「老いてこそ生きがい」という石原慎太郎著の本を読んで感動した。
彼が87歳の時に書いた本である。皆さんも絶対に読むべきである。
老いてからの人生の円熟、名前を見ただけでもわかる。
森繁久彌、日野原重明、三国廉太郎、田畑一郎は90歳過ぎてもギター抱えて歌っていた、ピカソ,一休、ナイチンゲール
彼らは老いても、年齢に負けずに活躍したのである。
私は72歳、これからである!
2026.05.18更新
「老いてこそ生きがい」という石原慎太郎著の本を読んで感動した。
彼が87歳の時に書いた本である。皆さんも絶対に読むべきである。
老いてからの人生の円熟、名前を見ただけでもわかる。
森繁久彌、日野原重明、三国廉太郎、田畑一郎は90歳過ぎてもギター抱えて歌っていた、ピカソ,一休、ナイチンゲール
彼らは老いても、年齢に負けずに活躍したのである。
私は72歳、これからである!
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「老いてこそ生きがい」という石原慎太郎著の本を読んで感動した。
彼が87歳の時に書いた本である。皆さんも絶対に読むべきである。
老いてからの人生の円熟、名前を見ただけでもわかる。
森繁久彌、日野原重明、三国廉太郎、田畑一郎は90歳過ぎてもギター抱えて歌っていた、ピカソ,一休、ナイチンゲール
彼らは老いても、年齢に負けずに活躍したのである。
私は72歳、これからである!
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2026.05.18更新
認知症のスクリーニングを受けることは、高齢者本人や家族が将来の疾患の進行に備えて計画や準備をするための「事前の警告」となり得る。一方で、陽性と判定された場合、家族が介護者としての役割に不安を抱いたり、高齢者本人が自立を失うことを心配したりするなど、ストレスとなる可能性もある。
しかし、こうしたストレスを理由に認知症のスクリーニングを先延ばしにする必要はないようだ。大規模臨床試験において、かかりつけ医の診察時に実施されたアルツハイマー病および関連認知症(ADRD)のスクリーニングの結果は、高齢者の家族に心理的苦痛を引き起こさないことが示された。米インディアナ大学医学部のNicole Fowler氏らによるこの研究結果は、「JAMA Internal Medicine」に4月20日掲載された。
論文の筆頭著者であるFowler氏はニュースリリースで、「この研究は、ADRDのスクリーニングが家族の生活の質(QOL)や抑うつ、不安を2年間にわたって悪化させなかったことを示す安心材料となる」と述べている。
この研究では、2018年10月から2023年9月の間に米インディアナ州の29のプライマリケアクリニックを受診した65歳以上の患者とその家族1,808組(患者の平均年齢73.7歳、女性53%)を対象に、ADRDのスクリーニング実施が家族にもたらすベネフィットとリスクが評価された。患者の家族の半数以上(64.8%)は配偶者であり、平均年齢は64.2歳で女性が67.7%を占めていた。対象ペアは、ADRDのスクリーニングのみを受ける群(601組)、スクリーニング+追加検査への紹介を受ける群(603組)、およびスクリーニングを受けない対照群(604組)にランダムに割り付けられた。
主要評価項目は、24カ月時点における家族の健康関連QOLであり、SF-36(Short Form Health Survey)の身体的健康スコアと精神的健康スコアのサマリースコアを用いて評価された。また、副次評価項目として、家族の抑うつ・不安の症状、介護準備度および介護者の自己効力感に加え、患者本人のQOLや精神状態も評価された。
全体で61人(5.1%)の患者がスクリーニングで陽性の判定を受けた。陽性者のうち、スクリーニング+追加検査紹介群では、35.7%(28人中10人)が診断のための追加検査を受けなかった。解析の結果、スクリーニング実施群(スクリーニング群とスクリーニング+追加検査紹介群)と対照群との間で、SF-36による身体的および精神的健康のサマリースコアに有意な差は認められなかった。さらに、24カ月時点における患者のQOLや精神状態についても、両群間で有意な差は認められなかった。
Fowler氏は、「本研究結果は、ADRDのスクリーニングを実施することと、早期診断を行い患者や家族を適切なケアにつなげることは別であるという重要な点を示している。早期診断は、診断評価や治療、継続的支援に結び付いて初めて、家族や介護者にとって有益となる可能性がある」と指摘している。
そのうえでFowler氏は、「これらの結果は、ADRDのスクリーニングを実施する際には、患者が適切な診断やケアを受けられるような体制整備が必要であることを示している」と述べている。例えば、アルツハイマー病の早期診断に役立つ新しい血液検査法が開発されつつあり、これにより有望な新規治療や臨床試験へ患者をつなぐことができるという。
Fowler氏は、「ADRDの診断の遅れは、介護者のストレスや負担、孤立感の増大と関連している。一方、早期発見は、教育や早期介入、支援を通じて家族を助ける可能性がある。また、プライマリケアと連携する協働型の認知症ケアプログラムは、患者と介護者双方の転帰を改善することが知られている。さらに、近年の疾患修飾薬は、アルツハイマー病の早期段階でのみ、使用が承認されている」と述べている。
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2026.05.12更新
エア・ウォーターなど、歯髄幹細胞の培養上清液を点鼻投与し、脳神経細胞を活性化
化学工業日報2026年4月27日 (月)配信 神経内科疾患その他
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エア・ウォーターはこのほど、新たな認知症治療技術の開発に向け、医療機関などとの共同研究を開始したと発表した。不用歯などから採取する歯髄幹細胞を培養する際に分泌される因子を含む培養上清液を点鼻投与することで、脳神経細胞を活性化させるという新たな認知症治療技術の確立に挑む。2027年までに同技術を確立し、28年に臨床研究を始める予定にしている。
エア・ウォーター再生医療研究所(神戸市)、田中医療創造研究所(東京都千代田区)、医療法人ホワイト日光・ふじの原病院(栃木県日光市)の3者が協力し、歯髄幹細胞の培養上清液を用いる認知症治療技術の実用化を目指す。
エア・ウォーターグループのエア・ウォーター・アエラスバイオ(神戸市)は抜歯された歯から歯髄幹細胞を採取し培養、保管、そして治療時に歯髄幹細胞を歯科医院に送るという歯髄再生治療に関わるビジネスを実施している。歯髄再生治療は歯髄幹細胞を歯に移植して歯髄を再生させるもの。エア・ウォーター・アエラスバイオがRD歯科クリニック(神戸市)とともに20年に世界で初めて実用化した。
歯髄幹細胞は神経再生との親和性が高いとされている。培養過程で分泌される多様な因子が神経細胞に働きかけて神経を再生する効果については多くの論文で紹介されている。新たな認知症治療技術を開発するうえで、こうした因子を含む歯髄幹細胞の培養上清液に着目。培養上清液を点鼻投与し脳へ直接作用させることで脳神経細胞を活性化させる。
共同研究においてエア・ウォーター再生医療研究所は、田中医療創造研究所と共同で歯髄幹細胞の培養上清液を医療機関に供給するためのシステムの研究開発を行う。また、培養上清液の品質管理、神戸市の拠点から医療機関までの安定的な輸送方法の確立および品質基準の策定を担う。
田中医療創造研究所は、培養上清液を点鼻薬として使用するための医療ハンドリング技術を開発し、エア・ウォーター再生医療研究所と連携して品質基準の妥当性検証を行う。
医療法人ホワイト日光・ふじの原病院は臨床研究の実施に向けた研究企画の立案と法的手続きの準備、そして臨床研究を通じて安全性・有効性を確認する。
神経内科疾患その他
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2026.05.09更新
2026年度のBaby発症率は、ほんの68万人、来年度は50万台だって!
生めるカップルよ!
赤ちゃんを作ってよ、少子高齢化はひどく、日本はつぶれるよ!
早々に、人工100万以下、アジアの小国になてしまう、!
私は小学校の、校医をしているが、去年は入学者が70人だよ!今年はもっと減るんじゃないかな?
若者よ、男は草子化にならずに、気に入った女性がいたら猛烈攻撃せよ!
女性もスケベのくせに、それとは関係ないが、結婚して子供を生んでくれ!
家庭を作るのがめんどうくさいなんていわないで!
温かい家庭、仲の良い夫婦、新婚時代に子供を3人作って!お願いします!
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2026.05.07更新
令和8年のゴールデンウィークの5月5日、今まで大して気にしていなかった親父の眼鏡をはめてみた。若い頃、老眼がきつく、とても僕には不向きであった。ところが今72歳でもうすぐ73歳になろうとしている私は、今、親父の眼鏡をはめてみると、世界が光り輝いた。早速、書斎に万冊とある蔵書をめくって読んでみた。驚いた!あんなに読みにくかった三国志が、楽々読めるのだ!この三国志は
全30巻あって、百円均一の安い眼鏡では、よむのに見にくくて、疲れ、努力をしたが21巻でGive Upしたのだ。22巻目を親父の眼鏡で読むとあっという間に百ページ読んでしまった。これはすごい。30巻まで読むぞ。親父の眼鏡で、石原慎太郎、五木寛之をめくってみた。何と読みやすい。松本清張の「古代史の疑惑」を見たが、とても見にくかった本が入れ替わったみたいに、読めるのだ。
親父の眼鏡は魔法だ。サーこれまで非効率に読んでいた僕の愛読書を読み直し、まだ読んでいない本もたくさんある。一気に読むぞ!つまり、僕の老眼が進み、親父の眼鏡と度がぴったり合ったのだ。
僕はこれを死ぬまで親父の形見にして、大切にするのだ。親父の眼鏡をはめた途端、親父のことが思い出されてきた。怖かったな!菅原文太と若山富三郎と高倉健の怒った形相を足した顔色をいっつもしていた。機嫌がいいのだか、怒っているのだか、分からないし、周囲に近寄りがたいオーラを発散していた。
石油販売業を、経営していて、ある日、20代のお客さんの入り口の扉の締め方が気に食わん!もっと丁寧に閉めろと怒鳴ったのである。もうこの客は店主があんなに怖くては二度と来ることは無かった。支払いは月末払いをお客さんによって認めていたが、当時日本は貧乏で、月末になっても親父に支払いできない人も出てくる。そんな時は店の土間に土下座させて、「来月に払わなかったら、命は無いぞ!」といった。真実性のあるどす声であった。呼び出しても未納のお客は、夜中、そ人の家に押し入り、現金全部、今日品の骨とう品も全部かっさらっていった。僕はいつも親父と一緒で、商売はこんなもんだ。妙に声が勝慎太郎の悪い親分をたたっきる時の声に似ていた。
当時、やくざの弱い市民に対する横行はひどく、皆、泣きながら親父に助けを求めてきた。親父は大垣で一番のやくざの親分と仲良く、やくざの親分は子分を叱りつけた。待合室には入れ墨の子分や指の無い人が時々出入りしていた。この無法松みたいな親父は、やくざの事務所へ行って、子分の前で親分に「おい、親分、ここらでかたぎになったらどうだ!」といったのである。不通なら生きて帰れない。親父は完全に親分より強いオーラを持っていた。
ある日曜日、事務所に親父はいたのだが、無警戒にもどこかのチンピラがガソリン窃盗にはいったのである。見つけた親父は、二人の窃盗犯を袋叩き、蹴飛ばし、半殺しにした、「哲っちゃん、かんにん!」当時親父は「頑哲」「てっちゃん」と呼ばれていた。僕の驚いたことは従業員が不祥事をやらかした時、横一列横帯にならばせ、往復ビンタである。僕も何度か殴られたが痛さ強烈である。
しかし、困った人には本当に親切に相談に乗り、助けてやり、町内の雑用もがんばり、副会長から会長へ、東連合組愛の、会長になったのである。そして大垣祭りの市長代行も引きうけた。
僕が親父の商売は後を継がないで医師になるといったとき、「お前、絶対に合格する自信があるから、啖呵を切ったんだろうな!」その後、医学部合格発表を親父に報告したが、全く顔色を変えなかった。
父が昭和65年に亡くなり、原因は胃癌のスキルスであった。亡くなる2週間、親父より、これからの生き方を僕に3時間説教された。勉強になったがまたぶん殴られるか恐怖半分であった。
親父は、僕をとてもかわいがってくれたし、人生の厳しさを教えてくれた。ありがとう、親父さん!(完)
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2026.05.02更新
<医師になれて幸福で、永遠に患者さんと触れ合っていたい>
大橋信昭
昭和54年医師になり、約50年が過ぎ去ろうとしている。振り返れば、なんと幸せな半世紀であったろう。新人の時は、血圧を測定するのも、聴診するのも、採血さえ怖く、医師の基本ができていなくて、上達するまでには、多くの患者さんに迷惑をかけた。やがて、仕事が楽しくなり、医学生時代に習ったこと、医学文献で学習することがマッチングするようになると、ますます楽しくなる。病棟へ行くのは、浮き浮きするのは医師として医療行為に熱中できるのも楽しいが、周りには白い衣装を羽織った天使、美しいナースがあふれており、とり囲まれているからだ。それから医学的に考えて、極めて興味深く、学界に発表、論文にすることも楽しいものだ。医学に、没頭していると、研究する意欲もわいてくる。私は、動脈硬化に興味がわき、しかも血清学的に研究する学者は多いが、脈管学的にアプローチしたかった。私の所属する医局に、尊敬する先輩いて、
インピーダンスカルジオロジーを研究しておられて、そのお手伝いをさせてもらっているうちに、私も研究するようになり夢中にもなり、やがて学会する発表することとなり、国内の大都市から田舎の観光都市まで、幅広く発表することになり、論文の数も増えた。こうなると患者さんの診察も研究も楽しい。
今度は国内だけではなくて、世界に目を向けた。世界の大都市で行われている脈管学は意外に多く、発表者を歓迎してくれた。アムステルダム、ハンブルグ、ユーゴスラビアのザダール、台北と発表は進んだ。研究内容も充実してきた。論文も増えた。ここで、最も権威のあるWorld of Congress cardiology に挑戦した。1986年、WashinntonnDCで行われており、私の論文を送ったら採用されたのである。有頂天である。すぐにUSAの準備をして、ワシントンDCで発表し、ニューヨーク、ミネアポリス、インディアナポリス、ロサンゼルス、ハワイと長旅も楽しんだ。ここで私は医学博士を
取得した。帰国後,病棟生活にも慣れ、教授への出世の憧れもあったが、やはり地元の岐阜県大垣市の在宅医療、育ててくださった大垣市民の皆様に医師としてお返しをしたいと決意した。開業は平成元年である。今は令和8年、開業医から長い歳月が経った。順風満帆ではなかったが、医師会の役員もさせていただき、医師会活動、やはり、大垣市民の皆様に僕の学んだ医療をぶつけることが主であった。在宅、施設の嘱託医、産業医にも頑張り、今日に至る。これぐらいで満足せずにさらに己を磨いて活躍するつもりである。皆さま、よろしくお願いします。(完)
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2026.05.01更新
小生は昭和28年7月31日に長崎で生誕した。何故、長崎市で生まれたか、知るはずがない。しかし、おぼろげに、何歳の時か、蒸気機関車で大垣市方面へ向かっていたのか?窓から黒いすすが普遊してきたシーンを画像のように、覚えている。次、小生が己を自覚したのは、大垣市の南頬町の木造の2階で睡眠から半覚せい状態で、両親が深刻な話をしていて、「俺たちは長崎市でパチンコ屋、大垣市ではスマートボール屋、両方とも長男の信昭に自慢できる商売ではない。ここらでかたぎの今、流行しているガソリンスタンドをはじめよう!」と、この二人の討論を聞いてすぐに5歳らしくまた熟睡に入った。次、私が気が付いたのは、6歳か7歳か、大垣市伝馬町の仏壇屋の前の小さな2階立ての和室で、2階の洋間の窓から見えるシーンは、父がお客さんの車に真剣に給油をしており、母が事務服を着て、別のお客さんからお金をもらい「毎度、ありがとうございます、またのお越しをお願いします。」と丁寧に、頭を下げていた。いつの間にか伝馬町104-1に小さな給油所ができており、私は混乱した。つまり、高度成長を目指す日本において、大垣市も例外なく車社会になりつつあり、まだ自家用車は少なく、ガソリンスタンドのライバルは少なく、ガソリン、灯油などは貴重品で、父と母は3番目の商売も大成功、車社会に乗っかり一儲けしたのである。小生は小学校から中学校に進学し、自慢じゃないが、学業成績は常に、学年で5番以内、クラスではトップ、毎年クラス委員に選ばれ、中学3年生には生徒会執行部、理事も務めた。中学3年生の担任の先生は「君!岐阜高校を受験しなさい!一教科眠っていても受かる。太鼓判を押すよ。}とその予言通り、岐阜高校に合格し、中日新聞に、真剣に「受験に取り組む受験生」と大きく地方版に掲載されたのだ。私の苦労はここからだ。母から幼いころからお前はお医者さんになりなさいと飽きるほど言われていたので、中学生の時は、小生は絶対に医師になるのだと決心していた。確かに父と母の石油販売業は、3Kで、私は一度も手伝ったことは無かった。私は岐阜高校生になり、1年生は9組あり、生徒は460人はいたが、担任の先生は9人で、一番怖いサングラスの先生が担任になった。「大橋!お前は大垣から岐阜へ通勤しているのだから、3時に授業が終わったら、掃除当番もいいからすぐに帰って勉強しろ!クラブ活動はしなくてよい!」女生徒は80人はいたが、3年間しゃべったことがなく、ノートと参考書と黒板のみを見て、その怖い先生に「医学部を受けたいのですが」と聞いたら鼻で笑われ、医学部は460人中60番前後ではなくては受かる見込みはないと突き放された。英単語の試験は毎日あり、授業の予習と復習に実力テスト、中間、期末テスト、眠る時間は無かった。一向に、私の成績は伸びなじかったが、2年生の国語の先生から「君は、すこしづつ成績は伸びている、睡眠不足で勉強しているというが、しっかり眠って、参考書から勉強の仕方も、もっとかんがえろ!」と言われ、医学部合格作戦を大改革して、幸い郊外に父が日本家屋を立ててくれて、私だけの勉強部屋をしっかり作ってくれた。夏休み、冬休みなどは、午前中は英語、理科、社会などの記憶力勝負の勉強をして、昼は全国の有名大学入試問題を解き、夕食、入浴後は数学の超難問に取り組んだ。さらに成績は上がり、2年生の先生は大変誉めてくれた。3年生になると、本格的な入試問題と向き合うことになり、3年の担任の先生は「君の人生だ!医学部はあきらめなさい」
「僕の人生ですから、医学部をうけさせてください」のという論争が多かった。結局、内申書を書いてくださり奇跡的にも医学部は合格した。くるしい受験地獄から解放され夢のような医学部生活が6年間であった。国家試験も合格して、心臓専門教室に入った。皆さんは白い巨塔は小説だと思っているようだが、入局した教授は、情け知らずの、冗談は通じない、鬼のような教授で、研究内容も強制されたが、臨床の勉強もしながら、国内のあらゆる都市で研究発表、そして、初めてユーゴスラビア、台北の国際学会に発表出来て、鬼教授はすぐに英文の論文を強制した。しかし、教授を驚かせてやったのは、1986年;超難関なⅩ World of Congress of CardiolpogyがワシントンDCで世界的な学会に、私の論文が採用されたことである。鬼の教授も驚き、「よくやった!すぐに発表後、論文を書きなさい。君はよく論文を書いているから、この論文を主論文として、あと二つの副論文は私が選んであげよう。」教授の言う通り仕事を仕上げたら、医学博士をもらえた。「君、紹介してあげるからUSAで勉強してこい!」と言われたが、この言うことを聞くと一生、USAから帰宅後、准教授として大学で苦労せねばならない。断ったら、鬼教授は烈火のごとく怒り、国立浜松病院へ左遷された。ここで2年が経ち始めて教授にたてついた。「郷里の大垣市で開業します。」教授の顔色は真っ青?真っ白になったが、かまわず平成元年に、今の大垣市伝馬町で「大橋医院」として開業した。危なかった。バブルがその年に崩壊したのである。昭和天皇がお隠れになる昭和63年までは、どの銀行も私に融資を競った。ギリギリバブル崩壊直前にある銀行から2億円の借金をし、現在の診療所ができた。危なかった.USAなど行っていたら大変であった。開業後、順調に開業医の道を進んだわけではない。私は初代、大垣市医師会や大垣市民の信用を得るのに10年はかかった。大垣内科会担当理事、大垣市医師会理事など大役をもらえるのに砂を噛むような努力をした。
開業してほぼ50年、西濃地方の医師、患者さんから幅広く信用を得て、毎日、修行研鑽である。これからも油断大敵である。(完)
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