2020.04.29更新

ポンペイの使命:ポンペの医学伝習おおはし

 ポンペに課せられた使命は日本人に西洋医学、つまりポンペの学んだ医学を教えることであった。ポンペが偉かった点にうわべだけの医学術を教えたのではなく、物理、化学等のいわゆる基礎科目を含めて解剖学、生理学、病理学等の講義から系統的な医学教育を始めたことがあげられる。現在では医学部の学生が基礎科学科目の勉強からスタートするのは当然のことであるが、当時の日本では基礎科学の知識レベルが著しく低かった(ほとんどなかった?)ことを考えると、極めて困難な道を選んだわけである。 医学伝習においては西洋医学のイロハも知らない伝習生に言葉の壁を乗り越えて立ち向かわなければならなかったのである。教える側、教わる側の困難と苦労は計り知れない。この難業を若くして成し遂げたポンペの偉業は強く、高く称賛されるべきである。
ポンペのカリキュラム
 ポンペが長崎で教えた医学はポンペ自身の学んだものである。ポンペのカリキュラムが知られているが、明らかにポンペの出身校であるユトレヒト陸軍軍医学校のカリキュラムに準拠したものであることがわかる。採鉱学が含まれているのは長崎奉行の要望に応えた結果のようである。軍医学校の特徴である、理論と実地能力のバランスのとれた医師の養成が長崎にも受け継がれた。そのため内容は臨床的であり、しかも救急治療に直ちに役立つような実学であった推測されている。
ここでは一日わずか3時間の講義だが、最初は言葉の問題が大きく、後半の臨床医学の講義は一日8時間にも及んだ。何度も繰り返すが言葉の壁は如何ともなしがたい。オランダ語の堪能な松本良順、司馬凌海そして佐藤尚中は、昼にあったボンペの講義をもう一度夜復講して他の学生の理解を助ける努力をした。
ポンペによる医学伝習はそのものが日本ではじめての系統的なものであるが、医学教育の歴史から見て重要なはじめてがいくつかある。その一つが1859年9月(安政六年八月)に西坂の丘の刑場で三日間に渡って行われた日本初の死体解剖実習である。ポンペはその後も死体解剖を行っているが、その見学者の中にはシーボルトの娘お稲(楠本いね)も混じっていた。この解剖実習は簡単に実現したものではなく、その許可が下りるまでは、図版をパリから取り寄せた紙製の人体解剖模型(キュンストレーキ)によって説明していた。

投稿者: 大橋医院