2015.05.17更新

<大樹>

大橋信昭

 私は、土曜の夜中から日曜日も朝早く起きて、就寝時間も制限して、ミステリ-小説を読み漁っていた。私の頭は、未来、過去、現在が簡単にひっくり返り、光を操る少年の才能や運命にもう夢中でほかの事が分からなくなっていた。
ただ一人老婆の電話あり、往診し、診察を行っており、ここ1週間で昇天すると思われるこれまた老婆の看取り体制になっている。携帯の音には敏感なのだ。
 「あなた、いつまで本ばかり読んでいるの!たまには外でもサイクリングしたらどうなの!」と、私の家内が、上から怒鳴ってきた。そうだ。こんな良い天気に、このまま暗い小説を読み続け、月曜日になったら、うつ病でも発症し、ろくな診察が出来ない。幼稚園児が母親に叱られたごとく、素直にスポーツシャツに着替え、サイクリングに出かけた。いつも当院より北へ行くことが多いが、今日は風の向くまま,南へ向かった。途中の大垣の町の雑踏は見て見ぬふりをし、一気に郊外へ出た。自転車道を、幾時か走らせると、私の目には緑豊かな木々と田園地帯が展開した。もう、お百姓さんたちが忙しくなるころであった。鍬を持って田を起こそうとする老人、肥料を燃やして煙を立てている若者に遭遇した。そして少し西方に鳥居があり、"白髪神社"と書いてあった。
神社の中は、今年の豊作を祝う村人でいっぱいである。山門があり、寝泊り無料だが、そんなところで寝ていたら物乞いと間違われるであろう。それにしても、この"白髪神社"は、こじんまりした神社だが、鳥居までに、多くの石塔があり、周りは、緑の広葉や針葉を支えた木が無数にある。そこへ、南からさわやかな風が吹き付け、木の葉たちは楽しそうに踊っているのである。
 田園に目を向けると、水平線まで、刈り込んだ土が私の目を驚かすはずだ。ところが、遠方だが、いたる所に、高層住宅が立ち並び急に街中の俗世界が私の脳裏をよぎる。
 すると、私の死角になる西方に、一本の大樹がそびえ立っていることに気が付いた。租の大樹の幹は何百年の歴史を刻んでいる如くたくましく、枝は幾重にも別れ、その枝がそれぞれ豊かな緑葉でおおわれている。私は、思わず立ち止まり、その大珠に触れ、上を仰いだ。枝と緑で、あるべき青空は塞がれている。私は、思った。あの緑の上に、私の想像もつかぬ世界が広がっているのではないか?私は危険を承知で、ゆっくりと枝を足場にして登って行った。厚い緑の絨毯があったが、何故か梯子がかかっており、そこには、中世の貴族のような格好をした人たちが、酒を飲んで笑っている。中には文を取り和歌を葉に書きつけ、十二単の女性を口説いている人がいる。また、意外と緑の平坦な広場が広がっており、蹴鞠を楽しむ貴族たちの汗と笑顔が見えた。どうなっているのか?この大樹の上は、平安時代にでもタイムスリップしているのか?不思議そうにしていると一人の若者が、私を招き、酒でも飲めと言った。私は貴族たちとすっかり打ち解け、酒も何杯かあおり、蹴鞠も楽しみ、筆も借り木の葉に一句書こうとした。"大木の、緑の扉、開くと、そこには、争いを避け、笑顔に満ちた貴族たち、"酔っているのか、幻覚に陥っているのか、歌にはならない。そして、綺麗な女性が手を差し伸べてたものだから、触れようとしたら、瞬く間に、田園の真っただ中に、つんのめるようにしりもちをついていた。異常におしりが痛い。もう一度大樹の所へ戻り、さっきの女性と再会したいと思ったら、日焼した皺だらけの老父が私に話しかけてきた。「この大樹は、それはもう大昔からある。しかし、よく旅人がこの上の妖精たちに騙され、あなたのように上から落っこちてくる。大した怪我は無くてよかったね。もう近寄らん方が良いよ。」老父はニコニコしながら農作業に戻った。
 私は、今、見たものは何なのか?臀部は痛かったが、何とか自宅へ帰った。読みかけのミステリー小説を見て、昼食をとり、続きを読むことにした。もうあの大樹の上には上らない。なんだか鳥肌が立ってきた。最近、小説の読みすぎだが、あの爺さんがいていた妖精はあの大樹の上にいつも潜んでいるのだろうか?そっと考えるのももう近づくのもやめることにした。(完)


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投稿者: 大橋医院