2023.06.15更新

私の妹は、2023年4月17日に突然死した。先天性心房中隔欠損症(ASD)の突然死であり、妹が死んだのを確認したのは4月20であった。私は、無感情でいた。私もASDであるからである。
1979年,なぜか大垣市でASDを発見され、名古屋国立附属病院で、妹は助けられた。その2年後に、私も同じASDで手術を受けなければならない運命にあるとは思わなかった。私は、その頃、研修医であったが、研修は中止し、私のASDの手術に立ち向かわねばならなかった。1年間は肉体的な痛み、その後、現在に至るまで心が苦しんでいる。つまり、私と妹は、長崎市の1945年、8月9日に核爆弾を落とされた、親の原爆者2世なのである。21歳ごろまで、私はASDに気が付かず、その頃より始まった全身倦怠感、労作後の動悸、全身に広がる浮腫であった。私は幸運にも医学部の学生であったので、直ぐに循環器内科教授に診察を御願いした。教授が言うには「君はASDである。しかし、今はそのことは、忘れて、医師国家試験に向かって、まっしぐらだ!」と励ましてくれた。勇気がわいた。ところが、クラスに入ると、噂は速いのか、昭和54年卒の同僚は、私をあざ笑った。面白い患者を診ているようだ。医師というのは、患者の心和らいで、あるいは患者の苦悩に共感し、正確に病気を治すものだ。軽蔑するものではない。しかし、私は、医師になり、医学博士、循環器専門医、産業医も取得し、平成元年より、大垣市の元住んでいたところで、開業している。死に物狂いであった。患者の悲しみ、痛みはよくわかり、やれることはすべてやった。時間外、深夜往診、看取り、緊急往診、在宅医療、看取りの時は、家族の悲しみがある程度静まるまで抱擁した。私は、ASDの手術から元気な医師に戻ったとき、苦しむ患者には出来ることはすべてした。笑顔は、温かい心は忘れなかった。原子爆弾は怖いものである。本人が即死するなら、何年にもか、けて、癌、白血病を併発し、遺伝子は患者の子、孫まで伝わる。2世の私は、妹共にASD,外耳道弯曲湾曲症、脊椎変形、、、、これらの病気と闘いながら、患者には全力を尽くした。1979年のクラスメートは大変、憎んでいる。私の心がどん底に陥ったときあざ笑った連中である。クラス会はいかない。私を立派な医師にさせてもらった名古屋市立大学附属病院は土下座をして感謝する。核爆弾で、世界中の国が脅し逢うのは、絶対、心底いけない。「最後の核爆弾による被は1945年8月7日が最後である。二度とあってはいけない!!!(完)

 

投稿者: 大橋医院