2015.09.08更新

<青年部と松竹会>
大橋信昭

 私はここで主張したい。大垣市伝馬町青年部は、停年45歳のはずであった。いかに町に若者が減ったとはいえ、45歳になれば50歳が停年、50歳になれば60歳で停年とここまで延長された。私は青年部に停年なしにあきらめ、62歳から63歳の道を歩いていた。ふと、気が付いたら、伝馬町にはマンションが二件出来、大量の若者が移民したので、60歳を超えた私の同朋はこっそりとひっそりと青年部を辞職したみたいだ。今や、伝馬町の最高齢者と言えば、62歳から63歳へ進む、大橋信昭なのである。それは、早く辞表を提出しようと思っていたら、80代の御爺さんが袖を引いた。「先生、松竹会に入ってもらえませんか?楽しい旅行やら、催し物がいっぱいありますよ。」と笑顔で訪ねてきた。気の言い私「イエス」と言ってしまった。
 そんな馬鹿な!一人の人間が生きている間に青年部と松竹会の両方に帰属するとはあり得ないのであるか?これは、自治会長と相談し、白黒はっきりさせねばいけない。
 思えば、青年部でも私は年齢的に孤立している。20歳代のイケイケヤングマン、30-40歳代の中年層、50歳代のバリバリ管理層から停年恐怖組といろいろである。62歳の私はどれにも属さない。
 松竹会は、主に後期高齢者からなり、70歳から100歳前後までなり、話は合うはずがなく、私は昭和28年生まれであり、サンフランシシコ講和条約で、吉田茂がサインをし、進駐軍やマッカーサーがいなくなった後に生まれているのである。戦争中の防空壕も知らないし、玉音放送も聞いていない。老婆が私の夫はサイパンで玉砕しましてね。知らない!B29も戦争も行ったことが無い。
松竹会では最も若いのである。
 これは困ったことだ。最近は、青年部の祭りに行っても、極力、力仕事は避けている。8月の炎天下で公民会の中に入り、テントでも組み立てたら、私はすぐに熱中症になる。青年部の部長が気を利かして、「先生、御宮の部屋の中でゆっくりしていてください。」といい、若者が汗まみれで、屋台を作っているのを、クーラーの効いた部屋で寝そべって見物である。しかも、配達付きである。「先生、生ビール一つ」「先生、たこ焼きも氷も出来ました。」若い人には気の毒であり、だからと言って、私にこの40度近いお宮さんの広場で焼き肉を焼けと言われてもそれはかなり残酷な拷問である。青年部の引退演説をどこかで宣言せねばいけない。
 松竹会も困ったものだ。半分は認知症だ。「大垣大空襲の時、お宅さんはどうしていられた?B29がこわっかたね!」「いやー僕は生まれていません。」とつぶやく。「品事変まで、日本は勝った、勝った、、、の連続で、真珠湾の奇襲攻撃で止めとけばよかったな!」歴史はそんな単純ではない。「おまえみたいなへっぽりごしが鉄砲持つもんだから大東亜戦争負けたンだ。」と喧嘩も始まる。「一億総焦度土といって、アメリカ軍を内地に呼び込み、そこからが勝負じゃなかったのか!」「私ら竹やり持たされたけど、あんなもんで飛行機に届かんンわな。」「俺の打ちまくっていた機関銃もすぐに落下、焼夷弾の雨あられ、揖斐川まで逃げまくりよ」「玉音放送なんか流すから、俺はまだ戦争に負けていないよ」
「俺は、2年ばかり、シベリアにいたからよ、腹ペコで、カリエスなんかやっていてよ、大垣駅に着いたら、町の中は焼け野原、何にもない。」「そうだ!玉音放送後も、腹はいつも減らなかったことは無い。魚採りや、ざる蟹も、イナゴも、食えるものは何でも食っていたぞ!」戦争の知らない私には堪えられない話だ。当時の今もそうだが、政治家の非力さが想像できる。軍人に全権力を握られ、制空権も取られ、空襲遣り放題の中、土地の人はこんな苦労をしている。
昔、ラバウルに行った、亡くなられた名和大先生の1時間ストーりー-である。
どうもきな臭いから、松竹会は、おばあちゃんの御寺参りの話でも聞いていた方がよさそうである。
 最近、有難いことに、伝馬町の自治会長が、私は肉体労働に全く役に立たないことを見抜いているから、少しでも重いものを持つと「先生、ご苦労様でした、お帰り下さい。」と言ってくれるので助かっている。事実、外で汗水出して働いたことは無く、62歳から63歳への道を歩いている。
 サーこの難しい、大垣の江戸時代からの伝統がしっかり残っている伝馬町で、
青年部と、松竹会を相手に、どうやりくりするか、青年部の肉体労働と松竹会の大東亜意戦争の歴史解釈と意外と厳しい晩年がやってきそうである(完)


岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、や動脈硬化症に全力をつきします。

投稿者: 大橋医院