<ある不思議な在宅尊厳死> 大橋信昭
私は開業して、在宅尊厳死に熱意をそそいでいた。平成3年から4年頃は、介護保険がなく、訪問看護ステーション、介護施設も少なく、ショートステイ、デイサービスなどもなく、今回の天野三太郎(仮名)の場合も、お嫁さんか、家族一丸となってケアするしかなかった。天野氏は縫製職人であり、丁稚奉公から独立して天野縫製として店を開くには、かなりの苦労を要した。窓は大きく朝早くから夜中まで、天野氏の針に糸を通して、黙々と背広を、お客さんの体形に合わせて、縫製している姿は、外を通行する人が多い場所だが、私もその職人としての姿は、目に焼き付いて離れない。順調にお客さんの信頼と数を伸ばして40年が経とうとしていた。しかし、急に右半身が早朝、動かなくなった。言語障害もある。脳梗塞に伴う半身麻痺である。私の診療所は近くなので、すぐに往診して入院の必要性を家族に説明した。しかし、家族はこの店も借家であり、入院費用が払えないということを言った。近所でもあり、すぐに駆けつけられるから私に任せてください。しかし、家族にここで昇天されることは、死を迎えることは覚悟してくださいと言った。私は天野氏の部屋に点滴を24時間できるように工事から始め、在宅酸素24時間の用意もし、尿量、糞便、バイタル(血圧、体温、脈拍)は私と家族で几帳面に、ノートへ記録する習慣を徹底させた。順調に天野氏の笑顔も見えたが、ある日、意識混濁、バイタルの悪化を認めた。心臓マッサージ、気管内挿管による呼吸管理、輸液の補強、その環境で出来ることはやった。夜明けの5時2分に、天野氏を観察すると、対光反射なし、睫毛反射なし、呼吸停止、心音聞かれず、
家族にご臨終ですと宣言した。苦しむことなく、40年も座り続けた職場で、天野氏の人生は幕を閉じた。家族は私を恨むことはなく死を納得してくれた。私は、すぐに死亡診断書を構成している時に、死亡宣言して5分後だろうか、天野氏は突然、座位を取り開眼し、私に向かって「先生、ありがとう」と発語して、仰臥位になった。再度死亡確認を重点的に確認したが、やはり死亡していた。あのありがとうは何なのだろう?謎である!
2025.11.09更新
ある不思議な家庭尊厳死の一例 大橋信昭
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