令和8年のゴールデンウィークの5月5日、今まで大して気にしていなかった親父の眼鏡をはめてみた。若い頃、老眼がきつく、とても僕には不向きであった。ところが今72歳でもうすぐ73歳になろうとしている私は、今、親父の眼鏡をはめてみると、世界が光り輝いた。早速、書斎に万冊とある蔵書をめくって読んでみた。驚いた!あんなに読みにくかった三国志が、楽々読めるのだ!この三国志は
全30巻あって、百円均一の安い眼鏡では、よむのに見にくくて、疲れ、努力をしたが21巻でGive Upしたのだ。22巻目を親父の眼鏡で読むとあっという間に百ページ読んでしまった。これはすごい。30巻まで読むぞ。親父の眼鏡で、石原慎太郎、五木寛之をめくってみた。何と読みやすい。松本清張の「古代史の疑惑」を見たが、とても見にくかった本が入れ替わったみたいに、読めるのだ。
親父の眼鏡は魔法だ。サーこれまで非効率に読んでいた僕の愛読書を読み直し、まだ読んでいない本もたくさんある。一気に読むぞ!つまり、僕の老眼が進み、親父の眼鏡と度がぴったり合ったのだ。
僕はこれを死ぬまで親父の形見にして、大切にするのだ。親父の眼鏡をはめた途端、親父のことが思い出されてきた。怖かったな!菅原文太と若山富三郎と高倉健の怒った形相を足した顔色をいっつもしていた。機嫌がいいのだか、怒っているのだか、分からないし、周囲に近寄りがたいオーラを発散していた。
石油販売業を、経営していて、ある日、20代のお客さんの入り口の扉の締め方が気に食わん!もっと丁寧に閉めろと怒鳴ったのである。もうこの客は店主があんなに怖くては二度と来ることは無かった。支払いは月末払いをお客さんによって認めていたが、当時日本は貧乏で、月末になっても親父に支払いできない人も出てくる。そんな時は店の土間に土下座させて、「来月に払わなかったら、命は無いぞ!」といった。真実性のあるどす声であった。呼び出しても未納のお客は、夜中、そ人の家に押し入り、現金全部、今日品の骨とう品も全部かっさらっていった。僕はいつも親父と一緒で、商売はこんなもんだ。妙に声が勝慎太郎の悪い親分をたたっきる時の声に似ていた。
当時、やくざの弱い市民に対する横行はひどく、皆、泣きながら親父に助けを求めてきた。親父は大垣で一番のやくざの親分と仲良く、やくざの親分は子分を叱りつけた。待合室には入れ墨の子分や指の無い人が時々出入りしていた。この無法松みたいな親父は、やくざの事務所へ行って、子分の前で親分に「おい、親分、ここらでかたぎになったらどうだ!」といったのである。不通なら生きて帰れない。親父は完全に親分より強いオーラを持っていた。
ある日曜日、事務所に親父はいたのだが、無警戒にもどこかのチンピラがガソリン窃盗にはいったのである。見つけた親父は、二人の窃盗犯を袋叩き、蹴飛ばし、半殺しにした、「哲っちゃん、かんにん!」当時親父は「頑哲」「てっちゃん」と呼ばれていた。僕の驚いたことは従業員が不祥事をやらかした時、横一列横帯にならばせ、往復ビンタである。僕も何度か殴られたが痛さ強烈である。
しかし、困った人には本当に親切に相談に乗り、助けてやり、町内の雑用もがんばり、副会長から会長へ、東連合組愛の、会長になったのである。そして大垣祭りの市長代行も引きうけた。
僕が親父の商売は後を継がないで医師になるといったとき、「お前、絶対に合格する自信があるから、啖呵を切ったんだろうな!」その後、医学部合格発表を親父に報告したが、全く顔色を変えなかった。
父が昭和65年に亡くなり、原因は胃癌のスキルスであった。亡くなる2週間、親父より、これからの生き方を僕に3時間説教された。勉強になったがまたぶん殴られるか恐怖半分であった。
親父は、僕をとてもかわいがってくれたし、人生の厳しさを教えてくれた。ありがとう、親父さん!(完)


