2025.10.24更新

私は昭和28年7月31日に長崎県長崎市に生まれた。覚えはないが戸籍謄本に書いてある。母の話によると3歳ごろまでいて、父の実家の岐阜県大垣市に引っ越ししたらしい。かすかに蒸気機関車の煙が窓から侵入した覚えがある。本格的にこの世界を察知したのは5歳であろう。大垣市南頬町の一軒家の2階で寝ており、周りはスマートボールの機械で囲まれていた。両親はスマートボールで荒稼ぎをしたらしい。私がはっきりこの世界を認識した時は、伝馬町でガソリンスタンドを両親は汗水流して経営、働いていた。大変な肉体労働であった。私は10歳頃には、父の商売を継承する気はなく、医師にあこがれていた。赤ん坊のころから体が弱く、家庭医のお世話になることが多く、医師にあこがれていたのである。南小学校から3年生の時に東小学校に転向した。そこで転校生はいじめられた。しかし、学力でもって4年生には級長に選ばれていた。勉強はできる自信があり、いじめからみんなの尊敬を集めた。中学校も成績はよく、毎年、委員長に選ばれ、3年生には生徒会の執行部に選ばれた。私は優秀で、立派な男だと思っていたら、岐阜県立岐阜高校に進学したら、とんでもない思い違いであった。460人の生徒数の中で入学試験の成績は200番である。担任の先生に医学部を受けますと言ったら「医学部は60番前後でないとは入れない」と鼻で笑われた。大垣から岐阜市への通勤は大変で、電車の中でも勉強し、黒板か教科書、参考書しか見ずに、徐々に成績は上昇していった。2年生の担任の先生には大変なお褒めの言葉をいただいた。15歳、16歳、17歳、青春の真っ最中、勉強ばかりしていたわけではない。文学作品が好きで読書はよくしたし、映画が好きで試験が終わると名画を鑑賞しに映画館へ行った。多少の恋もした。徒労であった。私は名古屋市立大学医学部に志望し、60人の定員に1200人の受験生が詰めかけたが、無事合格した。神様と御先祖様の陰である。医学部時代は楽しかった。生物研究部と陸上部に入りはしたが、大した活躍はしなかった。高校時代は女性とお話はしたことが無かったが医学部は薬学部生、看護学生、看護師、周りは女性ばかりであった。いくら女性に囲まれてももてた記憶はない。それよりも憧れの医学部に入り、教えていただける先生も医師ばかりで、楽しかった。医学の勉強は受験勉強に比べて極めて楽しかった。無事国家試験を合格し、研修医となった。循環器の教室に入ったが、教授には、よく叱られた。初期研修が終わると県立多治見病院に転勤したが、不眠不休で働いても叱られてばかりいた。医学博士を取るため大学へ研究のため戻ることに決まった。研究の指導の先生がとてもやさしく厳しく、おかげで国内の学会の発表で日本中を歩き、海外もユーゴスラビア、アムステルダム、台北、ワシントン、特にワシントンはWorld Congress of Cardiologyで権威があり、教授は私に医学博士を認めてくださった。多少の波風があったが、平成元年2月10日に故郷の大垣市で開業し、今日に至っている。山あり谷ありの開業生活だが生涯、家庭医でいるつもりである。

投稿者: 大橋医院