<日本一の皮膚科女医へ 人生はきびしいのだ!> 大橋信昭
私の知り合い、大野蒔絵よ!人生は厳しいのだ。私と故妹は、小さい頃、いつも父におびえていた。ガソリンスタンドという3Kの仕事もあるかもしれないが、夜はいつも夫婦喧嘩、父の怒りは猛烈で、母は、歯を折るは、下着は引き裂かれ、靴下はストーブの中、出刃包丁を持ち出し、母を刺そうとすることもあった。殴り、蹴飛ばされ、家は出ていけと言い、私と故妹と母と大垣中を逃げ回ったものだ。私も父からはしょっちゅう往復ビンタ、革靴で背中を思いっきり蹴られ、息ができなかったこともある。番犬が父を怖がっていた。暴力団の組長と仲良しで、店の客室は、入れ墨男、指を詰めた人相の悪い男たちで一杯であった。僕が勉強していても、ヘッチャラに隣で花札博打をやり、怒鳴りまくるのだ。それにしても父は、暴力団にいじめられている一般市民には優しく、暴力団は父の顔を見ると逃げていった。一回、日曜日にガソリン泥棒に入った二人組を半殺しにするのを見ていた。恐怖そのものである。ご機嫌の時は私にアメリカの高い百科事典を買ってくれたし、ファーストミットまでプレゼントしてくれた。私は、この毎日の恐怖生活から逃避するため医学部を受験し、名古屋の下宿生活を始めたのだ。父にガソリンスタンドは継がないし医師になると言ったら、3時間もたたされ説教された。いつ殴られるか分からなかった。名古屋へ出て、医学生、医師になったら周りはいい人ばかり、医師、薬剤師、看護師、検査技師などで、人生はこんなに幸せになるのかと思った。ママと出会い結婚し、よくケンカするが、蒔絵や静香が生まれ、二人とも成長した。私の医師となってからも、白い巨塔そのもの鬼教授、県立多治見では鬼部長、医学博士も簡単に取れるわけではなくかなり苦労したものだ。開業も教授が許すわけがなく、強引に今の大垣市伝馬町で開業した。父と母とまた同居である。父も年を取り心筋梗塞、64歳には胃癌(スキルス)で他界した。母は84歳で事故死であった。開業生活は、患者といかに触れ合うか、日々勉強であったし、スタッフのコントロールには最大のストレスであった。眠れない日々が続行した。在宅尊厳死をよくやっていたため、夜中ら夜明け仕事も多かった。私も72歳の老人になり、仕事は若い頃よりかなり縮小しているよ。ただ常に患者さんの立場になり、いかに幸福にしてやるか、そればかり考えているよ。今夜は5時より伝馬町の恵比寿講がり、伝馬町とはうまく付き合わないといけない。医師会も内科会幹事、医師会理事などもやり、大垣ライオンズクラブに義理ではいらされたが、長くは続かずみんな辞表を出した。今は静かにYouTubeで音楽を聴きながら読書を楽しんでいる。平和ですよ。蒔絵も開業した、独立したのだから、死に物狂いで頑張らなくちゃだめだよ!私は診察室でいつまでも聴診器を持ちながら死ぬつもりです。(完)
2025.10.26更新
人生は厳しい!
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