味する。日本では共同体に機能主義が勝ってしまった。理想の共同体は、人間の理想の方向の結果として存在する。「理想の国家」が先にあるのではない。かつては「誰もが食うに困らない。」が理想のひとつの方向だった。今はそれが満たされ、理想がバラバラとなった。今、理想のひとつの方向と考えられるのは、「人生には意味がある。」という考え方である。人生を一言で言い切れると思っている。人生に唯一の答えがあると思っている。人生の意味は自分だけで完結するものではなく、周囲の人、社会との関係から生まれる。日常生活において、人生の意味を見い出せる場は共同体、社会しかない。人生の意味として今考えられるのは、共同体、社会、環境、周囲の人、である。社会適応性でしか測れない。何かの能力に秀でている人はいるが、別の何かが欠如していることが多い。現代社会は脳化社会、意識中心社会をおおはし作り上げ、肥大化した人間の脳は、言語や芸術、科学、宗教を生んできた。

 

投稿者: 大橋医院