2020.05.05更新

歴史は暗記する学問ではない 義井博

「歴史は暗記する学問ではない、考える学問だ」
私が医学部の教養部で、歴史学を選択し、その講師である義井博先生が最初に述べられた言葉である。私はこの言葉に強烈なショック、印象を全身に受けた。歴史といえば、大学受験では暗記学問であり、年号、文化、人名など暗記する量を競うものであった。「歴史は考えるものです。まだまだこれからの学問です。」
この言葉に感動した私は、義井博先生の講義は全出席、じっと耳を傾け彼の著書「昭和外交史」を読み漁った。1972年印刷の本であるが、私の黒ペン、赤ペン、青ペンで塗りつくしてある。私はこの本を熟読し、歴史を再考し始めた。
 幕末、浦和に黒船を日本人に脅威に見せて、ペリーが開国を迫ったと習いましたが、それ以前に、何人ものアメリカ人が来て、根回しをしている。そんな細かいことはいいとして、天下泰平の日本は大騒ぎになる。早く事を納めないと、ロシア、イギリス、フランス、オランダなど列島諸国が日本の植民地化を狙っていますからね。ともかく日本の200年続いた江渡幕府が揺らぎ始めた。倒幕が佐幕かに日本は分断する。幕府にフランス、薩長にイギリスが付き、日本の独占支配を狙う。そんなに幕府と薩長の戦いは単純ではないが、多くの日本人の血が流れたが、私は感心するのは徳川慶喜である。彼が鳥羽伏見の戦いで、圧倒的に幕府が有利なのに、江戸に逃げてしまった。そして大政奉還までして、政権も放棄してしまった。彼は偉い。そして江戸城の無血開城を西郷隆盛と勝海舟が成し遂げた。これも偉い。もし、江戸が薩長土肥と幕府軍で火の海となれば、欧米列強諸国は喜んだと思う。そんなにスムースにはいかなかったが、函館まで戦は及び、明治新政府ができる。しかし、征韓論で西郷隆盛と大久保利通は幼少のころから同じ薩摩出身の友人でありながら、西郷は薩摩に帰ってしまう。彼は西南の役など大戦を望んでいなかった。郷里の私学塾の学生に押され、大変な戦になるが、西郷は自ら命を落とし、戦争は定まる。大久保は西郷と違い、冷徹で不人気で、新政府になっても、反乱は全国で多数起こる。代表的なのは佐賀の乱で、初代裁判官でもあった江藤新平が首謀者であった。大久保は、これを全国の反政府軍に見せしめにしようと、四国の山奥で彼を捕まえ、さらし首にし、何日も全国の市民に見せつけた。これで、明治政府は安定するが、大の友人、西郷を無くした大久保は、SPもつけずに東京の街の暗やみを歩き、暗殺される。彼は本望であった。さて、欧米列強から植民地支配を受けていないのはタイと日本だけであった。日本は,清国が欧米列強の浸食により、全く無力化していることを見据えて、李氏朝鮮の地位確立と、朝鮮半島の遼東半島の権益を巡って、両国は交戦し日本の勝利となる。講和条約の中で、清国から台湾、遼東半島を奪い取り、巨額の賠償金も獲得した。しかし、三国干渉により遼東半島は手放すことになった。この賠償金により、日本は工業化の第一歩を歩む。1904年2月から1905年9月にかけて大日本帝国とロシア帝国の間で日ロ戦争が行われた。朝鮮半島と満洲の権益を巡る争いが原因となって起こり日本近海でも大規模な艦隊戦がおこり、最終的に両国はアメリカ合衆国のポーツマス条約により調和した。この戦争は司馬遼太郎が「坂の上の雲」で書いているように壮絶な戦いであるが、私流に解釈すると、ロシアは社会革命がおこり、軍事力を半減せざるを得ず、日本は、もう軍人も、武力もなく、お金もなく、高橋是清の奔走でやっと講和にいたったのである。もうこれ以上戦をすれば日本は大変不利で、賠償金は取れずに、朝鮮半島と満洲と遼東半島の確保が精一杯であった。後,日比野で賠償金がないことによる暴動が起きるがとんでもない、あそこで戦争を中断するのがやっとであった。また、第一次世界大戦においても日本は、連合国の勝利に大きく貢献し、ドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島など赤道以北の南洋諸島を譲り受け、国際連合の常任理事国となった。これで日本も世界の一等国となったのである。
 ここまでは良かったが私が義井博博士著の昭和外交史を読むと、日本は坂道を転げ落ちる悪い運命が待ち受ける。田中内閣外交の挫折、満州事変、日華事変の勃発と拡大、日ソ関係の激突、日米関係の悪化、松岡外相の国際連盟脱退、近衛、三国同盟を廃棄を考慮、ルーズベルト大統領の日本首相との会談拒否、日米関係の切迫、日本の中国における北進か南進かで、南進決定で日米関係破綻、9月6日の御前会議、東條内閣の成立、天皇は、「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」の平和主張をよそに戦争、昭和20年8月15日の玉音放送まで破滅の道は急降下であった。。

私は、偶然にもアムステルダムに学会の用事で、朝食をとっていたところ、義井博先生がベルリンで心筋梗塞を発症したが、今は落ち着いて退院している。大橋君、一緒に義井先生と日本に帰りなさいとの命令であった。大学病院では私が主治医,義井先生が患者さんとなってもらった。心筋シンチで、義井先生の健常な心筋はごくわずかであった。何年かこの関係が続いたが、私はワシントンへ行く用事で不本意ながら主治医を後輩にお願いした。ワシントン、ニューヨーク、インデイアナポリス、ミネアポリスと研究の場を移動しているとき、義井先生の訃報を聞いた。慌てて帰国したが、告別式に間に合わなかった。彼の笑った黒枠の写真を見ていると、自然と涙が出た。僕に歴史を夢中にさせた先生である。省なら、安らかにお眠りください!(完)おおはし

投稿者: 大橋医院