2016.11.19更新

<記憶の糸>    大橋信昭
 私は長崎県長崎市の生まれである。何故か私はこれを自慢する。大垣市の生まれでないことを自慢するのか、幕末に蘭学のメッカ長崎市出身であることが自慢なのか分からない。私は母の産道を苦し紛れに現世に現れたのは覚えていないが、長崎市から大垣市へ向かう電車の一場面を覚えている。母と父との間で抱擁されながら窓を眺めていると、石炭雄黒いガスが入り込み母に擦り寄っていた私を覚えている。無限のトンネルをくぐりながら電車は大垣に向かったのであろう。3歳のことである。
 次に私の記憶に残っているのは、大垣市南頬町の小さな木造家屋であった。父は仕事で疲れているのか、いつも機嫌が悪かった。母は父の仕事の経理を手伝っていたのか大きな台帳に数字を書いていた。「ここらが今の仕事の引き時だ!」と父はライオンのように吠えた。恐怖のあまり、母の後ろに私は隠れた。それから数日後、私の家にスマートボールの台がいくつも積まれてあった。4歳のころであろう。
 私は幼稚園に行くのを拒否した。5歳にして登園拒否である。何度も何度も母に叩かれ、数軒隣の年上のお兄さんと行かざるをえなかった。そのうち、幼稚園に行くのが楽しみになった。同級生の女性で一緒に登園してくれる女性が二人も現れたからである。やはり幼児の時でも、どうせ歩くなら異性のほうがよいのであろうか?ある日、千夏ちゃんが発熱で倒れこんでいた。氷枕で「信ちゃん、今日は一人で行ってよ」と言われた。もう一人の真理ちゃんはどうも恋の片道切符で疎遠になっていた。
 私は一人で蓮華草咲き乱れる田園をあぜ道伝いに登園した。季節の流れと田園の景色の変化を楽しんでいた。そんなある日、明らかに私は馬車に轢かれた。突然転倒し、頭の上を荷車が通過するのを覚えている。意識を取り戻したのは,自宅の蒲団の上であった。見慣れぬおじさんが土下座をしていた。父はやくざの様に猛烈に怒鳴っていた。「俺の息子をどうしてくれるのだ!」私はこの事件がどうやって解決したのか解らないが、あのおじさんが謝りに来たときは風呂敷を肩に垂らし、スーパーマンになりきり飛び回っていた。
父はいつの間にか我が家で病人として倒れ込んでいた。転職した石油販売業で、当時の素朴な機械で石油を誤嚥したらしい。父の闘病生活は長くあった.時々幻覚症状、何が反応しているのか苦悶症状をしていた。近くの慰謝が来ていたが、当時としては経過観察敷かなかったのではないか?私は何度も父の傍に呼ばれ、父は私の手を握り頭を撫ぜ、血tの涙を見た。しかし、父は元気になった.如何にして元気になり、記憶の糸が切れている。また雷親父に逆戻りであった。私はいつも父の機嫌がよいことをいつも願う日が続いた。大きな秋田県がいたような、部屋に小鳥がいたような、記憶の糸はつながらない。千夏ちゃんも真理ちゃんも記憶の糸には無くなった。母が血tの仕事を手伝うようになってから居残りが増えた。先生が優しくビスケットを下さった。それに時間をかけて食べ、画用紙に絵を描いていた。寂しかった。
今日は,すぐに帰れる!母が家にいるのだ、慎重に帰るぞ、馬車に轢かれるのは嫌だ。

 

  
いと

投稿者: 大橋医院