2019.11.08更新

おおはし<私はえらい先輩医師に出会い、そして医師になった>大橋信昭
私の幼児期は病弱であった。よく熱を出し、ひきつけもおこした。そんな時、何時であろうと、何曜日であろうと、先輩医師は往診してくれた。今思えばであるが、子供のころの医師は私にとって、恐怖の対象であり、悪魔と罵声を投げつけた。まな板の鯉である。お尻に注射を打たれ、ギャーという悲鳴とともに、医師は両親に注意事項を説明し、去っていった。今思えば、先輩たち、医師会員はえらいものである。66歳になった私は小児の深夜往診はまっぴらである。
私は先輩医師会員の頻回なる往診で発熱疾患を救命され、いつの間にか、医師を目指す受験生になっていた。医学部を目指して猛勉強中、試験日が目前になったとき、関節痛、発熱、食欲不振、不眠で急に勉強どころではなかった。当時は、
直江町に住んでおり、隣町の小泉に説田先生が開業して見えた。この先生が、私には幼少のころ悪魔に見えたが、又お世話になることになった。門をたたいて中に入ると説田先生が一人おられ、症状を述べると、すぐに注射をする体制に入った。「お尻か、肩かね?」と聞かれるもので、肩と答えた。痛くはあったが私も18歳になっており、5歳や6歳のころと違って、泣きはしなかった。先生はなんだか粉薬を一人で、手で分包し、これで治ると断言された。家に帰ったが先生の言う通りすぐに楽に治り感謝である。
その後、無事、医学部に入り、国家試験を受かり、修行をあちこちの病院、USA,ヨーロッパ、台湾まで修行し、長男でもあるし、開業には困難なところであったが、開業を平成元年2月10日にした。もちろん、開業前に医師会にお邪魔し、会長(当時白木先生)にもご挨拶した。失礼であるが白木会長は怖かった。呼び鈴を鳴らすと、真っ青な顔をした局長が駆け付け、白木医師会長は怒鳴った。「こんな書類を山積みして、大橋君がきちんと開業準備ができると思うか!もっとわかりやすく説明したまえ!」とライオンのように怒鳴った。医師会も怖いとこかなと不安になった。しかし、手続きも完成し、開院式には会長も、父の顔もあるが市長も来てくださり、盛大なものであった。しかし、いざ開業すると、親戚一同20人初日に、患者さんの役をしていただき、その次の日から閑古鳥が鳴くのみであった。ある人曰く「大垣で市民に認められるには10年かかるよ!」と言われ、その通り、鳴かず飛ばずの10年が過ぎた。そんな時、渡辺和雄先生から電話が鳴り「今日もお勤めご苦労さん」と言われた。この言葉は要注意である。「君、内科会の幹事をやってくれ」と言われた。断ったがやることは決まっていた。12年間、幹事をやらせてもらった。しかも、会計をやらせていただき、神経がすり減った。何回か記念講演には偉い先生をお招きした。やはり、養老孟子先生は強烈なインパクトをうけた。循環学校の講義も全力投球、急患センター、内科抄読会、西濃循環器奨励懇話会など、勉強になった。会長も、西尾先生に代わり竹中先生に変わった。ある夜である。竹中先生から電話があった。「今日もお勤めご苦労様です。」この言葉は要注意である。「君、医師会の理事をやってもらえないか」と聞いても無駄なことは分かっている。「私のようなものでも務まるでしょうか?」等言っても、いつの間にか理時になった。しかし、本当に医師会員の皆様には申し訳がないが、2次会のカラオケ係しか仕事はできなかった。竹中先生は御病気になられ、最後まで医師会に全力を尽くされた。本当に立派な会長であった。山川会長に代わっても、私の間に合わないことは変わらず、任期途中にて、辞表を出した。これは大垣市の医師会員には一人ひとり誤らねばならない不祥事であった。やがて、時間が過ぎ、大垣市医師会員の方は、今まで道理のお付き合いをさせてもらい、頭の上がらないことである。ただ一つ、西濃循環器奨励懇話会は幹事で頑張らせてもらっている。内科抄読会もやめたり再入会したり、皆さん優しい人たちだ。私の非力、無能さは良くわかっているが、大垣市医師会に、少しでも邪魔にならないように、少しでも役に立つことは手伝わせて下さい。病診連携、在宅医療、ITの進歩、医学そのもの急激な進歩に、私は私なりに、ついていくつもりである。勉強も頑張ります。今後も大垣市医師会、並びに会員の益々のご発展を祈願し、非力な私も見捨てないようにお願いし、日々研鑽努力してまいります。(完)

投稿者: 大橋医院