2026.05.01更新

小生は昭和28年7月31日に長崎で生誕した。何故、長崎市で生まれたか、知るはずがない。しかし、おぼろげに、何歳の時か、蒸気機関車で大垣市方面へ向かっていたのか?窓から黒いすすが普遊してきたシーンを画像のように、覚えている。次、小生が己を自覚したのは、大垣市の南頬町の木造の2階で睡眠から半覚せい状態で、両親が深刻な話をしていて、「俺たちは長崎市でパチンコ屋、大垣市ではスマートボール屋、両方とも長男の信昭に自慢できる商売ではない。ここらでかたぎの今、流行しているガソリンスタンドをはじめよう!」と、この二人の討論を聞いてすぐに5歳らしくまた熟睡に入った。次、私が気が付いたのは、6歳か7歳か、大垣市伝馬町の仏壇屋の前の小さな2階立ての和室で、2階の洋間の窓から見えるシーンは、父がお客さんの車に真剣に給油をしており、母が事務服を着て、別のお客さんからお金をもらい「毎度、ありがとうございます、またのお越しをお願いします。」と丁寧に、頭を下げていた。いつの間にか伝馬町104-1に小さな給油所ができており、私は混乱した。つまり、高度成長を目指す日本において、大垣市も例外なく車社会になりつつあり、まだ自家用車は少なく、ガソリンスタンドのライバルは少なく、ガソリン、灯油などは貴重品で、父と母は3番目の商売も大成功、車社会に乗っかり一儲けしたのである。小生は小学校から中学校に進学し、自慢じゃないが、学業成績は常に、学年で5番以内、クラスではトップ、毎年クラス委員に選ばれ、中学3年生には生徒会執行部、理事も務めた。中学3年生の担任の先生は「君!岐阜高校を受験しなさい!一教科眠っていても受かる。太鼓判を押すよ。}とその予言通り、岐阜高校に合格し、中日新聞に、真剣に「受験に取り組む受験生」と大きく地方版に掲載されたのだ。私の苦労はここからだ。母から幼いころからお前はお医者さんになりなさいと飽きるほど言われていたので、中学生の時は、小生は絶対に医師になるのだと決心していた。確かに父と母の石油販売業は、3Kで、私は一度も手伝ったことは無かった。私は岐阜高校生になり、1年生は9組あり、生徒は460人はいたが、担任の先生は9人で、一番怖いサングラスの先生が担任になった。「大橋!お前は大垣から岐阜へ通勤しているのだから、3時に授業が終わったら、掃除当番もいいからすぐに帰って勉強しろ!クラブ活動はしなくてよい!」女生徒は80人はいたが、3年間しゃべったことがなく、ノートと参考書と黒板のみを見て、その怖い先生に「医学部を受けたいのですが」と聞いたら鼻で笑われ、医学部は460人中60番前後ではなくては受かる見込みはないと突き放された。英単語の試験は毎日あり、授業の予習と復習に実力テスト、中間、期末テスト、眠る時間は無かった。一向に、私の成績は伸びなじかったが、2年生の国語の先生から「君は、すこしづつ成績は伸びている、睡眠不足で勉強しているというが、しっかり眠って、参考書から勉強の仕方も、もっとかんがえろ!」と言われ、医学部合格作戦を大改革して、幸い郊外に父が日本家屋を立ててくれて、私だけの勉強部屋をしっかり作ってくれた。夏休み、冬休みなどは、午前中は英語、理科、社会などの記憶力勝負の勉強をして、昼は全国の有名大学入試問題を解き、夕食、入浴後は数学の超難問に取り組んだ。さらに成績は上がり、2年生の先生は大変誉めてくれた。3年生になると、本格的な入試問題と向き合うことになり、3年の担任の先生は「君の人生だ!医学部はあきらめなさい」

「僕の人生ですから、医学部をうけさせてください」のという論争が多かった。結局、内申書を書いてくださり奇跡的にも医学部は合格した。くるしい受験地獄から解放され夢のような医学部生活が6年間であった。国家試験も合格して、心臓専門教室に入った。皆さんは白い巨塔は小説だと思っているようだが、入局した教授は、情け知らずの、冗談は通じない、鬼のような教授で、研究内容も強制されたが、臨床の勉強もしながら、国内のあらゆる都市で研究発表、そして、初めてユーゴスラビア、台北の国際学会に発表出来て、鬼教授はすぐに英文の論文を強制した。しかし、教授を驚かせてやったのは、1986年;超難関なⅩ World  of  Congress of  CardiolpogyがワシントンDCで世界的な学会に、私の論文が採用されたことである。鬼の教授も驚き、「よくやった!すぐに発表後、論文を書きなさい。君はよく論文を書いているから、この論文を主論文として、あと二つの副論文は私が選んであげよう。」教授の言う通り仕事を仕上げたら、医学博士をもらえた。「君、紹介してあげるからUSAで勉強してこい!」と言われたが、この言うことを聞くと一生、USAから帰宅後、准教授として大学で苦労せねばならない。断ったら、鬼教授は烈火のごとく怒り、国立浜松病院へ左遷された。ここで2年が経ち始めて教授にたてついた。「郷里の大垣市で開業します。」教授の顔色は真っ青?真っ白になったが、かまわず平成元年に、今の大垣市伝馬町で「大橋医院」として開業した。危なかった。バブルがその年に崩壊したのである。昭和天皇がお隠れになる昭和63年までは、どの銀行も私に融資を競った。ギリギリバブル崩壊直前にある銀行から2億円の借金をし、現在の診療所ができた。危なかった.USAなど行っていたら大変であった。開業後、順調に開業医の道を進んだわけではない。私は初代、大垣市医師会や大垣市民の信用を得るのに10年はかかった。大垣内科会担当理事、大垣市医師会理事など大役をもらえるのに砂を噛むような努力をした。

開業してほぼ50年、西濃地方の医師、患者さんから幅広く信用を得て、毎日、修行研鑽である。これからも油断大敵である。(完)  

投稿者: 大橋医院