2025.11.20更新

<医師も人間である!>  大橋信昭
私は昭和54年卒の循環器専門医の大橋信昭と申します。卒業して40年以上経ちますか?あの頃は、卒業しますと研修医になり2年間、研修医手当で生活します。15-6万円だと思いますが、若いですから、技術習得、特に心肺蘇生、静注、動脈穿刺、気道確保、目の前の患者さんは、軽症か?重症か?まずどんな医療行為すべきか?わからないことばかりです。先輩から「研修医は虫けら以下だ!血の小便が出るまで働け!」急患が救急車で集中医療室に入って来る!先輩の罵声の元、死にもの狂いで働きました。患者さんの主治医になると、助けるためには上司に聞きながら、24時間働きました。若いからできました。研修医手当だけでは、学会にも行けません。無理して当直を引き受けます。当直料も貴重な収入源です。夜明けから朝まで働き、午前8時半から通常の外来勤務、昼からは検査、病棟回診、もう夕方です。夕食の確保は病棟食の冷たく余ったもので済ませます。こんな生活を365日続けますと、倒れます。事実、私もひどい腰痛になり動けなくなり、同期の友は不明熱で入院です。この生活を2年続行しますと、ある程度医師として実力が付きます。しかし、経験が浅いのは確かで、相手が多様な人間性を持った患者さんで、接し方、話し方も変えねばいけません。私は初期研修終了ということで、県立OOO病院へ循環器科として赴任しました。怖い部長で土日の休養も認めてくれません。帰宅時間は早くて午後9時、抄読会、症例検討会などあると、夜中になり、そんなときに救急車が入り、主治医は私になります。大学の初期研修医で学んだことを実践しますが、技術不足で、部長、医長、看護主任からも叱られ、四面楚歌です。患者さんは私の熱意は理解してくださり、慰めてくれます。これが唯一の救いです。私は循環器外にも呼吸器、消化器も勉強したかったので各部長に頭を下げ、勉強させてもらいました。自由時間は、ほんのわずか、疲れ果てていました。その病院で2年間修業を積み、かなり臨床の力は増えました。そして、大学病院の教授から帰ってくるように命令され、研究、臨床、後輩指導、学生授業に手を抜かずに全力でやれとの命令でした。最初は無給医で、生活できませんから、各学校の身体検査、病院の当直、近くの病院の外来アルバイトで生活がやっとできました。教授は研究を中心に全国、海外の学会に発表することを強要しました。そして発表内容は論文化せねばなりません。やがて助手になり給料がもらえますから、アルバイトを含め少し豊かになります。6年間の研究生活と教授のカバン持ちを続けてまいりましたら、WashingtonDCで開かれる“World of Congress of Cadiology”に私の論文が通りましたので、権威ある学会に発表が決まったことで、教授が初めてほめてくれました。発表後すぐに論文化したら医学博士を授与されました。お礼奉公に国立OO病院へ勤務しろとの命令です。安い給料で私はもう結婚して二人の子供を連れていました生活は苦しかったのです。私は医師になろうと思ったときに地元の家庭医が理想でした。開業しますと教授室の門をたたき、地元で家庭医として一生を捧げたいと言いましたが教授の顔は鬼のようでした。私の人生ですから、平成元年に開業しました。初日に両親、親戚が20人患者役で来てくれまして、10年は閑古鳥が鳴き、私もまだ若く、時間外、深夜、在宅訪問診察、緊急往診、命がけで働きました。やっと地元の市民の信用を得て、患者さんはかなり増加しました。幼稚園の嘱託医、小学校、中学校の嘱託医、産業医、老人ホームの嘱託医を引き受け、24時間365日働きました。土曜、日曜、祝日、お盆、正月はありません。開業時に多額の借金を銀行に借りていましたが、返済は順調、今度は子供が私立の医学部と薬学部二入学しまして、莫大な教育費に追われることになりました。私は公立で年間9万円の授業料でよかったのですが、私立の医学部は一億以上支払ったと思います。二人とも無事卒業し、やっと楽になるかと思ったら、2年ごとの医療費改正で漸減ですね。生活にゆとりはありません。私も年を取り、72歳になり、無理が効かなくなってきていることがわかります。往診は減らし、夜間の救急診療も断り、恥ずかしながら交通事故(居眠り運転で、電柱に激突3回、赤信号無視)で運転能力の低下を感じ免許は返しました。タクシーと自転車で学校への仕事、産業医の仕事、老人ホーム、開放型簡易型老人施設、などをこなし、ずいぶん仕事を減らしました。もう贅沢は出来ません。家内と二人暮らしで、従業員も全員パートです。長生きせねばいけませんから、毎日ラジオ体操第一、第二、スクワット、エルゴメーター、散歩をして、アマゾンから大量の本を購入し、読書に明け暮れる毎日です。家内の手料理を三六五日朝食、昼食、夕食、外食はせず、酒もたばこも関係なし、ぜいたくは敵です。
私が医師になったころより、社会情勢の悪化もありますが、質素な生活です。学会が年会費を上げてきましたので、循環器専門医、内科学会認定医の継続も困難、産業医のみにしようと思っています。患者さんの健康と幸福のみ考え、地元の家庭医として幕を閉じます。

投稿者: 大橋医院