2022.05.14更新

<沖縄は、日本です。私は沖縄県を差別なんかしません>
    大橋信昭
私は1953年7月31日生まれなので、佐藤総理が米軍統治の沖縄が日本の戻されたという事実は知っていますが、
昨日、TVで、返還前はドル紙幣を使い、英語教育も優先されていたのか、知りませんが、日本領土になったら、持っていたドルを円に換えねばいけない。パスポートなしで自由に、
九州だろうが本州だろうが四国、北海道、国内は自由に行動ができます。私は、宮古島から、もう25年以上、一緒に働いている女性を知っています。彼女は子供のころの苦労話は滅多にしませんが、長いこと同じ職場にいると、思わず、辛かったことが、私の耳に残ります。彼女から直接、聞いていませんが、私の想像で彼女の、宮古島から私の職場に至った話をフィクションとして書きます。彼女がこの分を読み激怒したら、この文章はすぐに削除します。
「私は宮古島出身です。生まれたときは、電気もITもありません。牛を使って田畑を耕していました。島の人たちは貧乏で、義務教育を終えると、日本本土に集団就職します。私も、そうでした。住み込みの丁稚奉公で、食事、入浴、トイレ以外は働きっぱなしです。いつも、同じ作業服で、同じ年頃の子が、きれいな服を着て、おもちゃを買ってもらう姿を見て、嫉妬しました。私も、意地っ張りのことがありますので、職場を転々としました。繊維産業の女工を、長らくしていましたが、ある日、病院へ友だちの見舞いに行き、看護師を見て、私もなりたいと強く思いました。別の友達から、働きながら看護師になれることができることを知りました。資料を集めると、入学金、制服、授業料、教科書などを買わねばなりません。奨学金制度もあるということで、苦学して看護学校へ入学できたのです。午前中は仕事、午後は授業、戴帽式という儀式がありまして、ナイチンゲールの精神を誓うのですが、そのころから勉強も難しくなり、病棟実習がかなり増え、彼女が看護師になりたいと知った経営者は心優しく、そのハードなスケジュールをよく理解してくれました。やがて、卒業、診療所勤務、その数年後、OO市で開業している診療所長、事務長にも、今までの経験と、この診療所で骨を埋めるつもりで働くというと快諾してくれました。どこの職場にも人間関係で悩むことがありましたが、私はこの診療所は辞めませんでした。今も楽しく働いております。私は院長が優しいので、宮古島の民謡を二人っきりの時に、沖縄弁で歌っていました。院長は優しく最後まで、聞いてくださいました。素敵な歌だとほめてくれました。ここで働いていると、過去の辛いことはすべて忘れました。若いころは贅沢を全く知りませんでしたが、友達も増え、夜同士、飲みあうことがあります。結婚もし、子供にも恵まれ、幸せです。たまに方言も出ますが、皆さん、気になさりません。昔は沖縄出身ということで、かなり差別され、流さぬ涙を堪えたこと、今は、欲しいものは、何もありません。家族、看護師として働いている今の自分、優しい診療所の仲間、本当に幸せです。体が続く限り、看護師として頑張ってまいります。」(完)

 

投稿者: 大橋医院