2026.10.17更新

私は、今、思い出してみると、中学時代から、両親から、かなり戦時中、戦後の苦労話を聞かされたものである。

父は、戦争中、兄の軍腹姿を見て、速く兵隊に行きたいと思ったそうである。二人とも昭和3年生まれだから、父は15歳の時であろう。親の印鑑をぬすみだし、兵隊に志願したそうである。

驚くなかれ、特攻隊である。聞いてみると、命令は、手榴弾を一つ,脇にかかえ、敵の戦車に突っ込めという命令である。父がこの命令を実行していたら100%、死ぬであろう。

父が戦死していたら、私も生まれまい。かなりわんぱく坊主で、戦後、家を飛び出し、全国をさまよい、長崎市で商売をいとなみ、大成功し、私が昭和28年に生まれる分けだが、この変異しておいた方が良い。3歳の時は大垣市で育ち、長崎市、大垣市のSL汽車、石炭の煙が窓から入ってきて、煙かった。5歳の時にやっと自己を覚えているが、目の周りはスマートボールの機械が乱雑に配置しており、

「信昭の将来を考え、堅気の商売をやろう」それから、ガソリンスタンドに汗を流す父の姿が目に浮かぶ。

母は、原爆の話をし、被爆者であり、戦後の話しは医師会の記事に詳しく書いておいた。教育熱心であり、私は母の言う通りの人生を歩いた。医師になりなさい、岐阜高校に入りなさい、医学部を受けなさい、医師免許だけではだめ、医学博士を取りなさい、と命令が高度で、勉強に明け暮れる青春を私は送った。

しかし、6歳の頃、家に、電気器具は一切なく、薪を割り、ご飯を釜に火を通し、わかしていた母の姿を覚えている。そのうち高度成長時代、池田首相の所得倍増論などありまして、日本も高度経済成長期にはいり、あっという間に、電気炊飯器、扇風機、冷蔵庫、テレビ(白黒)、中学の時にカラーテレビ、父の経営する石油販売店の事務をやっており、手計算、そろばん、コピーはブルーでやっと、

大変であり、私は幼稚園時代、居残りで,養護の先生が絵描き、お昼にはビスケット、それの美味しかったこと、母のお迎え㋾私はひたすら待っていた。

だいたいの昭和28年時代の生活を分かってもらえますか?食事尾は、ご飯に味噌汁、あと一善、何を食べていたかおもいだせません。牛乳も戦災で片腕を無くした人が大きなビンで配っておられ、それをひたすら待っていました。学校給食はずっと脱脂粉乳であり、昭和天皇は神様扱いで、私は戦争の責任はいかに受けようとも、国民に食事をと頼んでくれたとか、今の若い人にはわかるまい。

今の若い人、平成生まれの方はすでに完璧な電気器具に恵まれ、貧乏も知らずに、栄養価の高い食事に恵まれ、下宿は私は4条半一間であったが、最初からワンルームマンションで暮らす平成生まれの人たちとは、歌謡曲も違うし,文化も価値観も違うに違いない。

時代は違っても、同じ日本人、仲良く若い人たちと暮らしていきたい。

投稿者: 大橋医院