2026.05.21更新

今の世の流れでは、AI,電子頭脳が多いに、人間社会に侵略してきた。

あんなものに頼って喜んでいては、人間が馬鹿になる。

毎日、白い紙、電子メモでもよいから、自分一人で考え、意見を毎日言うべきである。

AIは参考、軽く扱う。

パワハラもセクハラも極端すぎる。

大和魂、大和なでしこ、欲しがりません勝つまでは!ぜいたくは敵だ!

黙って上司や、先生の言うことを聞け!

投稿者: 大橋医院

2026.05.19更新

今週は、2024年に米国で承認されたEVOQUEと呼ばれる、初の経カテーテル三尖弁置換術(TTVR:Transcatheter Tricuspid Valve Replacement、日本未承認)用デバイスの術後30日時点のリアルワールドデータ(RWD)解析を紹介する。米国胸部外科学会と米国心臓病学会が主導する経カテーテル弁治療レジストリ(STS/ACC TVT Registry)を用いた研究である。

TR「ほぼ消失」98.4%と「気になる点」
 1034例の手技のうち、弁の留置(インプラント)に成功したのは98.4%であり、術直後に軽度以下までの三尖弁逆流(TR)減少が得られた割合も98.4%であった。30日時点での全死亡率は3.1%、出血は7.9%、ペースメーカーなどの新たな心臓植込み型電子デバイス(CIED)の挿入率は、ベースライン時のCIED未留置患者において15.9%であった。また、ニューヨーク心臓協会(NYHA)心機能分類や、カンザスシティ心筋症質問票(KCCQ)スコアといった健康状態指標の有意な改善が認められた。

 なお、米国におけるEVOQUE承認の根拠とされたランダム化比較試験(TRISCEND II)ではQOLの改善にとどまったという結果であった(N Engl J Med. 2025; 392: 115-126.)。筆者は当時、死亡率については特に注意して見ていなかったが、確かに同試験でもEVOQUE群における30日死亡率は3.5%(対照の薬物療法のみの群ではゼロ)であり、1年での死亡率はそれぞれ8.5%対10.9%で、有意な差はない結果が示されていた。

 あくまで私見だが、やはり、カテーテル治療という低侵襲な手技を行う上で、30日死亡率が3%台というのは比較的高いように感じた。弁の逸脱や塞栓(migration/embolization)は0.7%であった。穿刺部(アクセスサイト)の出血もあるが1.4%にとどまっており、それ以外の部位での出血が多いようだ。なお、著者らは同デバイス埋込により、TRがほぼ完全に制御できていること(TEERでは50-60%の改善率とされている)、高齢かつ複数の併存症を有する患者においてTRによる症状や健康状態が改善する臨床的意義は大きい、さらにRCTと同等の全死亡率や早期の安全性は容認できるレベルである――などと述べている。TCTMDでも本試験の特集が組まれており、TTVRの位置付けはこれから決まっていくといった雰囲気だ(2026年4月15日付ニュース「Real-world Evoque Data Reassure, but It’s Still Early Days With TTVR」)。

既に10例近く経験、TTVRの「手応え」
 実際、まだ10例未満ではあるが、筆者もこのデバイスの手技に関わった。確かにインプラントすると三尖弁逆流がほぼなくなり、弁逆流の制御能はかなり高いように感じた。インプラントする際には、経食道心エコー(TEE)や心腔内エコー(ICE:Intracardiac echocardiography)を用いて、きちんとデバイスが固定されるのを確認する必要があり、そこに企業の技術担当者によるサポートも入るため、塞栓などの合併症はあまり起きなさそうに思えた。問題はデバイスそのものよりも、その後の合併症である。術後1週間ほどして恒久的ペースメーカーが必要になった患者もいるし、特に死亡の原因の一つには、もともとの右室不全や肺高血圧などが関与しているのではないかと思われる。かなりの量の三尖弁逆流があるところに急に「蓋をしてしまった」形になり、右室の負荷が急増して、右室がみるみるうちに動かなくなり、強心剤が必要となるケースも経験する。なお、一時的ペースメーカーを入れなければならないときに、通常と違って人工弁のフレームなどが存在するため、ワイヤー操作などにかなり苦労した経験もある。同デバイスの承認条件にもある通り、「至適薬物療法(OMT)を受けたものの、症候性の重症三尖弁逆流症のため、ハートチームにより三尖弁置換術が適切と判断された患者さんの状態の改善に適応される」ことが重要だろう。

公募可能のレジストリ研究、厳しい現実
 余談だが、弁膜症関連のデータはSTS/TVTレジストリで一元管理されており、これらのデータを用いた研究のプロポーザルは公募で、誰でも応募することはできる(通るかどうかは別だが)。今回紹介した論文はEVOQUEを製造販売するEdwards社から資金提供を受けており、筆者の所属するBIDMC(Beth Israel Deaconess Medical Center)のSmith centerが解析を担当したようで、公募とは別のルートもあるようだ。

 こういった王道の臨床研究はやはり競争が厳しく、Smith centerのデータを用いて長期成績をいち早く出そうと、今回の論文の著者の一人であるRobert Yehに尋ねたところ、「ちょうどこのJAMA論文が出たところで、長期データも現在こちらで解析を進めているところである」という話であった。やはり、こうした大規模なリサーチは企業の資金援助がないと実現が難しいと痛感した次第である。

投稿者: 大橋医院

2026.05.18更新

「老いてこそ生きがい」という石原慎太郎著の本を読んで感動した。

彼が87歳の時に書いた本である。皆さんも絶対に読むべきである。

老いてからの人生の円熟、名前を見ただけでもわかる。

森繁久彌、日野原重明、三国廉太郎、田畑一郎は90歳過ぎてもギター抱えて歌っていた、ピカソ,一休、ナイチンゲール

彼らは老いても、年齢に負けずに活躍したのである。

私は72歳、これからである!

投稿者: 大橋医院

2026.05.18更新

認知症のスクリーニングを受けることは、高齢者本人や家族が将来の疾患の進行に備えて計画や準備をするための「事前の警告」となり得る。一方で、陽性と判定された場合、家族が介護者としての役割に不安を抱いたり、高齢者本人が自立を失うことを心配したりするなど、ストレスとなる可能性もある。

 しかし、こうしたストレスを理由に認知症のスクリーニングを先延ばしにする必要はないようだ。大規模臨床試験において、かかりつけ医の診察時に実施されたアルツハイマー病および関連認知症(ADRD)のスクリーニングの結果は、高齢者の家族に心理的苦痛を引き起こさないことが示された。米インディアナ大学医学部のNicole Fowler氏らによるこの研究結果は、「JAMA Internal Medicine」に4月20日掲載された。

 論文の筆頭著者であるFowler氏はニュースリリースで、「この研究は、ADRDのスクリーニングが家族の生活の質(QOL)や抑うつ、不安を2年間にわたって悪化させなかったことを示す安心材料となる」と述べている。

 この研究では、2018年10月から2023年9月の間に米インディアナ州の29のプライマリケアクリニックを受診した65歳以上の患者とその家族1,808組(患者の平均年齢73.7歳、女性53%)を対象に、ADRDのスクリーニング実施が家族にもたらすベネフィットとリスクが評価された。患者の家族の半数以上(64.8%)は配偶者であり、平均年齢は64.2歳で女性が67.7%を占めていた。対象ペアは、ADRDのスクリーニングのみを受ける群(601組)、スクリーニング+追加検査への紹介を受ける群(603組)、およびスクリーニングを受けない対照群(604組)にランダムに割り付けられた。

 主要評価項目は、24カ月時点における家族の健康関連QOLであり、SF-36(Short Form Health Survey)の身体的健康スコアと精神的健康スコアのサマリースコアを用いて評価された。また、副次評価項目として、家族の抑うつ・不安の症状、介護準備度および介護者の自己効力感に加え、患者本人のQOLや精神状態も評価された。

 全体で61人(5.1%)の患者がスクリーニングで陽性の判定を受けた。陽性者のうち、スクリーニング+追加検査紹介群では、35.7%(28人中10人)が診断のための追加検査を受けなかった。解析の結果、スクリーニング実施群(スクリーニング群とスクリーニング+追加検査紹介群)と対照群との間で、SF-36による身体的および精神的健康のサマリースコアに有意な差は認められなかった。さらに、24カ月時点における患者のQOLや精神状態についても、両群間で有意な差は認められなかった。

 Fowler氏は、「本研究結果は、ADRDのスクリーニングを実施することと、早期診断を行い患者や家族を適切なケアにつなげることは別であるという重要な点を示している。早期診断は、診断評価や治療、継続的支援に結び付いて初めて、家族や介護者にとって有益となる可能性がある」と指摘している。

 そのうえでFowler氏は、「これらの結果は、ADRDのスクリーニングを実施する際には、患者が適切な診断やケアを受けられるような体制整備が必要であることを示している」と述べている。例えば、アルツハイマー病の早期診断に役立つ新しい血液検査法が開発されつつあり、これにより有望な新規治療や臨床試験へ患者をつなぐことができるという。

 Fowler氏は、「ADRDの診断の遅れは、介護者のストレスや負担、孤立感の増大と関連している。一方、早期発見は、教育や早期介入、支援を通じて家族を助ける可能性がある。また、プライマリケアと連携する協働型の認知症ケアプログラムは、患者と介護者双方の転帰を改善することが知られている。さらに、近年の疾患修飾薬は、アルツハイマー病の早期段階でのみ、使用が承認されている」と述べている。

投稿者: 大橋医院

2026.05.12更新

エア・ウォーターなど、歯髄幹細胞の培養上清液を点鼻投与し、脳神経細胞を活性化

化学工業日報2026年4月27日 (月)配信 神経内科疾患その他
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 エア・ウォーターはこのほど、新たな認知症治療技術の開発に向け、医療機関などとの共同研究を開始したと発表した。不用歯などから採取する歯髄幹細胞を培養する際に分泌される因子を含む培養上清液を点鼻投与することで、脳神経細胞を活性化させるという新たな認知症治療技術の確立に挑む。2027年までに同技術を確立し、28年に臨床研究を始める予定にしている。

 エア・ウォーター再生医療研究所(神戸市)、田中医療創造研究所(東京都千代田区)、医療法人ホワイト日光・ふじの原病院(栃木県日光市)の3者が協力し、歯髄幹細胞の培養上清液を用いる認知症治療技術の実用化を目指す。

 エア・ウォーターグループのエア・ウォーター・アエラスバイオ(神戸市)は抜歯された歯から歯髄幹細胞を採取し培養、保管、そして治療時に歯髄幹細胞を歯科医院に送るという歯髄再生治療に関わるビジネスを実施している。歯髄再生治療は歯髄幹細胞を歯に移植して歯髄を再生させるもの。エア・ウォーター・アエラスバイオがRD歯科クリニック(神戸市)とともに20年に世界で初めて実用化した。

 歯髄幹細胞は神経再生との親和性が高いとされている。培養過程で分泌される多様な因子が神経細胞に働きかけて神経を再生する効果については多くの論文で紹介されている。新たな認知症治療技術を開発するうえで、こうした因子を含む歯髄幹細胞の培養上清液に着目。培養上清液を点鼻投与し脳へ直接作用させることで脳神経細胞を活性化させる。

 共同研究においてエア・ウォーター再生医療研究所は、田中医療創造研究所と共同で歯髄幹細胞の培養上清液を医療機関に供給するためのシステムの研究開発を行う。また、培養上清液の品質管理、神戸市の拠点から医療機関までの安定的な輸送方法の確立および品質基準の策定を担う。

 田中医療創造研究所は、培養上清液を点鼻薬として使用するための医療ハンドリング技術を開発し、エア・ウォーター再生医療研究所と連携して品質基準の妥当性検証を行う。

 医療法人ホワイト日光・ふじの原病院は臨床研究の実施に向けた研究企画の立案と法的手続きの準備、そして臨床研究を通じて安全性・有効性を確認する。

神経内科疾患その他

投稿者: 大橋医院

2026.05.09更新

2026年度のBaby発症率は、ほんの68万人、来年度は50万台だって!

生めるカップルよ!

赤ちゃんを作ってよ、少子高齢化はひどく、日本はつぶれるよ!

早々に、人工100万以下、アジアの小国になてしまう、!

私は小学校の、校医をしているが、去年は入学者が70人だよ!今年はもっと減るんじゃないかな?

若者よ、男は草子化にならずに、気に入った女性がいたら猛烈攻撃せよ!

女性もスケベのくせに、それとは関係ないが、結婚して子供を生んでくれ!

家庭を作るのがめんどうくさいなんていわないで!

温かい家庭、仲の良い夫婦、新婚時代に子供を3人作って!お願いします!

投稿者: 大橋医院

2026.05.07更新

令和8年のゴールデンウィークの5月5日、今まで大して気にしていなかった親父の眼鏡をはめてみた。若い頃、老眼がきつく、とても僕には不向きであった。ところが今72歳でもうすぐ73歳になろうとしている私は、今、親父の眼鏡をはめてみると、世界が光り輝いた。早速、書斎に万冊とある蔵書をめくって読んでみた。驚いた!あんなに読みにくかった三国志が、楽々読めるのだ!この三国志は

全30巻あって、百円均一の安い眼鏡では、よむのに見にくくて、疲れ、努力をしたが21巻でGive Upしたのだ。22巻目を親父の眼鏡で読むとあっという間に百ページ読んでしまった。これはすごい。30巻まで読むぞ。親父の眼鏡で、石原慎太郎、五木寛之をめくってみた。何と読みやすい。松本清張の「古代史の疑惑」を見たが、とても見にくかった本が入れ替わったみたいに、読めるのだ。

親父の眼鏡は魔法だ。サーこれまで非効率に読んでいた僕の愛読書を読み直し、まだ読んでいない本もたくさんある。一気に読むぞ!つまり、僕の老眼が進み、親父の眼鏡と度がぴったり合ったのだ。

僕はこれを死ぬまで親父の形見にして、大切にするのだ。親父の眼鏡をはめた途端、親父のことが思い出されてきた。怖かったな!菅原文太と若山富三郎と高倉健の怒った形相を足した顔色をいっつもしていた。機嫌がいいのだか、怒っているのだか、分からないし、周囲に近寄りがたいオーラを発散していた。

石油販売業を、経営していて、ある日、20代のお客さんの入り口の扉の締め方が気に食わん!もっと丁寧に閉めろと怒鳴ったのである。もうこの客は店主があんなに怖くては二度と来ることは無かった。支払いは月末払いをお客さんによって認めていたが、当時日本は貧乏で、月末になっても親父に支払いできない人も出てくる。そんな時は店の土間に土下座させて、「来月に払わなかったら、命は無いぞ!」といった。真実性のあるどす声であった。呼び出しても未納のお客は、夜中、そ人の家に押し入り、現金全部、今日品の骨とう品も全部かっさらっていった。僕はいつも親父と一緒で、商売はこんなもんだ。妙に声が勝慎太郎の悪い親分をたたっきる時の声に似ていた。

当時、やくざの弱い市民に対する横行はひどく、皆、泣きながら親父に助けを求めてきた。親父は大垣で一番のやくざの親分と仲良く、やくざの親分は子分を叱りつけた。待合室には入れ墨の子分や指の無い人が時々出入りしていた。この無法松みたいな親父は、やくざの事務所へ行って、子分の前で親分に「おい、親分、ここらでかたぎになったらどうだ!」といったのである。不通なら生きて帰れない。親父は完全に親分より強いオーラを持っていた。

ある日曜日、事務所に親父はいたのだが、無警戒にもどこかのチンピラがガソリン窃盗にはいったのである。見つけた親父は、二人の窃盗犯を袋叩き、蹴飛ばし、半殺しにした、「哲っちゃん、かんにん!」当時親父は「頑哲」「てっちゃん」と呼ばれていた。僕の驚いたことは従業員が不祥事をやらかした時、横一列横帯にならばせ、往復ビンタである。僕も何度か殴られたが痛さ強烈である。

 

しかし、困った人には本当に親切に相談に乗り、助けてやり、町内の雑用もがんばり、副会長から会長へ、東連合組愛の、会長になったのである。そして大垣祭りの市長代行も引きうけた。

僕が親父の商売は後を継がないで医師になるといったとき、「お前、絶対に合格する自信があるから、啖呵を切ったんだろうな!」その後、医学部合格発表を親父に報告したが、全く顔色を変えなかった。

父が昭和65年に亡くなり、原因は胃癌のスキルスであった。亡くなる2週間、親父より、これからの生き方を僕に3時間説教された。勉強になったがまたぶん殴られるか恐怖半分であった。

親父は、僕をとてもかわいがってくれたし、人生の厳しさを教えてくれた。ありがとう、親父さん!(完)

投稿者: 大橋医院

2026.05.02更新

<医師になれて幸福で、永遠に患者さんと触れ合っていたい>
        大橋信昭
昭和54年医師になり、約50年が過ぎ去ろうとしている。振り返れば、なんと幸せな半世紀であったろう。新人の時は、血圧を測定するのも、聴診するのも、採血さえ怖く、医師の基本ができていなくて、上達するまでには、多くの患者さんに迷惑をかけた。やがて、仕事が楽しくなり、医学生時代に習ったこと、医学文献で学習することがマッチングするようになると、ますます楽しくなる。病棟へ行くのは、浮き浮きするのは医師として医療行為に熱中できるのも楽しいが、周りには白い衣装を羽織った天使、美しいナースがあふれており、とり囲まれているからだ。それから医学的に考えて、極めて興味深く、学界に発表、論文にすることも楽しいものだ。医学に、没頭していると、研究する意欲もわいてくる。私は、動脈硬化に興味がわき、しかも血清学的に研究する学者は多いが、脈管学的にアプローチしたかった。私の所属する医局に、尊敬する先輩いて、
インピーダンスカルジオロジーを研究しておられて、そのお手伝いをさせてもらっているうちに、私も研究するようになり夢中にもなり、やがて学会する発表することとなり、国内の大都市から田舎の観光都市まで、幅広く発表することになり、論文の数も増えた。こうなると患者さんの診察も研究も楽しい。

今度は国内だけではなくて、世界に目を向けた。世界の大都市で行われている脈管学は意外に多く、発表者を歓迎してくれた。アムステルダム、ハンブルグ、ユーゴスラビアのザダール、台北と発表は進んだ。研究内容も充実してきた。論文も増えた。ここで、最も権威のあるWorld of  Congress  cardiology に挑戦した。1986年、WashinntonnDCで行われており、私の論文を送ったら採用されたのである。有頂天である。すぐにUSAの準備をして、ワシントンDCで発表し、ニューヨーク、ミネアポリス、インディアナポリス、ロサンゼルス、ハワイと長旅も楽しんだ。ここで私は医学博士を

取得した。帰国後,病棟生活にも慣れ、教授への出世の憧れもあったが、やはり地元の岐阜県大垣市の在宅医療、育ててくださった大垣市民の皆様に医師としてお返しをしたいと決意した。開業は平成元年である。今は令和8年、開業医から長い歳月が経った。順風満帆ではなかったが、医師会の役員もさせていただき、医師会活動、やはり、大垣市民の皆様に僕の学んだ医療をぶつけることが主であった。在宅、施設の嘱託医、産業医にも頑張り、今日に至る。これぐらいで満足せずにさらに己を磨いて活躍するつもりである。皆さま、よろしくお願いします。(完)

 

 

 

投稿者: 大橋医院

2026.05.01更新

小生は昭和28年7月31日に長崎で生誕した。何故、長崎市で生まれたか、知るはずがない。しかし、おぼろげに、何歳の時か、蒸気機関車で大垣市方面へ向かっていたのか?窓から黒いすすが普遊してきたシーンを画像のように、覚えている。次、小生が己を自覚したのは、大垣市の南頬町の木造の2階で睡眠から半覚せい状態で、両親が深刻な話をしていて、「俺たちは長崎市でパチンコ屋、大垣市ではスマートボール屋、両方とも長男の信昭に自慢できる商売ではない。ここらでかたぎの今、流行しているガソリンスタンドをはじめよう!」と、この二人の討論を聞いてすぐに5歳らしくまた熟睡に入った。次、私が気が付いたのは、6歳か7歳か、大垣市伝馬町の仏壇屋の前の小さな2階立ての和室で、2階の洋間の窓から見えるシーンは、父がお客さんの車に真剣に給油をしており、母が事務服を着て、別のお客さんからお金をもらい「毎度、ありがとうございます、またのお越しをお願いします。」と丁寧に、頭を下げていた。いつの間にか伝馬町104-1に小さな給油所ができており、私は混乱した。つまり、高度成長を目指す日本において、大垣市も例外なく車社会になりつつあり、まだ自家用車は少なく、ガソリンスタンドのライバルは少なく、ガソリン、灯油などは貴重品で、父と母は3番目の商売も大成功、車社会に乗っかり一儲けしたのである。小生は小学校から中学校に進学し、自慢じゃないが、学業成績は常に、学年で5番以内、クラスではトップ、毎年クラス委員に選ばれ、中学3年生には生徒会執行部、理事も務めた。中学3年生の担任の先生は「君!岐阜高校を受験しなさい!一教科眠っていても受かる。太鼓判を押すよ。}とその予言通り、岐阜高校に合格し、中日新聞に、真剣に「受験に取り組む受験生」と大きく地方版に掲載されたのだ。私の苦労はここからだ。母から幼いころからお前はお医者さんになりなさいと飽きるほど言われていたので、中学生の時は、小生は絶対に医師になるのだと決心していた。確かに父と母の石油販売業は、3Kで、私は一度も手伝ったことは無かった。私は岐阜高校生になり、1年生は9組あり、生徒は460人はいたが、担任の先生は9人で、一番怖いサングラスの先生が担任になった。「大橋!お前は大垣から岐阜へ通勤しているのだから、3時に授業が終わったら、掃除当番もいいからすぐに帰って勉強しろ!クラブ活動はしなくてよい!」女生徒は80人はいたが、3年間しゃべったことがなく、ノートと参考書と黒板のみを見て、その怖い先生に「医学部を受けたいのですが」と聞いたら鼻で笑われ、医学部は460人中60番前後ではなくては受かる見込みはないと突き放された。英単語の試験は毎日あり、授業の予習と復習に実力テスト、中間、期末テスト、眠る時間は無かった。一向に、私の成績は伸びなじかったが、2年生の国語の先生から「君は、すこしづつ成績は伸びている、睡眠不足で勉強しているというが、しっかり眠って、参考書から勉強の仕方も、もっとかんがえろ!」と言われ、医学部合格作戦を大改革して、幸い郊外に父が日本家屋を立ててくれて、私だけの勉強部屋をしっかり作ってくれた。夏休み、冬休みなどは、午前中は英語、理科、社会などの記憶力勝負の勉強をして、昼は全国の有名大学入試問題を解き、夕食、入浴後は数学の超難問に取り組んだ。さらに成績は上がり、2年生の先生は大変誉めてくれた。3年生になると、本格的な入試問題と向き合うことになり、3年の担任の先生は「君の人生だ!医学部はあきらめなさい」

「僕の人生ですから、医学部をうけさせてください」のという論争が多かった。結局、内申書を書いてくださり奇跡的にも医学部は合格した。くるしい受験地獄から解放され夢のような医学部生活が6年間であった。国家試験も合格して、心臓専門教室に入った。皆さんは白い巨塔は小説だと思っているようだが、入局した教授は、情け知らずの、冗談は通じない、鬼のような教授で、研究内容も強制されたが、臨床の勉強もしながら、国内のあらゆる都市で研究発表、そして、初めてユーゴスラビア、台北の国際学会に発表出来て、鬼教授はすぐに英文の論文を強制した。しかし、教授を驚かせてやったのは、1986年;超難関なⅩ World  of  Congress of  CardiolpogyがワシントンDCで世界的な学会に、私の論文が採用されたことである。鬼の教授も驚き、「よくやった!すぐに発表後、論文を書きなさい。君はよく論文を書いているから、この論文を主論文として、あと二つの副論文は私が選んであげよう。」教授の言う通り仕事を仕上げたら、医学博士をもらえた。「君、紹介してあげるからUSAで勉強してこい!」と言われたが、この言うことを聞くと一生、USAから帰宅後、准教授として大学で苦労せねばならない。断ったら、鬼教授は烈火のごとく怒り、国立浜松病院へ左遷された。ここで2年が経ち始めて教授にたてついた。「郷里の大垣市で開業します。」教授の顔色は真っ青?真っ白になったが、かまわず平成元年に、今の大垣市伝馬町で「大橋医院」として開業した。危なかった。バブルがその年に崩壊したのである。昭和天皇がお隠れになる昭和63年までは、どの銀行も私に融資を競った。ギリギリバブル崩壊直前にある銀行から2億円の借金をし、現在の診療所ができた。危なかった.USAなど行っていたら大変であった。開業後、順調に開業医の道を進んだわけではない。私は初代、大垣市医師会や大垣市民の信用を得るのに10年はかかった。大垣内科会担当理事、大垣市医師会理事など大役をもらえるのに砂を噛むような努力をした。

開業してほぼ50年、西濃地方の医師、患者さんから幅広く信用を得て、毎日、修行研鑽である。これからも油断大敵である。(完)  

投稿者: 大橋医院

2026.04.30更新

当院へ長いこと、高血圧症で、通院していた87歳の女性であった。87歳だが、20歳代に負けないぐらい元気で、”大阪のおばちゃん”という感じで、しゃべりだしたら、漫才が

止まらないという愉快なおばーさんであった。ところが、ある日の診察で、私は彼女の黄疸を見逃さなかった。すぐに、採血したら、ひどい肝機能異常で、腫瘍マーカーCA19-9が異常に

高値であった。すぐに入院を勧めたが、彼女は拒否、ご主人や家族全員に膵臓癌の可能性大であることを告げ、彼女はしぶしぶ入院した。大手術で膵臓全摘、所属リンパ節も丹念に取り除かれた。

その後、放射線療法、分子強敵化学療法(以前の化学療法は正常細胞にも害を及ぼし、癌細胞だけを死滅させること)も無力であった。しかし、今の化学療法は、癌細胞だけを目標に作用することが

可能になった。気の強い彼女は、術後、半年がたち当院に現れ、すっかり治りました、と笑顔を見せた。いつも旅行好きで、お土産や、自慢の夕食の手料理をいただいているほど仲良しであった。

私は、すっかり根治したという彼女の発言に疑問を持った。医学生時代から、膵臓癌はいかに早期に発見しても予後は5年であると、何度も教授より教えこまれてきたからだ。卒後50年になるが

膵臓癌で長生きした患者さんにお会いできていない。50年の強烈な医学の進歩でも、私は5年以上生存した膵臓癌の患者に遭遇していない。癌の治療もかなりの進歩で肝臓癌、胃癌,肺癌、そのほか

長生きしている患者さんは多い。いつもにこやかに外来通院していた老婆は、突然来院しなくなり、ある日娘さんが来院し、「膵臓癌は敵手したものの、細胞レベルで、全身転移しており、余命も極めて短いのです。」と言われ帰っていった。あの元気な大阪のおばちゃんも、膵臓癌には勝てなかった。お葬式にお参りに、我が家で言ったのは間もなくであった。膵臓癌に罹患した人の最大余命は5年という

学生時代に習った格言は今も残っているのだ。

 

 

投稿者: 大橋医院

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