2026.03.31更新

わが国の高齢化率はすでに26%を超え、2050年には40%に達すると予想されています。このような人類がかつて経験したことがない未曾有の超高齢社会において、医療はいかにあるべきかを、すべての国民が真剣に考えていく必要があります。国も社会保障制度改革国民会議の報告を受け、医療・介護・福祉の在り方を抜本的に改革するよう取り組んでいます。
 一方、わが国の医師数は現在約31万余人を数えますが、そのなかで日本内科学会は会員数約11万名を擁し、国内の医学系学会では最大の規模となっています。
 今後、進展する超高齢社会を前に、全医師の3人に1人にのぼる多数の医師が所属する日本内科学会が果たすべき役割と責務がますます重くなることを認識し、日本内科学会がいかに貢献すべきかを検討して参りました。

 本来、内科学とは最初に患者に寄り添う学問であり、臓器を特定せず、さらには患者の心理・社会的側面をも考慮した全人的医療を目指すものです。日本内科学会では、100年を超える講演会事業や学術誌刊行事業、そして、約50年になる認定医制度(専門医制度)事業などを通じて、全人的医療の発展とそれを担う内科医の育成に積極的に取り組んで参りました。
 一方、医学・医療の急激な進歩とともに、内科領域では臓器別医療が脚光を浴びるようになるにつれ、日本内科学会は専門分化する内科系臓器別専門学会が集合する、あるいはそれを集約する役割を帯びるようにもなってきました。内科の各臓器別専門学会と連携・協力することは、日本内科学会の重要な任務のひとつです。人は単なる臓器の集合体ではないことから、内科は患者の全身を診て、社会的背景やクオリティ・オブ・ライフ(生活の質)にも配慮した全人的医療を行うという、内科学の本来の姿を見失ってはなりません。
 この趣旨を踏まえ、日本内科学会と関連する内科の各臓器別専門学会は質の高い内科医の育成のために、専門医の二段階研修(内科全般にわたるジェネラルな一段階目の研修を終え、各専門科研修へと深化していく二段階の研修制度)に長年取り組んで参りました。

 超高齢社会を迎えた現在、高齢者の多くは多臓器にまたがった疾患を抱えていることに改めて留意する必要があります。このような高齢者の疾患の特徴を踏まえると、臓器横断的に全身を診ることができる内科医の育成は、今まで以上にニーズが増していくと考えられ、社会からもその方向への改革が求められています。医療の現場においても内科医はその特性として臓器別専門医の専門性を維持しつつも、疾病を持った患者さんの全身を横断的・俯瞰的に診ることが求められます。新しい専門医制度に向けて、日本内科学会は研修体制を見直して充実を図っておりますが、その背景はここにあります。
 以上を踏まえ、超高齢社会が進展するわが国の現状を鑑みると、日本内科学会の果たすべき役割と責務は、内科学の総合的な力をもって超高齢社会を支えることに他なりません。そこで日本内科学会はその本来の原点に立ち返り、以下の宣言を行います。

 

 日本内科学会は進展する超高齢社会の医療を支えるため、ひとりひとりの生活の質に配慮し、全身を診る、臓器横断的な診断治療を行える内科医の育成に努めます。

 

 この目的のために日本内科学会は、内科医の一層の質の向上に向けた新しい専門研修プログラムの充実や、より質の高い医師生涯教育の普及等の活動を通じて、「より良い内科医」の育成を図っていきます。また、これから国全体で本格化するであろう地域医療への取り組みにも積極的に参画していく所存です。

投稿者: 大橋医院

2026.03.30更新

魚タンパク質の摂取は腸の機能にどう影響する?

 関西大学は2月18日、魚由来タンパク質の摂取が加齢に伴う短期記憶の低下を予防する効果についての研究成果を発表した。この研究は、同大化学生命工学部の細見亮太教授、福永健治教授および関西医科大学医学部衛生・公衆衛生学講座の村上由希講師らの研究グループによるもの。研究成果は、「Scientific Reports」に掲載されている。

 これまでの大規模なコホート研究で日本食や地中海食を中心とした食生活が、認知症の発症リスクを下げることがわかってきた。特に日本食の中でも、魚をたくさん食べる人ほど認知症になりにくいことが明らかになっている。魚が認知症予防に良いのは、ドコサヘキサエン酸(DHA)やエイコサペンタエン酸(EPA)といった「オメガ3系脂肪酸」という成分によるものと考えられてきた。この成分には血液をサラサラにしたり、血管の健康を守る効果があったりすることはよく知られている。脳機能に対する有益な効果も報告されているが、魚を摂取した際にみられる脳機能への効果がDHA・EPAだけで説明できるかはまだ明らかではない。

 そこで研究グループは、魚に含まれる脂肪酸だけでなく、主要栄養素のひとつである「タンパク質」にも注目。これまでの動物実験では、脂肪酸よりもタンパク質摂取による短期記憶低下の予防効果が高いことを明らかにしてきたが、魚タンパク質の摂取がどのように脳機能維持に関わっているのかは明らかになっていなかった。

 一方で、近年の研究から加齢に伴って腸内環境が悪化することで腸バリア機能が低下し、体全体に起こる炎症が老化に関係していることが注目されている。また体の炎症が脳にも炎症を引き起こし、認知機能の低下につながる可能性があることがわかってきている。このことから、魚タンパク質の摂取が腸の機能にどのような影響を与えるのかを明らかにすることで、脳機能維持の仕組みがわかると考えた。

老化が早く進むマウスで、魚タンパク質摂取による短期記憶・腸内環境など調査

 今回の研究では、老化が早く進むマウス(SAMP8)と正常老化を示すマウス(SAMR1)にスケトウダラ由来のタンパク質(APP)を含んだ餌を5か月間給餌し、Y字型迷路試験によって短期記憶を評価した。また腸内環境を調べるために、糞便中に含まれる腸内細菌叢の解析を行った。さらに脳における炎症を調べるために、記憶に重要な海馬における炎症関連細胞の組織染色を行った。

APP摂取SAMP8マウスは短期記憶を維持・腸内細菌叢が変化

 Y字型迷路試験の結果、APPを食べたSAMP8マウスでは対照食を食べたSAMP8マウスに比べて、短期記憶が維持されていることがわかった。APPを摂取したSAMP8マウスで腸内細菌叢が変化し、対照食を摂取した群では中枢神経の炎症を促進することが報告されているErysipelotrichaceae科が有意であったが、SAMP8+APP群では酪酸産生菌であるLachnospiraceae科が有意になっていた。また、肝臓でのリポ多糖結合タンパク質(LBP)の遺伝子発現量が有意に低下していた。

APP摂取により、ミクログリアやアストロサイトの陽性反応が低下

 さらに脳での免疫組織染色を行った結果、脳で炎症に反応して活性化するミクログリアやアストロサイトの陽性反応がAPP摂取によってSAMP8マウスで有意に下がっていた。

脳腸相関効果が関係の可能性

 以上より、老化促進マウスSAMP8において、魚タンパク質摂取は短期記憶の低下を予防した。この仕組みには、「腸と脳の関連(脳腸相関)」による効果が関係していることが示された。具体的には腸内環境を整え、脳における炎症を抑制することで、神経細胞の構造損傷を軽減し、老化に伴う短期記憶低下を予防している可能性を示した。

加齢による認知機能の低下を防ぐ仕組みの一端を明らかに

 今回の研究は、魚を食べることの健康効果について科学的根拠を示すものである。また、日本人にとって重要なタンパク質源のひとつである魚の摂取が腸内細菌のバランスを整え、腸管バリア機能を高めることで、加齢による認知機能の低下を防ぐ仕組みの一端を明らかにした、と研究グループは述べている。

投稿者: 大橋医院

2026.03.27更新

CKM症候群とは
AHAが新しい疾患概念として提唱した背景
AHAが新たに提唱したCKM症候群とは、どのような疾患概念なのでしょうか。AHAがこの概念を提示した背景とともに教えてください。

 CKM症候群(心血管・腎・代謝症候群)とは、その名の通り、「心血管疾患、腎疾患、代謝疾患は別々に起きているのではなく、相互に増悪し合いながら進行する連関した病態である」として、改めて整理し直した概念です。名前の順と逆に考えると分かりやすいと思います。生活習慣の乱れを起点とした内臓脂肪の蓄積を中心とするメタボリックシンドロームがあり、高血圧や高中性脂肪、高血糖などが起こってきます。そのうち、病気として発症はしないものの動脈硬化が進行し、腎機能も低下してきます。そして、最後に心血管疾患になっていきます。このように長いスパンの全身性の病態として捉えて、早期から介入、継続管理していくことが重要なのです。

 AHAが2023年にこの概念を提唱した背景には、肥満・代謝異常保有者の増加に伴って、心疾患などのイベントリスクが増加している中で、診療が臓器別に分断されていると、早期のリスクが見逃されやすくなるという懸念が挙げられると思います(Circulation. 2023; 148: 1606-1635.)。また、早期に介入して生活習慣の乱れを改善することで将来のリスク軽減が可能なことに加えて、リスクを抱えた人に臓器横断的に作用する薬物が登場してきたことも大きいと思います。

心血管疾患、腎疾患、代謝疾患をそれぞれ個別ではなく、重複した病態として扱うことの臨床的な意義はどのような点にあるのでしょうか。

 個別疾患ではなく、CKM症候群として診療を行う最大の意義は、診療時の検査値だけでなく、将来の進行を見据えた予防医療につなげられる点です。

 例えば、糖尿病治療薬のSGLT2阻害薬は服薬開始時に腎機能が少し低下しますが、あくまでも一時的なもので、経過とともに回復します。このため、腎機能が保たれている早期の段階であれば、必要な患者さんに問題なく処方できます。しかし、すでに腎機能がかなり低下してしまった段階になると、少しのeGFR(推算糸球体濾過量)の低下でも透析に直結することになるため、有効な治療手段と考えられても処方を躊躇することになります。

 先日診察した外来患者さんにもいらっしゃいましたが、「気が付いた時には病態が進行した状態」といったケースが、CKM症候群という連関した病態として扱うことで減少することが期待できます。

 軽度の肥満や境界型糖代謝異常であっても、腎機能や血圧、脂質などの悪化が組み合わさると、動脈硬化性疾患や心不全、心房細動のリスクは加速度的に高まります。現状では保険適用上の問題がありますが、CKM症候群としてまとめて捉えることで、体重管理、生活習慣の指導、血圧・脂質・糖代謝を是正して、心・腎・代謝を同時に守る戦略を立てやすくなると考えています。

 2023年にAHAが出した論文の中でも、ライフスパンで捉えることや、若年時からリスク評価を行い、患者教育をしていくことの重要性が強調されており、長い時間軸で病態を捉えることがCKM症候群のポイントです(Circulation. 2023; 148: 1606-1635./Circulation. 2023; 148: 1982-2004.)。

投稿者: 大橋医院

2026.03.27更新

岐阜県大垣市伝馬町

更年期に疲れた女がひとり

動悸に不眠にフラッシング

白いお肌にシミと肝斑が

かわいいほっぺにしみていた

大垣市伝馬町大橋医院 メルスモンさえ摂取すれば

白いお肌につるつる光が 明るい笑顔の女がひとり

投稿者: 大橋医院

2026.03.25更新

スペイン風邪(英語: 1918 flu pandemic, Spanish flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、一般的に1918年から1920年頃[2]にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。初期にスペインから感染拡大の情報がもたらされたため、この名で呼ばれている[3][4][5]。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるインフルエンザ・パン・デミック・ウィルシミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される[6]。

全世界で5億人が感染したとされ[7][8]、 これは世界人口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1[9])となり、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上[10]と推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである[11][12]。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない[7]。また、なぜ終息したのかも、依然として研究対象である。パンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた[3][4]。一説によると、この大流行により多くの死者が出たことで徴兵できる成人男性が減ったため、第一次世界大戦の終結が早まった[13]。

表記
「スペインかぜ(風邪)」と表記されることが多いが[14]、国立感染症研究所などでは「スペインインフルエンザ」と表記する[15][16][17]。スパニッシュインフルエンザ(英語のSpanish Fluより)と表記されることもある。日本では(インフルエンザの総称である)「流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)」とも表記[18][19][注 1]。

2015年以降、ヒトの新興感染症には地名や動物の名称を使用しないことがWHOにより推奨されており[21]、アメリカのCDCでは「1918 pandemic」「1918 flu pandemic(H1N1)」「1918 flu」等と表記[22]する。これは報道などで繰り返し使用されることで、差別や不利益の原因となることを避けるためである。

経緯

スペインかぜの感染拡大における3つの波。グラフはイギリスにおける1918年6月–1919年4月のインフルエンザおよび肺炎による人口1000人当たりの死者数[23]
一般的にスペインかぜでは、1918年から1919年にかけ、第1波から第3波まで3回の大きな感染拡大が起きたとされている[24][25][26]。

第1波 (1918年3月–)
1918年3月4日、アメリカ合衆国カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル (Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜ流行の症例とされている(それ以前にも感染例があった可能性が高い。既に1月には同じカンザス州の320 km離れたハスケル郡で観察され、地元の医師ローリング・マイナーは米国公衆衛生局の学術雑誌『パブリック・ヘルス・リポート』の編集者に警告したとされる[27]。)[28][29]。ファンストン基地の場合、近くの川や湖に渡り鳥として来ているカナダガンから基地で飼っている豚に感染し、そこから人間に感染したと言われている。同日にはギッチェルの同僚である他の100人以上の兵士も同様の病状を訴え[28]、ファンストン基地ではその後数日以内に計522人の罹患が報告されることとなった[30]。その後、他の基地や刑務所にも広がっていった[31]。

当時アメリカは第一次世界大戦に参戦中であり、ヨーロッパへ派兵されるアメリカ外征軍の大規模訓練場として使用されていたカンザス州のファンストン陸軍基地で始まったインフルエンザの流行は、他のアメリカ軍基地やヨーロッパへと急速に拡大した[29]。1918年9月29日、約1万1千人の乗員を載せて米国ニュージャージー州の港を出港し、同年10月7日にフランスのブレスト港に到着した米国の兵員輸送船「リヴァイアサン号」は、航海中に船内で2千人がインフルエンザを発症し80人以上が死亡、下船後も含めると合計約200人が死亡したという[32]。ドイツ軍内では当初、ベルギーのフランダース地方で発症したために「フランダース熱」とも呼ばれていた[33]。1918年4月を迎えた時点で、アメリカ中西部および東海岸、フランスの複数の港でエピデミックが発生しており、4月中旬までに流行は西部戦線に達した[29]。その後流行はフランス全土、イギリス、イタリア、スペインへと広がり、5月中にロシア領オデッサ、ドイツ領ヴロツワフにまで到達した[29]。5月には北アフリカ、インド、日本にも感染が拡大し[29]、6月には中国でアウトブレイクが報告されたが[34]、7月にオーストラリアに達した後、パンデミックの第1波は後退を始めた[29]。

1918年の第一四半期に始まったスペインかぜの第1波は、比較的穏やかな波であった[35]。死亡率は平時と比べて際立って高いものとはならず[36]、アメリカで1918年1月から6月までに報告されたインフルエンザによる死者は最大7万5,000人にとどまり(1915年の同時期でも最大6万3,000人)[37]、スペイン・マドリードにおける1918年5月–6月の死者数も1000人未満だった[38]。一方で、第1波はフランス軍、イギリス軍、およびドイツ軍の兵力の多くを罹患させたため、第一次世界大戦の軍事作戦には大きな混乱がもたらされた[29]。

第一次世界大戦中の士気維持のため、アメリカやヨーロッパの各国でインフルエンザの流行について報道統制が行われた一方で、中立国であったスペインでは被害の状況が自由に報道された[3]。首都マドリードでは1918年5月頃から第1波についての新聞報道が始まり、その後国王アルフォンソ13世が罹患すると報道はさらに大々的になった[39]。第1波時にスペイン発の報道が注目された結果、発生源はスペインであると広く信じられ、このパンデミックは世界的に「スペインかぜ (Spanish flu)」と呼ばれることとなった[3][4]。

第2波 (1918年8月–)
1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスのブレスト、シエラレオネのフリータウンという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始まった[40][29]。アメリカではボストン海軍工廠およびボストン近郊のディベンス駐屯地(英語版)から各地の軍事施設へと急速に感染が広がった[41]。大戦による軍隊の移動にも助けられ、第2波は2カ月のうちに北アメリカ全土に拡大し、その後中央アメリカ、南アメリカにも到達した[42]。ブレストで始まった流行は1918年9月末までにヨーロッパのほぼ全域に広がり、各国の軍事作戦も小康状態に陥った[43]。ヨーロッパの第2波はロシアにも拡大し、ロシア内戦やシベリア鉄道を通じて北アジア全域へと持ち込まれた後、イラン(ペルシア)に達した[26]。1918年9月にはインド、10月には中国と日本にまで到達した[26]。1918年11月、第一次世界大戦の休戦協定に伴う祝賀行事がロンドンやリマ、ナイロビなどで感染拡大を招いたものの、第2波は1918年12月までに世界的にほぼ収束した[26]。

スペインかぜの第2波は通常のインフルエンザに類似していた第1波とは異なり、健康な25–35歳の若年者層において非常に高い致死性を示し、死亡者数も大幅に増加した[3]。第2波の最中である1918年10月はパンデミックの全期間中で最も多くの死者を出した月となった[44]。アメリカでは最大29万2000人の死亡が1918年9月–12月に報告され(1915年の同時期には最大2万6000人)[37]、イギリスでもスペインかぜによる総死者(22万8000人)の64%が1918年10月–12月に発生したと考えられている[45]。

第3波 (1919年1月–)

マスクを着用する東京の女性たち(1920年)
1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した[3][46]。その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリで講和会議に出席していたアメリカ大統領ウィルソンも罹患した[47]。第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した[46][48][24]。日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた[49]。

第3波の毒性は第1波よりも高く、第2波よりも低かった[46]。アメリカにおける1919年1月–6月のスペインかぜによる死者は数万人であった[50]。スペインにおける1919年のインフルエンザによる死者は約2万1,000人であった(1918年の死者は約14万7,000人)[48]。

起源
起源については、諸説があるがいずれも仮説の域を出ておらず、2024年現在も特定されていない。

北米
アメリカ合衆国は、最初の症例が確認された地であり、複数の研究者によってスペインかぜの起源と考えられている[51]。歴史学者アルフレッド・クロスビーは1918年パンデミックがアメリカのカンザス州に起源を持つと述べている[52]。同様に、ジョン・バリー(英語版)はカンザス州のハスケル郡で1918年1月に発生した病気の流行がスペインかぜの起源であるとしている[51][53]。アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、アメリカでは1915年と1916年に既にインフルエンザと肺炎による死亡率の急増が見られていたと指摘する一方で、この現象と1918年パンデミックとの関連性は不明としており、パンデミックの地理的な発生源を特定するには歴史的・疫学的なデータが不足していると述べている[54]。他に、カナダの鴨のウイルスがイリノイ州のブタに感染したとの推定もある[55][注 2]。

2018年、アリゾナ大学のマイケル・ウォロビーは、カンザスの症例は同時期のニューヨークでの感染と比較して軽症で死亡者も少なかったことから、カンザス発祥の病気ではない根拠を示した。ただし、組織片の系統解析の結果、スペイン風邪ウイルスが北米に起源を持つ可能性が高いことが判明した。また、ウイルスのヘマグルチニンは、1918年よりずっと前に発生したことを示唆しており、他の研究では、H1N1ウイルスの再集合は1915年前後に起こった可能性が高いとされている。[56]

フランス
ウイルス学者ジョン・オックスフォード(英語版)は、1918年パンデミックの起源を第一次世界大戦中フランスのエタプル(英語版)に存在した大規模なイギリス陸軍の駐屯地と推定している[51]。オックスフォードの研究によれば、エタプル駐屯地では1916年末にスペインかぜと症状が類似する致死率の高い新種の病気が流行し[57][51]、その後1917年3月にはイギリス本土のオールダーショットにある陸軍の兵営でも同様の流行が発生しており[58]、イギリス軍の病理学者はのちにエタプルおよびオールダーショットで流行した病気が1918年のスペインかぜと同一のものであったと結論づけている[59][51]。オックスフォードはエタプル駐屯地について、常に約10万人の兵士が密集した状態で存在しただけでなく、敷地内に大規模なブタの飼育所があり、周辺の市場から生きたニワトリやアヒル、ガチョウが持ち込まれていたなど、呼吸器系ウイルスが流行するためには理想的な環境であったと指摘している[59]。

中国
パスツール研究所のウイルス研究者クロード・アヌーン (Claude Hannoun) は1993年、スペインかぜのウイルスは中国からもたらされた可能性が高いと主張した。アヌーンは、中国に由来するウイルスがアメリカのボストン近郊で変異したのち、フランスのブレストに渡ってヨーロッパ全域に広まり、その後連合国の兵士を主な媒介者として全世界に広まったとの見解を示した[60]。

歴史家マーク・ハンフリーズ (Mark Humphries) は、第一次世界大戦中イギリス・フランス軍後方での作業に約9万6000人の中国人労働者が動員されたことが1918年パンデミックを引き起こした可能性があると述べている[61]。ハンフリーズによれば、1917年11月に中国北部で流行した呼吸器系の病気は中国の検疫官によって、のちにスペインかぜと同一のものと確認されている[61][62]。

進化生物学者マイケル・ウォロビー (Michael Worobey) が中心となった研究チームは2019年、スペインかぜの中国人労働者起源説に対する反証を示した[56]。ヨーロッパに渡った中国人労働者の間でインフルエンザの症例が報告された時期は、同地点の他の集団に対して遅れているなどの理由を挙げ、彼らが最初の感染源であった可能性は低いと指摘した[56]。当時中国はスペイン風邪の影響を大きく受けず、これを既に集団免疫が獲得されていたからだとする主張もあったが、逆にヨーロッパでパンデミック前に流行していた証拠が見つかった[63]。

被害状況
被害者数
世界

ニューヨーク、ベルリン、パリ、ロンドンの死亡者数のグラフ
世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる[64]。当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。

世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。1927年からの初期の推定では2160万人[65]。1991年の推定では2500 - 3900万人[66]。2005年の推定では5,000万人からおそらく1億人以上[67][68]。しかし、2018年のAmerican Journal of Epidemiologyの再評価では約1700万人と推定されている[65]。

死者数を国別で見ると、特に甚大な被害を受けたのはインドで1200 - 1700万人[69]、アメリカ50 - 85万人[70][71][72](CDCの推定では67万5000人[73])、ロシア45万人[66](別の研究では270万人[74])、ブラジル30万人[75]、フランス40万人以上、イギリス25万人[76]、カナダ5万人[77] 、スウェーデン3万4000人[78]、フィンランド2万人[79]、等となっている。

これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである[注 3]。

日本
日本では1918年(大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた[80]。福岡県久留米市では、5月に大阪歌舞伎界の花形役者だった雁次郎丈が市内で公演した数日後に流感が流行し、「雁次郎かぜ」と呼ばれた[81]。

その後、同年8月に日本上陸、10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していること[82]や、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1波の大流行が1918年10月から1919年(大正8年)3月、第2波が1919年12月から1920年(大正9年)3月、第3波が1920年12月から1921年(大正10年)3月にかけてである[83]。

当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。著名人では1918年に島村抱月が、1919年に大山捨松、竹田宮恒久王、徳大寺実則、辰野金吾が、1920年に末松謙澄がスペインかぜにより没している。日本各地に収容されていた日独戦ドイツ兵捕虜にも感染者が相次ぎ、1919年1月1日には習志野俘虜収容所の所長だった西郷寅太郎も病没した。

第1波の患者数・死亡者数が最も多い。第2波では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。第3波の患者数・死亡者数は比較的少数であった。

日本におけるスペインかぜ(スペインインフルエンザ)の被害
流行時期 患者 死者 致死率
第1波 1918(大正7)年8月 - 1919(大正8)年7月 2116万8398人 25万7363人 1.22%
第2波 1919(大正8)年8月 - 1920(大正9)年7月 241万2097人 12万7666人 5.29%
第3波 1920(大正9)年8月 - 1921(大正10)年7月 22万4178人  3698人 1.65%
合計 1918(大正7)年8月 - 1921(大正10)年7月 2380万4673人 38万8727人 1.63%
感染者数2380万人、死亡者約39万人が内務省衛生局編『流行性感冒』(大正11年/1922年)による統計数値である[84]。速水融は死亡者を約45万人(肺結核、気管支炎等が死因とされていた者を含む)[85]と推計している。

特徴
スペインかぜはH1N1型インフルエンザウイルスが原因とほぼ特定されているにもかかわらず、他のインフルエンザ流行とは異なる特徴がいくつか見られる。ただし、第1次世界大戦中の流行であり、当時の記録には様々な混乱要素が含まれ得ることを考慮する必要がある。

被害者の年齢層
若年成人が死に至りやすい傾向が見られた。一般にインフルエンザの犠牲者は乳幼児(0–2歳)、高齢者(70歳以上)、免疫不全者に集中することから、これはスペインかぜの際立った特徴と考えられる。

アメリカの記録では、1918年から1919年までのスペインかぜによる死者数の99%は65歳未満であり、ほぼ半数が20歳から40歳の間である。65歳未満の死亡率は65歳以上の6倍であった。1920年になると65歳未満の死亡率は65歳以上の半分まで減少したが、それでも死者数の92%が65歳未満であった[86]。日本の記録でも同様の傾向が見られた[87]。

若年成人の死亡率の高さについては、スペインかぜのウイルスが引き起こすサイトカイン放出症候群が若年成人の強い免疫システムを破壊する[88]ことが原因の一説として挙げられている。妊婦の死亡率が特に高い[89]ことも若年成人の死亡率を高くした要因と見られる。また、実際にはスペインかぜのほとんどの犠牲者が栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態による細菌性の重複感染を死因としているとの指摘もあり[90][91]、第一次世界大戦による過酷な兵役、軍需産業への動員が若年成人の死亡率を引き上げた可能性もある。

高齢者の死亡率の低さについては、この時代の高齢者は1889年頃に流行した「ロシアかぜ」で免疫を獲得していたのではないかとの説もある[92]。

流行時期
夏から秋にかけて大流行。一般のインフルエンザウイルス流行ピークは冬季である。

病原体

患者の遺体から見つかったゲノムより復元されたスペインかぜウイルス
スペインかぜの病原体は、A型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)である。ただし、当時はまだウイルスの分離技術が十分には確立されておらず、また実験動物であるマウスやウサギに対しては病原性を示さなかったことから、その病原体の正体は不明であった。

ヒトのインフルエンザウイルスの病原性については、1933年にフェレットを用いた実験で証明された。その後、スペインかぜ流行時に採取された患者血清中にこの時分離されたウイルスに対する抗体が存在することが判明したため、この1930年頃に流行していたものと類似のインフルエンザウイルスがスペインかぜの病原体であると考えられた。

その後、1997年8月にアメリカ合衆国アラスカ州の永久凍土でヨハン・フルティンにより発掘された4遺体から肺組織検体が採取され、ウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやくスペインかぜの病原体の正体が明らかとなった[93]。

これにより、H1N1亜型であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであったことが証明された。その後の研究で、現在のH1N1亜型はすべて、このときの病原体に由来することが示唆された[93]。よってスペインかぜは、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったものと考えられている。つまり、当時の人々にとっては全く新しい感染症(新興感染症)であり、ヒトがスペインかぜに対する抗体を持っていなかったことが、パンデミックの原因になった。

スペインかぜについては、ゲノム解読された遺伝子からウイルスを復元したところ、マウスに壊死性の気管支炎、出血を伴う中程度から重度の肺胞炎、肺胞浮腫を引き起こすことが判明した。このような強い病原性は、ウイルス表面にあるタンパク質HA(赤血球凝集素、ヘマグルチニン)が原因である。また、スペインかぜウイルスは、現在のインフルエンザウイルスよりも30倍も早く増殖する能力を持つことが分かっている(増殖を司る3つのDNAポリメラーゼによる)。

通常の流行では小児と老人で死者が多いが、スペインかぜでは若年成人層の死者が多かった点に関して、2005年5月にマイケル・オスターホルム(英語版)はウイルスによって引き起こされるサイトカインストームが原因[94]であるという仮説を提唱したが、これに反対する説もある。一方2007年1月に、科学技術振興機構と東京大学医科学研究所が、人工合成したウイルスを用いてサルで実験した結果では、スペインかぜウイルスには強い致死性の肺炎と免疫反応の調節に異常を起こす病原性があることを発表している[95][注 4]。

パンデミックの数年後、スペインかぜの病原体であるH1N1亜型インフルエンザウイルスの毒性は大きく低下しており、これ以後の大規模な感染流行は起こっていない[96]。そして2008年12月に、東京大学の河岡義裕など日米の研究者グループによって、H1N1亜型インフルエンザウイルスにて強い病原性を説明する3つの遺伝子を特定したことが発表された[97][注 5]。

影響
第一次世界大戦
スペイン風邪は第一次世界大戦が感染拡大の主因となるとともに、戦争の結果にも大きな影響を及ぼした。1918年、ドイツ軍は春季攻勢を仕掛け、パリ付近にまで迫るほどの快進撃を見せた。7月にはさらなる攻勢に出ようとしたが、栄養不良の兵士たちの肉体をインフルエンザ・ウイルスが蝕み、実行できなかった。戦力不足と物資不足により、最終的にドイツは敗戦。独軍指揮者のエーリヒ・ルーデンドルフは、「ドイツ陸軍を弱めた、あのいまいましいインフルエンザのせいなのだ」と嘆いている[98]。2006年のランセット誌の研究において、ドイツ(0.76%)とオーストリア(1.61%)の超過死亡率が、イギリス(0.34%)とフランス(0.75%)と比べて高いことが示された[99]。

さらに、翌年1月、大戦の講和条約を検討するパリ講和会議が開かれた。連合国のうち、イギリスとフランスはドイツへの報復を主張していたが、米国のウィルソン大統領は、平和を維持するためにはドイツに過大な賠償を課すべきではないと考えていた。ところが、ウィルソン大統領は講和会議中にスペイン風邪を発症し、出席できなくなった間に英仏両国が議論を主導して巨額の賠償を求めるベルサイユ条約を可決させた。このことがドイツ経済の致命的な破綻をもたらし、ヒトラー政権の誕生、そして第二次世界大戦に繋がっていったとも指摘される[100][101][102]。

その他
日本では、スペインかぜをきっかけにマスクが一般人にも普及するようになった。

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投稿者: 大橋医院

2026.03.25更新

<地獄の岐阜高校生活>   大橋信昭
私は小学校、中学校は優等生だと勘違いしていたのです。確かに中学3年生の担任の先生は「君の成績は優秀だから岐阜高校を受験しなさい」と、おっしゃってくださり受験しました。中日新聞に「真剣に試験用紙を見つめる受験生」と岐阜版に私の写真がアップで載っていました。いつ撮影されたのですか。先生は「君は一教科眠っていても合格するから!」と励ましてくれました。5教科真剣に問題を解答し学校の先生の激励通り合格しました。合格者はすぐに体育館に集められ、担任の先生と面談です。サングラスをはめた9クラスの中で一番怖そうな先生でした。「大橋君、君は大垣から岐阜市への通学からハンディーがある。掃除当番は免除、クラブ活動は禁止、一刻も自分勉強部屋に帰り猛勉強しなさい!」との命令でした。すぐに「これが春休みの宿題だ!」どっさり問題集が渡されたのです。高校受験の休憩は無く、直に猛勉強です。宿題を片づけたら入学式、9クラス460人うち女生徒は80人、男子クラスは6クラス、男女クラスは4クラス、結果的に私は3年間男子ラスで女子とは、全く疎遠でした。登校初日のことです。クラスメートのいる室を開けたのですが、もはやクラスメートは、机に向かっており、くばられた教科書の半分は手垢で真っ黒でした。例のサンラスの担任が現れるまで、静寂が流れました。先生の数学講義がすぐに始まり、「俺の講義は完璧だから、質問ゆるさん!」みっちり狼のような声で数式が並べられ、アッという間に授業は終わりです。そして山のような宿題を残していました。私は不吉な予感がよぎり、こんな3年間は地獄と考えていたら現実でした。英語は厚い英単語集が配られ、毎日テストです。山崎貞の英文例題集も教科書と一緒に配られました。社会、物理、化学、その他気を抜ける授業はありません。毎日食事と入浴、睡眠以外は、黒板と参考書とノート以外見ることは許されません。土曜、日曜、祝日、夏休み、冬休み、春休みも無限の宿題に追われ、あっという間に3年生、受験生になったのです。文化祭、修学旅行、体育祭等は、楽しそうな男女クラスに比べ、男子クラス私は記憶にありません。受験担当の先生に「医学部を受験したいです。」と言ったら、鼻で笑われ「君、医学部は60番前後でなくては、合格が無理だよ」と言われました。私の成績は200番、「君の一生の問題だよ!」「私の人生です!」と言い争いました。それから私は60番に向かって睡眠時間削減、通学時間にも英単語を覚える努力が必要でした。努力が実り,確実に成績急上昇し、担任の先生から誉められ、「大橋を見習え!」と言われましたがクラスの半分は医学部志望なのです。名古屋市立大学医学部を志望しました。定員名のところ1200人が競争相手です。受験前夜、父が「俺は無一文でここまで頑張ってきた。何故、医学部を絶対合格しますと言わないのだ!」と

投稿者: 大橋医院

2026.03.22更新

<志を遂げるまで故郷の土を踏まず:野口英世>
大火傷を負うも、母親の深い愛情に
医学の道へ進むことを決心する
医学者・野口英世は、1876(明治9)年に福島県耶麻郡(現在の猪苗代町)の貧しい農家の家に生まれました。
1歳のときに英世は囲炉裏に落ちてしまい、燃えさかる火で左手に大火傷を負い、医師にかかることもできず、癒着してしまう事故に遭います。
母親のシカは「私の不注意で左手を火傷させてしまった。この子は農業を継ぐことはできないので、なんとしても学問で身を立てさせてやりたい」と、深い愛情を注ぎます。
教科書も買えないくらい貧しさの中、母は英世を小学校に入学させます。
勉強が思うように進まず、英世が弱音を吐くときでも「お前は、学問一筋に生きていくのだよ」とやさしく言い聞かせたのでした。
その母の言葉に応えるように、野口英世の成績は学校でも群を抜いていました。
15歳のとき、級友らが募金を集め、西洋医学者・渡辺鼎医師の手によって、左手の手術が行われ、英世の左手は少し自由を取り戻すことができたのです。
手術を受けた時に医学の素晴らしさに感動し、「将来は医者になろう」という決意が英世の中に芽生えてきます。
17歳の時に、英世は意を決し、故郷を離れ、上京をします。
「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」
高山歯科医学院(現・東京歯科大学)で雑用係をしながら、済生学舎(現・日本医科大学)で医学を学んでいきます。
学校での勉学に没頭し、時間さえあれば医学書を読み、その結果、人よりも早く医学試験に合格、20歳のときに早くも医師免許を取得します。英世の強い志しが、難関の試験の突破に結びついたのです。
ノーベル医学賞候補に挙がること3回
感染症との闘いに徹底し、実験を繰り返す
野口英世はここから細菌学を学び、細菌学医学者への道をまい進していきます。

英世の「研究ノート」には、その経過が詳しく記載されている。(資料:野口英世記念館)
細菌学への関心が強かったこともあり、1898年に東京・芝公園内に設立されていた『伝染病研究所』へ入所します。
「海外で研究をしたい」と翌年には留学を決意し、アメリカに渡ります。
大きな転機は、28歳で米国・ロックフェラー医学研究所に招かれたことです。そして「梅毒スピロヘータの純粋培養」に成功したのをはじめ、次々と目覚しい功績を示し、38歳の時にはノーベル医学賞候補に名前が挙げられるほどになりました。
米国・ロックフェラー医学研究所での研究に没頭する野口英世
1915年、40歳の時に、野口英世は一度だけ、日本に戻ってきたことがあります。
それは、母・野口シカからの
「はやくきてくたされ はやくきてくたされ いしよのたのみてありまする」
という手紙での願いに応えたものでした。
横浜港では多くの報道陣や恩師・友人が英世を出迎え、英世は母との再会を果たしました。
母シカは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語っています。

母・野口シカと15年ぶりの再会を果たす(資料:野口英世記念館)
南米での「感染防止」に成功するも
新たな課題の発生
しかし、野口英世はその2か月後には、米国・ニューヨークに戻ります。
感染症との闘いの日々は「時間の猶予」をそう簡単には与えてくれないのです。
1918年、41歳の時に黄熱病が大流行していた中南米にロックフェラー研究所の派遣員として参加、当時『黄熱病』が大流行していた南米・エクアドルへ向かいます。
すぐさま原体を発見し「野口ワクチン」を開発、その広がりを抑えます。南米の黄熱病が落ち着きを見せるなど、世界が野口の功績に大賛辞を贈ったのです。

新聞などのメディアでも英世の功績は称えられた。(資料:野口英世記念館)
しかし、この野口ワクチンは、南米では効果を大きく発揮しましたが、アフリカの『黄熱病』には効かないことがわかります。
野口は自らアフリカへ飛び、ガーナに研究施設を造営し、今度は、アフリカの地で『黄熱病』研究に没頭します。
「教えに来たのではありません。習いに来たのです」
英世は自らを「黄熱病」感染の真っただ中に身を置き、その原因、治療法などの研究に邁進していきます。
「感染」というリスクに身を置き
ガーナの地で「黄熱病研究」に没頭する
黄熱病の死亡率は、30%~ 50%とされており、これはエボラ出血熱に匹敵し、非常に危険な感染症です。
細菌学の権威である野口の研究スタイルは、徹底して実験を繰り返し、気の遠くなるような実験パターンを経て、データを蓄積していく、というものです。
故郷を旅立ったときの
「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」
という言葉を常に自らの胸に刻み込み、並外れた集中力で研究に突き進むのです。
残念なことに野口英世も51歳の時に、自らがガーナで黄熱病に感染してしまいます。
殉職。
その壮絶な死は、野口英世らしいものといえるのかも知れません。
この野口ら医学研究者の研究もベースとなり、その後、アフリカの医学者マックス・タイラーによって「黄熱ワクチン」が開発されています。
ただし、全世界から、この黄熱病が完全に消え去ったというわけではありません。これが感染症なのです。

「絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ」

「人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない」

「野口英世記念館」全景 福島県・猪苗代
 米国・ロックフェラー医学研究所の図書館には創始者ロックフェラー一世と並び、野口英世の胸像が飾られているそうです。

 

投稿者: 大橋医院

2026.03.22更新

「医は仁術なり(いはじんじゅつなり)」は、医療は単なる技術ではなく、人を慈しみ救う「仁(博愛の心)」の道であるべきだという、江戸時代から日本に伝わる医療倫理の根幹をなす言葉です。利益を追求する「算術」ではなく、病者の苦しみに寄り添う高い道徳観が医者には求められることを説いたものです。
国立科学博物館
国立科学博物館
+2
「医は仁術なり」の主な意味と由来:
「仁」の心: 儒教に基づく、他人を思いやる愛や情けの心。身体だけでなく、心も治すのが医者の本来の姿とされる。
技術から「道」へ: 医療技術(術)は、人命を救う(活人)という「仁」の目的を果たして初めて評価される。
由来: 中国明代の『古今医統大全』や、唐の陸宜公の言葉「医は以て人を活かす心なり」がルーツとされ、日本では江戸時代に広く知られるようになった。
戒め: 金銭目的で医療を行うことや、患者の心を無視した診療に対する批判として、「医は算術」という対義語をもじって使われることもある。
日本医師会
日本医師会
+4
現代における意義:
現代の高度医療においても、技術偏重になりがちな現場に対し、患者の尊厳や心に寄り添う「仁」の精神は重要とされています。一部では「医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す(医療は本来、人を切ることもある非情な側面を持つが、だからこそ必死に仁愛を施すべきだ)」という江戸時代の医師・大江雲澤の言葉を引用し、医者の謙虚さを説く場面も増えています。
日本医師会
日本医師会
+1
医は仁術(いはじんじゅつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ことわざを知る辞典 「医は仁術」の解説 医術は病人を治療することによって、仁愛の徳を施す術である。 人を救うのが医者の道...

コトバンク
医の倫理綱領」―「医は仁術」は,もはや死語か? - 日本医師会
広辞苑には「(慣)医は仁術なり」とは,「医は,人命を救う博愛の道である」とあるだけである. 「医は仁術」の語源について,...

日本医師会

視点/医は仁ならざるの術,務めて仁をなさんと欲す
第1122号(平成20年6月5日) * 医は仁ならざるの術,務めて仁をなさんと欲す * 「医は仁ならざるの術,務めて仁を...

日本医師会
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投稿者: 大橋医院

2026.03.21更新

メルスモン注射は、ヒトの胎盤から抽出された成分を含む医療用医薬品です。更年期障害や乳汁分泌不全の治療に効果が期待でき、厚生労働省にも認可されています。

投稿者: 大橋医院

2026.03.20更新

アメリカにおける人種問題、特にアフリカ系の人々が奴隷として連れてこられたことに端を発する問題は、非常に根深く、完全には解決していません。これは国家の成り立ちに奴隷制が深く関わっているためであり、歴史的、文化的に広範囲にわたる複雑な問題です。

投稿者: 大橋医院

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