大橋院長の為になるブログ

2021.08.14更新

m3.com意識調査でこむら返りに「芍薬甘草湯」以外で処方する薬について会員医師1031人に選択肢を示して尋ねたところ、抗不安薬のエチゾラム(27.5%)と筋弛緩薬のエペリゾン(27.2%)の2種類過半数に達した一方、「その他」も24.7%とおよそ4人に1人が選択した。その他と回答した会員医師が選んでいる薬剤は、漢方薬の芍薬甘草附子湯、牛車腎気丸のほか、筋弛緩薬のバクロフェンやダントリウム、抗てんかん薬のクロナゼパム、カルチニン欠乏症治療のレボカルニチン、クエン酸マグネシウムを挙げる意見が多かった。また、こむら返りの処方について意見を募ったところ、芍薬甘草湯などの漢方治療が有効とする声が多かったが、まずは水分補給やマッサージ、生活習慣の改善を試み、安易な薬物療法は避けるべきとする意見も目立った。(まとめ・m3.com編集部)

【調査の概要】
調査期間:2021年6月19日-25日
対象:m3.com医師会員
回答者総数:勤務医788人、開業医201人
統計に基づく世論調査ではありません
Q. 「芍薬甘草湯」以外で処方する薬に「その他」と回答した方に伺います。具体的な薬剤名を教えてください。(自由回答)
漢方薬
芍薬甘草附子湯【内科開業医】
牛車腎気丸【整形外科開業医】【整形外科勤務医】
疎経活血湯【内科勤務医】
真武湯【内科勤務医】
桂枝加芍薬湯【産婦人科勤務医】
筋弛緩薬
バクロフェン【脳・神経科勤務医】【内科勤務医】
ダントリウム【内科開業医】【外科系勤務医】
定型抗精神病薬
クロルプロマジン【内科勤務医】
抗てんかん薬
クロナゼパム【脳・神経科開業医】【内科開業医】【消化器科開業医】【消化器科勤務医】
カルバマゼピン【内科勤務医】
ガバペンチン【内科勤務医】
パーキンソン病治療薬
プラミペキソール【内分泌・血液科勤務医】
第一世代抗ヒスタミン薬
ジフェンヒドラミン【内分泌・血液科勤務医】
その他
カルチニン欠乏症治療薬レボカルニチン【内科勤務医】【整形外科勤務医】【腎・泌尿器科開業医】【消化器科勤務医】
クエン酸マグネシウムあるいはグリシン酸マグネシウム【精神科勤務医】【整形外科勤務医】
ソリタ顆粒【内科勤務医】
Q. こむら返りに対する処方でご意見があればご記入ください。(自由回答)
漢方薬処方時のコツ
実は世間ではあまり知られていないが、芍薬甘草湯よりも芍薬甘草附子湯の方が熱服すれば、一層効果がある【内科開業医】
発作には芍薬甘草湯、予防には当帰建中湯を使用しています【脳・神経科勤務医】
漢方医学的な話として、こむら返りを素直に「血虚」と捉えれば、四物湯類(四物湯、七物降下湯、疎経活血湯など)は、芍薬甘草湯ほど即効性はないものの予防も含め適応があると思う【脳・神経科勤務医】
芍薬甘草湯は即効性があるため重宝しますが、腰椎に原因があったりもするので、そちらの検査も必要かと思います【整形外科勤務医】
芍薬甘草は、用量依存的に偽アルドステロン症が出やすいので注意している【整形外科勤務医】
肝疾患患者に限定すれば、芍薬甘草湯よりエルカルチンの方が効く【消化器科勤務医】
芍薬甘草湯に当帰芍薬散を加えることで作用が強化されます。また、芍薬甘草湯が効かない場合、鉄欠乏を補うと効くようになることもあるようです。芍薬自体は涼性であるため、冷えに伴うこむら返りには芍薬甘草湯は効かないことがあり、その場合、苓姜朮甘湯が良いみたいです。漢方以外では、ベンゾジアゼピン系抗てんかん薬であるクロナゼパムが奏功することがあります【外科系勤務医】
水分補給や生活習慣是正が重要
安易な薬物療法は回避すべき。原因へのアプローチや予防法の普及が大切。漫然と連日、芍薬甘草湯を内服している例によく遭遇するが、低カリウム血症など副作用のリスクを広く認識すべきである【内科勤務医】
まずは生活習慣、食生活、ビタミンの補充を指導した上で、薬の処方を検討します【内分泌・血液科勤務医】
処方とともに脱水、電解質異常、微量元素不足、ストレッチを含めた運動不足などを念頭に置くのが大事【精神科勤務医】
水分補給、適度な運動、マッサージを勧め、それで駄目なら頓服で芍薬甘草湯を処方する。芍薬甘草湯で効かないならもう少し精査する【整形外科勤務医】
寝る前にコップ一杯の水を余分に摂取するよう話しています【整形外科勤務医】
EPA(エイコサペンタエン酸)内服で血流が良くなると下腿浮腫が改善してこむら返りもなくなります。中性脂肪高めで浮腫やこむら返りのある方には試してみてください【内科開業医】
関連リンクおおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.13更新

インドと中国は国境をめぐる争いを何十年間も続けている
インド当局は16日、中国と国境を争うヒマラヤ山脈地帯で両国軍が衝突し、インド兵が少なくとも20人死亡したと発表した。
両国軍の衝突で死者が出たのは、過去45年以上で初めて。このところ両国の緊張が高まっていた。
インド外務省は、ガルワン渓谷の実効支配線(LAC)を順守するとした先週の合意を、中国が破ったとしている。
BBCのジェイムズ・ロビンズ外交担当編集委員は、核保有国同士の衝突は極めて深刻なだけに、全面紛争に陥るのを防ぐ国際社会の圧力が高まるとしている。
BBCインド・オンラインのスーティク・ビスワス編集委員は、今回の衝突で、インド国内における反中国の国民感情が再び高まるだろうとみている。また、新型コロナウイルス対策に苦戦するナレンドラ・モディ首相は、外交と安全保障の難問を突きつけられた格好だと説明した。
双方の主張
インド陸軍は当初、領有権が争われているカシミール地方のラダックで中国軍と衝突が発生し、インド軍の将校1人を含む3人が死亡したと発表した。
その後、両軍の衝突は収まったとする声明を発表。衝突ではインド部隊の17人が死亡し、「戦闘での死者は合計20人」になったとした。
一方、中国側は死者が出たとはしていない。インドに対し、国境を越えて中国側に侵入したと批判している。
AFP通信によると、中国外務省の趙立堅報道官はインド側が15日に2度、国境を越えたと主張。「中国側を挑発、攻撃し、双方の国境軍同士の深刻な身体的衝突を招いた」と述べた。
インド(INDIA)と中国(CHINA)間の実効支配線付近にあるガルワン渓谷で衝突(Clash in Galwan Valley)が起きた
インドと中国の双方とも、40年間というもの銃弾が使われたことはないと主張。インド軍は16日、今回の衝突においても「発砲はなかった」と述べた。
銃撃戦以外でどうやってこれほどの死者が出たのかは不明だが、戦闘には石とこん棒が使われたとの報道も出ている。
インドのメディアは、インド兵らは「殴打されて死亡した」と伝えている。インドがラダックに道路を建設したことをめぐって中国との間の緊張が高まった

高まっていた緊張
実効支配線の境界はあいまいだ。川や湖、山頂付近の雪などが、境界の確定を難しくしている。世界最大規模の中国、インド両軍は、至る所で遭遇している。
両国は過去30年間で何度か協議を重ねてきたが、国境問題は解決されていない。
ここ数週間は、国境付近で双方の緊張が高まっていた。
インドは、中国がガルワン渓谷に数千人の部隊を送り込み、インドの領土を3万8000平方キロにわたって占拠していると主張している。
5月には、北東部シッキム州の国境付近で両軍部隊の衝突があった。同州では2017年にも、中国が国境を広げようとしたことをきっかけに衝突が発生した。
インドはラダックの実効支配線に沿った遠隔地に新たな道路を建設している。有事の際に部隊や物資の素早い移送を可能にするもので、こうしたインフラ整備に中国は強く反発している。
これまで両国が戦争状態となったのは1962年のみ。このときはインドが屈辱的な敗北を喫した。

おおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.13更新

チベット仏教にもとづく、政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立ないし高度な自治を求めていることから生じている紛争、および諸問題。近来、当局に抵抗する僧侶の焼身自殺が頻発し、チベットでの宗教や自由への圧迫が人権問題だとして国際問題化している。宗教指導者ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命、ダラムサラに亡命政府(ガンデンポタン)をつくっている。中国に住むチベット人は682万人、うち270万人がチベット自治区に、他は青海(せいかい)・甘粛(かんしゅく)・四川(しせん)・雲南(うんなん)などの自治州に住む(2010年中国人口センサス)。
[毛里和子]

三つの「チベット」
チベット問題は新疆(しんきょう)ウイグルや内モンゴルの問題より複雑である。まず「実際上の独立」の歴史が長く、中華人民共和国になっても1959年3月の反乱でようやく本土への統合が始まり、行政系列に入ったのは1965年にチベット自治区ができてからである。次にチベットがもつ政治的、宗教的、文化的特殊性、さらには海抜4000メートルを超える自然の要害という条件も統合をむずかしくしている。また、「チベットとは何か」が中央権力とチベット人の間で異なっている。ダライ・ラマ14世・チベット亡命政府が主張する「大チベット」構想では、ウツァン(中央チベット)を囲む周辺チベット(アムドは青海ほぼ全域と甘粛の一部、カムはかつての西康西部、いまの四川西部と雲南北部)に多数のチベット人が散在し、彼らは「大チベット」「チベット人がすむところ」が「チベット」だと考える。つまり、三つのチベットがあることになる。いまの自治区の2倍の領域である。1987年以来、ダライ・ラマ14世は、この「大チベット」を念頭に、「中国との提携関係のもとで」「民主チベット、核兵器のない中立のチベット」を求めている。他方、中央政府のいうチベットはチベット自治区に限られる。
[毛里和子]

1959年3月チベット反乱
1951年の中国人民解放軍のチベット進攻後、チベット側3方(ダライ・ラマ勢力、パンチェン・ラマ勢力、アワン・ジグメNgapoi Ngawang Jigme(1910―2009)勢力)と中央政府の間で「17条の和平協約」が結ばれ、チベットが「共和国の大家庭にもどった」ことが確認される一方、チベット地域の当時の政治制度、宗教制度は変えないことが約束された。だが、1957年から情勢は激変する。「民主改革」、農牧業の集団化が始まるのである。
1959年3月、ラサを中心にチベット仏教僧侶、旧支配者が反乱を起こした。中共当局がダライ・ラマ14世を観劇に招待すると、「ラマが北京(ペキン)に拉致(らち)される」と考えたラサ住民(一説では3万人)がノブリンカ離宮を包囲、「チベット独立、漢人は帰れ」と騒いだ。離宮では旧チベット政府のカロン(閣僚)が人民会議を開き、チベット僧俗人民の名で政教一致のチベット独立を宣言した。中央政府は、旧チベット政府軍と武装した反乱者(一説では7000人)が人民解放軍に抵抗したので、3月20日解放軍が5000人のチベット勢力を殲滅(せんめつ)したという(死者は545人)。この間にダライ・ラマ14世は5000メートルの山々を越えてインド北部に脱出、チベットの事実上の独立の歴史や、中共によって1951年協約が反故(ほご)にされたことなどを国際社会に訴えた。このチベット反乱の背後には、カム、アムドで土地改革、農牧業の集団化、宗教的特権の廃止などが始まって旧社会を破壊し、旧支配者や僧侶が「衛教軍」などをつくって抵抗したことがあり、チベット社会旧勢力の多数がこの反乱に加わった。対して中央政府は、1959年から1962年にかけて人民解放軍が熾烈(しれつ)な殲滅(せんめつ)作戦を展開し、おびただしい死者を出した。
[毛里和子]

チベット亡命政府とダライ・ラマ14世の主張
ダライ・ラマ14世下の亡命政府(十数万の難民として暮らす)は1961年以来「自由チベット憲法」草案で動いてきたが、1992年、ポスト・ダライ・ラマを想定して、亡命チベット憲法草案を制定した。2011年3月ダライ・ラマ14世が政治的地位からの引退を表明、「チベットおよびチベット人の守護者であり、象徴」と規定された。政治的リーダーには代表者会議で選出された首相ロブサン・センゲLobsang Sangay(1968― )が就任し、首相のもとに、宗教・文化省、財務省、内務省、教育省、保安省、情報・国際関係省、保健省をおき、亡命チベット代表者会議(国民会議)を立法機関とする。なおセンゲは、ハーバード大学で学んだ国際法の研究者でもある。
1980年代は胡耀邦(こようほう)政権(1981~1986年)が「チベット休養政策」をとり、宗教政策も緩和した。ダライ・ラマ14世は国際的発信に力を注いだ。1987年9月アメリカ議会下院では、(1)「大チベット」の平和地帯化、(2)チベットへの漢人移住政策の停止、(3)チベット人の基本的人権と自由の尊重、(4)核廃棄物の処理を含むチベットの自然環境の回復、(5)「チベットの将来の地位、チベット・中国関係についての真剣な交渉」などを訴えた(5項目提案)。
翌1988年の6月ストラスブール欧州議会演説では、(1)ウツァン・カム・アムドとして知られるチベット全土(大チベット)を「中華人民共和国と共同して、民主政体の自治地帯とする」、(2)中国政府はチベットの外交政策に責任をもち、チベット政府は憲法・基本法を通じてチベットおよびチベット人に関する全決定権をもつ、(3)関係諸国の平和会議でチベットの非武装中立を実現する、(4)中国政府はチベットでの人権侵害をやめ、漢人移住政策を放棄するなど、その主張はより具体的でクリアなものとなった。ダライ・ラマ・グループは「チベットの分離独立」を求めているわけではなく、大チベットを中国と共同して「高度の自治地帯とする」というのが基本構想なのである。
[毛里和子]

二度のラサ騒乱と僧侶の焼身自殺
1980年代末からチベットでは宗教的自由を求める騒乱や僧侶の焼身自殺などが多発する。新疆ウイグルなどと同様、自決や分離という原理的な要求というより、弱者であるチベット人(ウイグル人)の日常的な不満の爆発だといえる。
チベット反乱30周年の1989年3月5日から7日にラサで大きな衝突があった。「チベット独立」を求めるデモと公安・警察が衝突したのである。中国側公式報道では死者は10名、西側報道では80~150名と伝えられた。事態を重視した政府は3月7日ラサに戒厳令をしいた。建国以来初の戒厳令である。なお5月19日には天安門広場をデモが埋めている北京市でも戒厳令がしかれた。
この騒乱から19年後、2008年の3月10日にふたたびラサで騒乱が起こった。チベット仏教の僧侶たちによる宗教弾圧に対する抗議デモがきっかけとなり、14日には暴徒化したチベット人が漢人や回族の商店を襲撃、テレビ放映の影響もあって一挙に国際化した。暴動は自治区外のチベット人地区にも飛び火し、16日、四川省アバ州でも、独立派チベット人が開いていた集会を回族が襲撃し、銃撃を含む衝突になった。チベット人と漢人との対立の構図から、諸民族を巻き込んだ複雑な抗争になっていった。
チベット亡命政府は死者数203人、負傷者は1000人以上、5715人以上が拘束されていると発表した(4月29日)。一方、新華社報道(2010年7月10日)では、3月14日のラサ騒乱での死者は23人、逮捕者は953人で、うち362人が自首、116人が裁判中であり、4月末に30人の裁判が結審し、懲役3年から無期懲役が言い渡され、6月に12人の裁判が結審、放火、窃盗、社会秩序騒乱罪、国家機関襲撃罪など19の罪状が認定された、とする。
なお、2009年からは僧侶の焼身自殺が頻発している。2013年に亡命政府の首相ロブサン・センゲは、「中国のチベット統治失敗に対する究極の不服従」声明を発し、僧侶の焼身自殺が100名を超えた、と中央政府を非難した(中国年鑑2014)。
[毛里和子]

チベット問題の根源にあるのは何か
騒乱の原因をめぐる三つの説
「(2008年ラサ騒乱は)ダライ・ラマ集団が組織的、策謀的かつ入念に画策煽動(せんどう)し、内外のチベット独立分裂勢力が互いに結託して引き起こしたもので、平和的なデモではまったくなく、暴力犯罪である」というのが中国当局の公式見解である。
チベットでの騒乱については3種の言説がある。一つは、「ダライ・ラマ集団が組織的策謀的かつ入念に画策煽動し、内外のチベット独立分裂勢力によるもの」とする中国およびラサ当局の主張、第二がチベット亡命政府に代表される、民族問題、宗教問題、人権問題だとする言説である。第三が、チベット騒乱の根源には、チベットのおくれた経済、中央政府によるチベットの一方的開発などの経済要因があるとするもの(経済言説派)である(大川謙作「チベット問題における経済言説の再検討」『中国21』34巻、2011年3月)。
経済言説派の代表が開発経済学者でロンドン大学教授のアンドリュー・フィッシャーAndrew M. Fischer(1967― )である。彼の分析によれば、1990年代なかばからチベットにおける都市・農村の経済格差は5.6倍となり、全国レベル(3.4)や新疆(3.7)と格段の差がついた、という。経済格差からくる差別、教育格差、漢語の習熟度、各種ネットワークへの情報格差の面でも、チベット人は漢人や回族と大きな差があるという(Andrew M. Fischer,“Perversities of Extreme Dependence and Unequal Growth in the TAR”,Tibet Watch Special Report, August 2007)。なお、むしろチベット人内の富裕層と貧困層の格差の広がりが深刻で、市場経済のインパクトがチベット人アイデンティティを危機に追い込んでいるとする説もある(村上大輔「ラサにおける民族内格差とチベット人アイデンティティの行方」『中国21』30巻、2009年1月)。
[毛里和子]

中華とチベットの歴史問題
だが、チベット問題の根はもっと複雑で、市場化、植民、経済格差以外にも、次の要因がある。
(1)チベット人が自分が住む地域を中華世界とは考えていないし、自らを「中華世界」の一員だとは考えていないなかで、一方的な統合政策や援助はなんの役にも立たない。
(2)もっと根の深い問題は中華とチベットの「歴史問題」である。かつてチベットは中華とは違う文化圏をもち、中華とは異なる政治世界でもあった。
(3)1959年のチベット反乱にまつわる「悲劇」について「和解」が可能かどうかという問題もある。1959年反乱では、チベット人地区全域ですさまじい殺戮(さつりく)があった。中国の軍事史専門家(〓礼峰)によれば、中央政府は、1958年3月から8月にかけて青海の「反革命武装反乱」を鎮圧、合計11万6000人を「殲滅」した。また1959年3月の反乱から1962年3月までの掃討作戦では中央チベットで9万3000人を「殲滅」(死亡・負傷・捕虜)したという。
この虐殺の歴史的決着はついていない。しかも、1989年3月の騒乱、2008年3月の騒乱で多数の犠牲者をふたたび出し、傷はますます深くなっている。チベット独立のシナリオがないとすれば、チベット問題の解決には「歴史的和解」が不可欠だが、中国の権力にとっては1989年の天安門事件の見直しよりもむずかしい課題だろう。
[毛里和子]

ダライ・ラマの存在
チベットと新疆などにおける問題との違いは、チベット人がダライ・ラマという篤(あつ)い信仰の対象をもつことであり、それによりチベット亡命政府と中央政府との話し合いのチャネルは細いが機能している。2008年には、ダライ・ラマ側特使と中共中央統一戦線部部長との公式交渉が何回かもたれ、両者間の溝は埋まらないが、対話のチャネルは切れてはいない。
しかしチベット固有の不安材料もある。ダライ・ラマ14世自身の後継問題である。1935年生まれのダライ・ラマは、2011年に政治指導者として引退を希望すると表明、チベット亡命政府は「憲章」を改正して、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり、象徴」とし、亡命政府新首相にロブサン・センゲを選んだ。だが、宗教指導者ダライ・ラマの後継をめぐっては中央政府の介入もあり、複雑な抗争が起こるだろう。
[毛里和子]

©Shogakukan Inc.おおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.13更新

1842年、中国の清朝はアヘン戦争に敗北し、香港はイギリスの植民地になりました。それ以来香港では行政のリーダーを選挙で選ぶことはできませんでした。1997年の香港の中国への返還に先立って、1984年、中英共同声明が調印されました。この声明には、「従来の資本主義体制や生活様式を、返還後50年間維持する」と明記されています。
このように、香港の人々は中国の一国二制度の下、英国流の資本主義経済や言論の自由の中で暮らしてきました。香港は、アジアの国際金融センター、国際貿易港として、繁栄を謳歌してきた側面も持っています。

しかし、行政長官が民主的に選出されないなど、一国二制度に対しての不満の声が高まっていきます。
2014年、若者らが道路を占拠する「雨傘運動」が起こりました。また、2019年にも、大規模なデモが起こり、民主派政党・香港衆志の創始者の一人であるアグネス・チョウ氏の存在が世界的に広まりました。

民主化を求める若者を中心とする市民の要求が高まり、中国政府は神経をとがらせていました。
中国の習近平国家主席は、2019年のデモの後、2020年6月30日に、中国政府が香港の統制を強める「国家安全維持法」に署名し、一国二制度が崩壊することが懸念される歴史的な節目を迎えました。
習近平国家主席は、これまで香港に認められてきた自治と自由は許すべきではないと判断し、国内の厳密な専制体制を香港にも適用することとしたのです。
ここでは、中国と香港の歴史、なぜねじれた関係になっていったのか、この問題への各国のスタンスについてご紹介します。
グローバルにおける香港のビジネスポジション
香港は、中国広東省の沿岸部深セン市の南部に位置します。香港島、九龍半島、新界に分かれており、2020年現在の人口は約750万人で、市街地は香港島北部と九龍半島に集中しています。
人口密度が極めて高い地域としても有名です。周囲は天然の良港になっており、古来より貿易拠点として、現在は観光地としても栄えています。

香港とシンガポールは中継貿易拠点として、中国とASEAN諸国をそれぞれの後背地に持ち、国際金融センター(銀行や証券会社などの金融業において中心的な役割を持つ都市)としての地位を築いてきました。
80年代には、アジア諸国の急速な経済成長にと中国経済の本格的な開放で、諸外国からの対中投資や対中貿易が拡大。資金需要が増加しました。しかし、1997年のアジア通貨危機の発生後は、金融機能の低下を余儀なくされ、銀行業務の規制緩和や資本市場の統合などの金融改革を進めてきました。
独自の行政機関と法律
中国の一部でありながら独自の行政機関を持ち、独自の法律が運用されています。
このように、中国本土とは異なる制度を適用し、高度な自治権を認める制度のことを「一国二制度」と言い、この制度が適用される地域は「特別行政区」と呼ばれています。中国では、香港とマカオが特別行政区になっています。

1997年7月、イギリスから返還された香港に対して中国は、外交・防衛を除外する分野で高度の自治を、50年間維持すると約束していました。
香港は、独自の行政、立法、司法権を持ち、中国本土では認められない言論の自由、通貨やパスポートの発行権を有しています。
一方中国には、憲法にあたる香港基本法の解釈や改正権、政府高官の任命権を持つなど、香港をコントロールするシステムもあります。
一国二制度の問題点と雨傘運動
香港の行政長官の選挙は、従来親中国の人々が多数を占める選挙委員会で選ばれる間接選挙でしたが、2017年の選挙以降普通選挙に改めると発表されました。
しかし、これには条件がついており、中国からの独立を主張する候補者は立候補することができないというものでした。「これは偽りの普通選挙だ」と人々が立ち上がったのが「雨傘運動」だったのです。この運動は、中国から何の譲歩も得られることなく失敗しました。

「雨傘運動」以後、運動参加者や活動家たちの間には何をしても無駄という挫折感が広まりましたが、香港独立を目標に掲げる政党「香港民族党」が2016 年に発足しました。
発起人の陳浩天氏は「香港で民主化を実現するには、まず独立するしかない」と語りました。このデモは、最盛期は参加者が10万人を超えていました。しかし、警察がバリケードの強制撤去を進め、79日間でデモは終結しました。
その後の大規模デモは、2019年6月、香港政府の「逃亡犯条例」改正案に対するデモが起こりました。民主活動家のアグネス・チョウ氏を始めとする3人が、警察本部包囲デモを扇動したとして無許可集会の扇動罪に問われました。2020年12月、裁判官は3人に実刑判決を言い渡しました。
中国は、一国二制度の下、2047年まで香港では社会主義は行なわないと約束し、基本法にも盛り込まれています。「2047 年になる前に香港は中国に呑み込まれるのではないか」という香港の人々の不安は的中したのです。

習近平国家主席がどうしても香港を手に入れたい理由
中国は、清朝時代にアヘン戦争に敗北することで、香港という領土をイギリスに取られてしまったという苦い経験があります。中国にはこれ以降「国家の利益を守るために領土は一寸たりとも失ってはいけない」という考えが教訓として残っています。しかし習近平国家主席による香港への介入について各国は「強引過ぎる」との意見を示しています。
なぜそこまでして手に入れたいのでしょうか。その理由を2つの視点から見てみましょう。

中国に比べて資本の移動や資金調達が簡単
香港が中国に返還された1997年、中国と香港のGDPの比率は100対18でした。人口12億の中国に対して、香港にはその1%にも満たない650万人しかなかったのですが、1人あたりの経済力は圧倒的に大きく、優秀な人材も集まる香港は、「金の卵を産むニワトリ」のような存在でした。

その後、国際金融センターとしての力を失っていったこともあり、GDP比率は現在100対3になりました。それでも共産党の指導下にある中国と比較して、資本の移動や資金調達が簡単である点が魅力の一つとなっています。

米中貿易摩擦を回避するため
香港は中国大陸にとっての合法的で合理的な「貿易障壁の抜け道」です。
中国大陸の対外貿易相手国の第1位は米国です。中米貿易額は中国輸出入総額の19%を占め、第2位は香港です。中国大陸と香港の貿易額は、中国輸出入総額の14%を占めており、これは対日、対韓、対独の3カ国の合計に匹敵します。
2018年における輸出面を見てみると、大陸の331億ドル相当の通信設備、167億ドル相当のコンピューター設備、258億ドル相当の集積回路設備が香港に輸出されています。
香港の人口は750万人です。面積1000平方キロと国土は狭く、大陸の14%もの輸出入を消化しきれません。なぜ大陸は香港から大量の貨物を輸出入しているのかというと、香港は大陸の対外貿易の中継点だからです。

中国大陸の製品は、まず香港に持ち込まれ、ラベルを「香港」と貼り変えられ、世界各地に輸出されます。一部、先進国の中国大陸に対する制限を回避できるというメリットにより、中国大陸から直接輸出した場合と比べて、関税を軽減できました。巧妙に貿易摩擦を回避し、中国の1/7の製品が香港を通じて全世界に販売されてきました。

ラベルを貼り変えた商品の一部は米国にまで輸出されています。米中貿易戦争によって、万が一中国の多くの対外貿易が中止されるなどの窮地に立たされたとしても、中国はこの香港というパイプがあればたくさんのことをすり抜けられます。
中国がどうしても香港を手に入れることにこだわる理由は上記以外にもあるかもしれませんが、上記2つが主な理由と考えられます。
国家安全維持法
2019年のアグネス・チョウ氏らのデモの影響を受け、習近平国家主席は、中国共産党が香港への支配を強めるために、「国家安全維持法」の制定に動きました。5月下旬の全人代で導入方針を承認後、たったの1か月で審議を終えるという異例の速さで可決しました。
習近平国家主席は、これまで香港に与えられてきた自治と自由は許可できないと判断し、中国本土の厳密な専制体制を香港にも適用する意志をこの国家安全維持法に込めたのです。

国家安全維持法には主に下記の4つが定められています。

この法律によって中国政府の権限が大幅に強化され、「一国二制度」が有名無実化となるのは明らかです。従来のような民主化要求デモは今後できないことになりました。
この国家安全維持法が恐れられているのは、できたばかりの法律で裁判の判例もないため、何が罪になるのかまだ分からない点と言われています。何が国家分裂で、何が海外勢力との結託になるのか。多くの香港の人々が、政治的な発言を控えるようになっているようです。

国家安全維持法に対する各国の動き
香港では、反政府的な動きを取り締まる国家安全維持法が施行された後、多数の民主派の議員や活動家が逮捕されるなど、民主派への圧力が強まっています。
国家安全維持法の設定に対して強く反発したのがイギリスとアメリカです。旧宗主国のイギリスではジョンソン首相が、「国家安全維持法の施行は、中英共同声明に明確な違反で、香港基本法に反する」と強く批判し、英国海外市民の資格を持つ香港市民がイギリスに5年滞在でき就労も認める特例措置を発表しました。
アメリカでは、トランプ米大統領が、2019年11月、香港の人権と自治を擁護する「香港人権・民主主義法案」に署名し、「香港人権法」が成立しました。

同法は、米国務省に対して香港の高度な自治を保障した「一国二制度」が正しく機能しているかどうかを検証する「年次報告書」を作成するように義務づけ、香港で人権侵害などが行われた際は、当局者に制裁を科すことできるようになります。
中国外務省は、「中国政府と人民は断固反対する」と、同法が成立したことに声明を出し、「重大な内政干渉で、あからさまな覇権の行使である」と米国を非難しました。「アメリカが独断専行を止めなければ中国は必ず報復措置を取る」と強調しました。
2021年1月、バイデン政権が誕生後、バイデン大統領も中国に対し厳しい姿勢を示しています。3月18~19日に開いた米中外相会談において、新疆ウイグル自治区、香港の人権侵害、台湾問題について懸念を表明しています。2021年4月には、アメリカのブリンケン国務長官が、「中国が香港の自治の弱体化を進めている」と述べ、中国への強硬姿勢を鮮明にしました。
中国と香港がなぜ長年揉めているのか、その歴史や背景についてご説明しました。4月に行われた菅首相とバイデン大統領の会談のキーワードの1つに「対中強硬姿勢」があり、両国は台湾の安全確保に努めると約束を交わしました。
香港の民主活動家のアグネス氏が逮捕された際、日本政府は何も言及しなかったことから、「このような人権問題に対して何も発言しないのはどうなのか?」と国内で批判が高まりました。今回バイデン大統領との会談で対中強硬姿勢に舵を切った日本は、今後香港のこの問題に対して、無言を貫くことはできなくなるのでしょう。


最後に

国家安全維持法

おおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.13更新

問題の背景
約960万平方キロメートルの巨大な領域をもつ中国の一つの大きな悩みは、主体文化、主体民族とは違う勢力によって国家の統合が脅かされるという「懸念」や「恐れ」である。「大一統」(大きく一つに統(す)べる)を信奉する中央権力にとっての脅威は、チベットと新疆ウイグルである。いずれも独立国をもった歴史があり、固有の文化・宗教でアイデンティティが形成されており、中央――北京(ペキン)からは遠い辺境にある。ほとんど宗教心をもたない漢人と違ってチベットではチベット仏教(2015年時点の職業僧尼は12万人)、新疆ではイスラム教が主体宗教である(2015年時点のムスリム人口は2000万人、新疆のイスラム教にかかわる職につく人員は2万9300人である(国務院新聞弁公室刊『新疆的宗教信仰自由状况』2016年6月))。なお、中国領域に住むウイグル人は約1000万人、うち約980万人が新疆ウイグル自治区に住む(2010年中国人口センサス)。
新疆は18世紀中葉に清(しん)朝の版図に入り、1884年に省となった。中華人民共和国は漢人以外の民族的少数者を55の「少数民族」として「民族の区域自治」で統治しており、ウイグル人は新疆ウイグル自治区、チベット人はチベット自治区を中心に集居している。新疆ウイグル問題とは、19世紀のムスリムの蜂起、1930年代、1940年代の東トルキスタン共和国樹立など、短期間とはいえ、何回かの「独立」の経験をもつ中国の「辺境」で、分離独立、高度な自治、あるいは人権を求める暴力事件が多発している状況をさす。とくに1990年代から、市場化と宗教自由化のなかで住民の異議申し立てが広がり、権力側はこれを暴力と厳罰法で押さえ込んでいる。2001年のアメリカ同時多発テロ事件で「イスラム過激主義」がグローバル化し、人材と武器が新疆に流れているとして、「三股(さんこ)勢力(テロリズム、分裂主義、宗教的極端主義)」撲滅のキャンペーンが続き、それに住民が暴力で対抗する「暴力の構造化」、「新疆の中東化」状況がみられる。
ウイグル人とは
新疆省が建制された1880年代には現地ムスリムの執拗(しつよう)な反乱は制圧された。チュルク系ムスリムであるウイグル人の祖先はいまのモンゴル国に打ち立てた遊牧国家、ウイグル部に遡(さかのぼ)るという。その後、回鶻(かいこつ)、畏兀児(ウイグル)などとよばれた。彼らは8世紀に諸部族を統一してウイグル国をつくったが、天災その他で崩壊、四散した。その後、西に逃れた集団がいまの新疆地区に移り住み、オアシスに定住。多くがしだいにイスラム教徒となり、纏回(てんかい)、回民、回回などとよばれた。
ウイグルという他称が出てくるのは、1921年、新生ソ連が中央アジアで開いた「東トルキスタン出身者大会」からである。また、中国内でウイグルが他称として固まるのは1935年以後のことで、当地軍閥の盛世才(せいせいさい)(1895―1970)がこの地域の民族的少数者をウイグル(維吾爾)を含めて14民族を認知したことによる。中国共産党がウイグル族とよび始めたのは1930年代末である。
だが、ウイグル人自身は1940年代まで自身をホータン人やカシュガル人など地域名でよび、一つの集団アイデンティティはもっていなかったという。ウイグル意識や呼称が定着するのは、共和国の成立後、少数民族を一つ一つ識別する工作、民族区域自治政策が始まる1950年代もなかば以降のことである。
二つの「東トルキスタン共和国」――つかのまの独立時代
北京中央権力が及ばない辺境である新疆では、1930年代~1940年代に独立分離の動きが続いた。1933年11月に新疆西部のカシュガルで「東トルキスタンイスラム共和国」の建国が宣言された。近代的教育を受けたウイグル人のウラマー(イスラム神学者)たちに率いられ、新疆での漢人官僚による民族差別と立ち遅れたウイグル社会への不満で立ち上がったのである。建国綱領に「謹んでコーランを遵守する」、「政府を担当する者は、コーランと現代科学を熟知すべし」と掲げイスラム国家を目ざしたが、ムスリム系軍閥である馬仲英(ばちゅうえい)の攻撃にあい、指導部内の対立などで半年たらずで瓦解(がかい)した。
1942年、軍閥の盛世才が新疆を去り、国民党軍が新疆に入るのと相前後して、東トルキスタン独立運動がふたたび活発化した。1944年8月に新疆北部のイリ地区でウイグル人、カザフ人が蜂起、11月7日にはソ連国境に近いクルジャ(伊寧(いねい))で武装蜂起が発生した。このとき「東トルキスタン共和国」の独立を宣言し、1年余り独立の旗を掲げた(イリ、タルバガタイ、アルタイの三区革命)。当初、新疆での親ソ政権樹立と天然資源をねらうソ連が、反漢・反国民政府の現地ムスリムの武装蜂起を全面的に支援し、武器、将校、顧問などを送った。共和国成立の大会で主席となったイリハン・トレが「アッラーはわれわれの神であり、ムハンマドはわれわれの聖者であり、イスラム教はわれわれの信仰であり、東トルキスタンはわれわれの祖国である」と演説したように、当初はきわめてイスラム色が強かった。だがすぐにソ連の圧力でムスリム系のリーダーたちは指導部から追われた。ソ連は1945年夏から政策を転換、東トルキスタンの独立支持をやめ、国民政府・新疆省政府との仲裁役に転じた。「東トルキスタン共和国」は今回もまた1年半で姿を消した。
新疆への植民、進む漢化
中華人民共和国創立のころは新疆はウイグル人の里であった。1949年には新疆地区の人口の4分の3が主要民族たるウイグル人(約330万人)で、漢人はわずか30万人であった。ところが、1955年に新疆ウイグル自治区を設け、1950年代末から石油開発、綿花生産などのために大量の漢人が植民した。植民のピークは1960年代末で、1970年にはウイグル人は自治区人口の半分を切った。2011年時点では新疆全体で漢人が38%、ウイグル人が47%となっている。民族分布に地域的な差が大きいことにも注意が必要である。一般に新疆北部、大都市、カラマイ市などの工業都市では経済パワーに勝る漢人の比率が高い。自治区の首府であるウルムチの場合、ウイグル人31万人に対して漢人が181万人を占める(『新疆統計年鑑2012』)。
「植民」の主体になったのは新疆生産建設兵団である。国防、治安そして開墾と生産など多様な任務を負った武装集団である。1949年解放軍の新疆進攻と同時にイリ、タルバガタイ、アルタイの三区の「民族軍」を中核に兵団が組織され、以後、軍務と開墾に従事している。2013年末における兵団の総人口は270万1400人で、新疆全人口の11.9%を占める(百度百科、新疆生産建設兵団、2016年8月15日閲覧)。そのほとんどが漢人である。
新疆での騒乱
1990年代――バレン郷事件、イニン事件
新疆では1980年代末から毎年のように民族・宗教にからむ紛争が起きたが、1990年4月にカシュガル近くのアクト県バレン郷で起こった「反革命暴乱事件」は当局を震撼させた。中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」として漢人の追放、新疆での核実験反対、産児制限反対、自治の拡大などを求めたといわれる。アムネスティ・インターナショナルの1991年レポートによると、6000人が反革命罪で訴追されたという。
1997年2月5日には新疆北部イリ地区のイニン(クルジャ)で民族間衝突によって多数の死傷者を出した。3月11日の『新疆日報』は、この騒乱を「共産党政権の転覆を目的とした民族分裂主義者の破壊活動」ときめつけ、「生死をかけた激しい階級闘争」を呼びかけ、「少数の分裂主義者と国際組織の浸透」に強い警戒心を示した(張先亮(ちょうせんりょう)「講政治必須旗幟鮮明地反対民族分裂主義」)。事件直後の4月24日にイリ地区などで公開裁判が開かれ、事件の「主犯」ユスプ・トルソンなど3名を死刑、その他27名を7年から無期懲役の刑に処した。
こうした紛争の背景には、グローバルな市場化のもとで、民族語教育などが衰退し、漢人がいっそう有利になっているなかで、ウイグル人のインテリ層は民族的アイデンティティに強い危機感をもっていることがある。トルファン―カシュガル間1446キロメートルの南疆鉄道の開通(1999年)で「ウイグルの里」も市場経済にのみ込まれてしまう。
2009年7月ウルムチ騒乱
朱鎔基(しゅようき)首相時代の2001年から西部大開発戦略がスタートした。「西部」とは国土面積で70%、GDP(国内総生産)では18%を占める、新疆、チベット、雲南(うんなん)、青海(せいかい)、寧夏(ねいか)など非漢人が住む広大な、だが貧しい地域である。この大開発戦略で辺境にも資金と人が流れ込んだ。
2009年7月5日ウルムチで、自治区政府発表では、15日までに192人が死亡、1712人が負傷する騒乱が起こった。7日には漢人が報復的な数万人規模の抗議デモを行い、8日、国家主席の胡錦濤(こきんとう)はサミット出席を取りやめて急遽(きゅうきょ)イタリアから帰国した。9月3日には、数万人の漢人がウルムチで報復のデモを敢行、5人死亡、14人が負傷した。
新疆ウイグル自治区当局も中央政府もこの騒乱に「テロリズム、分裂主義、宗教的極端主義の三股勢力」として厳しく対決した。事件後ただちに、「ごくごく少数者の陰謀」、アメリカに亡命している「世界ウイグル会議議長のラビア・カーディルの陰謀」、イスラム原理主義のテロ組織と結びついた「新疆三股勢力の画策」と断じ、容疑者を逮捕、ただちに死刑などに処した。
2009年7月のウルムチ事件で注目すべきなのは、学校にも行かない、職もないウイグル青年が経済格差、就業格差、宗教的差別から起こした暴力事件と、それに報復する漢人の集団暴力行為とがセットになっていることである。こうした危機に対し、当局は「社会治安総合治理条例」の改正など法の強化と責任者の処罰、さらに被害者への弔慰金など「金」での慰撫(いぶ)を図っている。2010年、15年間自治区党書記であった王楽泉(おうらくせん)(1944― )を解任、後任に湖南(こなん)省党書記の張春賢(ちょうしゅんけん)(1953― )をあてた。だが、暴力の構造化や連鎖する憎悪などを解きほぐすことはきわめてむずかしくなっている。
国際化するウイグル問題
1990年代以降の顕著な特徴は、イスラム主義のグローバル化に伴いウイグル問題が国際化したことである。海外ウイグル人のおもな組織として、「国際的テロ組織」と名指しされている「東トルキスタン・イスラム運動」(ETIM)、ウイグル人やイスラムの宣伝組織として比較的穏やかな活動を展開している「世界ウイグル会議」がある。
1992年イスタンブールで東トルキスタン民族会議が開かれ、1996年にはドルクン・エイサDolkun Isaを中心にミュンヘンに世界ウイグル青年会議が設立された。2004年には東トルキスタン民族会議と世界ウイグル青年会議が合流して、「世界ウイグル会議」ができた。初代の議長は、エルキン・アルプテキンErkin Alptekin(1939― )である。1930~1940年代に新疆省幹部だったエイサ・ユスプ・アルプテキンIsa Yusup Alptekin(1901―1995)の息子である。2006年からはラビア・カーディルが2代目議長を引き継いでいる。
カーディルは新疆で成功した企業家で、新疆の人民政治協商会議のメンバーを務めていたが、民族問題に関する言論により1999年に国家機密漏洩(ろうえい)罪で逮捕、投獄された。2005年にアメリカに亡命してからは、世界ウイグル会議の議長として活動している。
他方、テロ組織とされる東トルキスタン・イスラム運動は1997年にハッサン・マフスームHassan Mahsum(1964―2003)が設立したものだという。2003年から中国政府、アメリカ、国連から「テロリスト集団」に指定されている。中国当局は、2008年7月の昆明(こんめい)のバス爆破事件、2011年7月のカシュガルの連続殺傷事件はこの組織が関与、2013年10月天安門広場での自動車突入事件はその指示があったと発表しているが、根拠は何も示されていない。いずれにせよ、ウイグルを取り巻く状況は大変に厳しい。

おおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.12更新

<建堂100年、習近平の狙い―毛沢東や「新中国」と習近平の「新時代」
バイデン政権は国際社会に戻ってきているので中国は警戒しているが、しかし中国一国に対して、アメリカ一国では対抗する力がなく、他国を巻き込まないと中国一国に対抗できないほど中国が力を付け、アメリカが弱体化していることを、中国人民は喜んでいる。
習近平にとってさらにラッキーなのは、その「中国共産党建党100周年記念」という大きな節目の年に中国のトップの指導者であったことだ。この周期は百年に一度しか訪れないので、この巡り合わせをフルに活用しないはずがないだろう。
「毛沢東の新中国」と匹敵する「習近平の新時代」を築くためには、憲法改正を断行してでも何としてでもトップに立っている長い時間が必要となる。だから国家主席の任期を撤廃した。中共中央総書記に関しては、もともと党規約には「任期」が書かれていないので、党のトップに立ち続けることは、現行の党規約で十分に行ける。
一党支配体制を維持するための最大の武器は「言論弾圧」
アメリカに潰されないようにする大前提として、中国共産党による一党支配体制維持が不可欠となる。
中国共産党の長い歴史を見れば、「言論」こそは最大の武器で、その言論を統一させておくことが一党支配体制を維持する基礎になっていることが分かる。
しかし習近平の父・習仲勲は、生涯を懸けて「言論の自由」を唱えてきた。「不同意見(異論)を認めなければならない」として、1990年に鄧小平によって再び失脚に追い込まれる前日まで、「不同意見を認める法律」を制定することに力を注いでいた(詳細は『裏切りと陰謀の中国共産党100年秘史習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』)。
その父の信念を裏切ってでも、習近平は一党支配体制を維持する方を選んだ。
昨日、香港の『リンゴ日報』が廃刊に追い込まれた。一党支配体制を維持し、「習近平の新時代」を貫徹するためには、「言論弾圧」が最も大きな武器となる。
しかし、それこそが逆に習近平のアキレス腱でもあることに注目したい。
ネット空間で自由に発信することに喜びを覚える中国の若者の大多数は、ネット規制がこれ以上強くなれば不満の方を強く抱くようになる可能性を秘めている。
なお日本は、政界が一部の親中派大物によって牛耳られていることが多いため、中国共産党を強化する方向にしか動いてない。安倍前政権も菅現政権も、習近平に忖度することしか考えていない。それが日本国民に不幸をもたらす結果を招くことに、一人でも多くの日本人が気づいて欲しいと望む。『リンゴ日報』の廃刊は他人事ではないのである。その危機は目前に迫っている。
建党100周年と米中覇権の分岐点に遭遇した習近平は、そのタイミングを最大限に利用して、毛沢東の「新中国」と習近平の「新時代」という二つの「新」に中国を区分し、一党支配体制の維持と対米勝利を狙っている。「父を破滅に追いやった鄧小平を乗り越える」結果が付随するのが、内心の狙いでもあろう。
「新中国」を建設した毛沢東
1949年10月1日に毛沢東が天安門の楼上で「中華人民共和国」誕生の宣言をした時には「今天、中華人民共和国成立了!(今日、中華人民共和国が成立した!)」と表現した。
天地に鳴り響き、大地を揺らさんばかりの熱狂が全中国を包んだ。
人民は「中華人民共和国万歳!」とは叫ばなかった。叫んだのは、
  新中国万歳!
  毛主席万歳!
  中国共産党万歳!
  中国人民解放軍万歳!
である。
なぜなら、新しい国名に関して、「中華人民共和国」とするのか、それとも「中華人民民主共和国」にするか、はたまた「中華人民民主国」にする方がいいかなど、多種多様な意見が出ていたからである。
6月21日のコラム<中国共産党建党100周年にかける習近平――狙いは鄧小平の希薄化>にも書いたように、毛沢東は「新民主主義」を唱えていたので、建国当時は多党制で、現在の政治協商会議に相当するものが政府を構成していた。
それくらい「民主」にこだわったために、必ずしも「中華人民共和国」という国家の呼称が行き渡らず、誰もが「新中国」と熱狂的に叫んだ。私の頭の中にも「新中国」という「音」が浸み込んでいる。
別の角度から見れば、中国が言うところの「民主」が何を意味しているか、特に香港問題などに関しては、この「言葉の定義」に騙されてはいけない。
憲法に書き込んだ習近平の「新時代」
それはさておき、習近平は2017年10月に開催された第19回党大会で「習近平の新時代中国特色ある社会主義思想」を唱え、党規約に書き込んだだけでなく2018年3月に開催された全国人民代表大会で憲法改正を行い、憲法にも書き込んだ。
この「新時代」は「新中国」と「対」を成すもので、
毛沢東――新中国
習近平――新時代
と、中国という国家、あるいは中国共産党の歩みを「毛沢東と習近平」によって二つに分類するという考え方に基づく。
だから、上記のコラム<中国共産党建党100周年にかける習近平――狙いは鄧小平の希薄化>に書いたように、中国共産党歴史展覧館の第一部分と第二部分が毛沢東で、第四部分とこれからの「10年あまり?」は習近平によって描かれるという道筋になっている。
第三部分は「鄧小平+江沢民+胡錦涛」という、「習近平の新時代」が登場するまでの「過渡期的指導者」に過ぎないという位置づけになるのである。
何が「新時代」か?
何を以て「新時代」と称するのかというと、2010年以降にGDPが日本を抜き世界第二の経済大国になったことが大きい。
なぜなら、それまでは圧倒的な世界一の国家として君臨していたアメリカが、「もしかしたら中国に追いつかれ、追い抜かれるかもしれない」という時代に入ったからだ。
このことは中国にとっては1840年から始まったアヘン戦争などに代表される、長きにわたって先進列強諸国によって屈辱を受けていた中華民族の「偉大なる復興」へと一歩を踏み出すことができるようになったことを意味し、習近平政権は「中華民族の偉大なる復興」と「中国の夢」を国家スローガンとして歩み始めた。
すなわちアメリカと国力が拮抗する時代に入ったということだ。
それを可能ならしめたのは、1989年6月4日に起きた天安門事件に対する対中経済封鎖を解除させた日本だ。あのとき中国共産党による一党支配体制崩壊を日本が回避させてくれた。あの危機を回避できたということは、何れはアメリカと肩を並べる日が来ることを意味してもいた。習近平は、その時代に遭遇した。
そこで、2012年11月に中共中央総書記になった習近平は、中国を組み立て工場のプラットフォーム国家から抜け出させ、ハイテク国家に持っていくための「中国製造2025」を指示した。これこそはアメリカと中国の覇権争いが現実化していく最も大きな要素となっている。
習近平は経済においてアメリカにキャッチアップするだけでなく、「中国製造2025」により、半導体や宇宙開発あるいは軍民融合(軍のハイテク化)など、ハイテク世界における世界制覇を狙っており、これは世界史上、これまでにない「新しい時代」の覇権争いを米中間にもたらす結果を招いた。
中国は「新段階」=「新時代」に入ったのだ。
習近平の狙いを大きく分ければ、一つは「アメリカに追いつき追い越すこと」であり、もう一つは「中国共産党による一党支配体制の維持」である。
前者は「ツキディデスの罠」という言葉があるように、世界でトップにいた国家は、いつかはその二番手によってキャッチアップされ追い越されるかもしれないという運命から逃れることは出来ない。だから一位にいる国家は、必ず二番手として追い上げてくる国家を潰そうとする。
習近平にとってラッキーなのは、彼は正にこの時代に中国のトップ指導者の職位に就いていたことだろう。だから、どのようなことがあってもアメリカに潰されまいとさまざまな戦略を練ってきた。「一帯一路」構想などもその一つだ。
一方、アメリカが中国を潰そうとすればするほど、中国人民は一致団結して「中華民族の誇り」を守ろうとし、「中華民族の偉大な復興」を成し遂げてくれる中国共産党を擁護する。屈辱に満ちた中華民族の歴史を覆し、ここまで中国を発展させることができた党は中国共産党以外にないと、「言論の不自由」などに多少の不満を持っても、結局中国共産党を肯定しているのである。
毛沢東は中国の国民的英雄なのか。それとも、ヒトラーやスターリンと並ぶ、史上類を見ない人殺しなのか。毛沢東政権の実態を詳細に分析した著書を三部作で出版した歴史学者のフランク・ディケーターに仏誌「ロプス」記者が聞いた。


史上最悪の犯罪者はだれか

──フランク・ディケーターさん、ご近著三部作では、毛沢東政権の3つの重要な時期、「人民解放戦争」「大躍進政策」「文化大革命」を論じておられます。

どの時期にも恐ろしい殺戮がおこなわれていますね。毛沢東は、スターリン、いやヒトラーにも劣らなかったのではないかという印象を受けますが、いかがでしょうか。

名前の挙がった3人は人類史上最も恐るべき犯罪者たちですが、誰が一番かを決めるのは容易ではないでしょう。誰が最も非人間的か、誰が最も多くの殺人を犯したのか。


習近平の「暗殺未遂数」は歴代トップクラス

• 共有する
2019年09月22日 公開


中国の国家主席習近平。氏が暗殺未遂にあった数は、歴代指導者のなかでも最高クラス。
中国では最後に9のつく年は厄災の年だというが、今年その身になにかが起こっても不思議ではない。ジャーナリスト福島香織氏が著した『習近平の敗北』より、仰天の暗殺未遂の過去を紹介しよう。
※本稿は福島香織著『習近平の敗北』(ワニブックス刊)より一部抜粋・編集したものです

臆病だったからこそ命が救われている
習近平がその座を追われるとしたら。政変、クーデター以外に、最もありえそうなのは暗殺です。そんなゴルゴ13みたいな世界が本当にあるのか、といえば中国では比較的普通にあります。鄧小平は7回暗殺未遂にあったそうです。
胡錦涛は暗殺未遂に3度あいました。ですが習近平が暗殺未遂にあった数は、歴代指導者のなかでも最高クラスです。総書記になる前に2回。一期目の任期の5年間に10回。二期目に入ってからは2回あったようです。
一番最近の例では2018年10月22~25日の習近平の南方視察中にあったそうです。米国発の華字メディア・「博聞新聞網」がそのように報じていました。
この南方視察で本来予定されていた活動がキャンセルされたり変更されたりし、ずいぶん早くに北京に戻ってきたのですが、その理由について、習近平誘拐・暗殺計画が直前に発覚し、急遽予定やルートを変える必要性が出たからだというのです。博聞新聞網はこれを中南海筋から聞いた話としています。
この南方視察の最大イベントは香港、マカオ、珠海をつなげる世界一の港珠澳大橋の開通セレモニーでした。会場は本来、橋の上に設置される予定でしたが、これを急遽税関の建物のなかに変更しました。これは香港・マカオマフィアが習近平の暗殺を狙っていることが事前に察知されたからだというのです。
別の筋の話では、そういう暗殺計画が発覚したのではなく、臆病な習近平が急に暗殺が怖くなったために予定変更を言い出したとか。
香港やマカオは一応、一国二制度で警察システムが違いますし、"やばい仕事”を金で引き受けるマフィアや殺し屋はごろごろいる(と習近平は思い込んでいる)ので、不安に駆られてしまったのかもしれません。
香港マフィアはもともと江沢民・曾慶紅と関係が深いといわれていますし、習近平の南方視察直前にマカオ中聯弁主任の鄭暁松が飛び降り自殺するという不可解な事件も起きていました。習近平が不安になるのもわかります。
事件はクリスマスイブのトイレでも起きた
2017年のクリスマスイブにも習近平は暗殺未遂にあったといわれています。
習近平がイブの夜に突然腹痛になって北京の301軍事病院に運び込まれたという情報が流れました。病院に運び込まれたのは事実で、このときは神経性の下痢だったようで、治療を受けてすぐに帰ったそうです。
ですが習近平がなぜ急に下痢になったのか。このときにいくつか不可解な情報が流れました。
その日、人民大会堂の駐車場で車両が何者かに爆破されたそうです。その爆破された車は習近平の公用車から400メートルの距離にあり、習近平が車を降りて人民大会堂に入ってからかなり時間がたってからの出来事だったそうです。
ですがこの車両爆破事件の話を聞いて習近平は急に腹痛を訴えた。それは自分を狙った暗殺未遂だと思って怖くなったからだというのです。
ちょっとありえない話にも聞こえますが、中国共産党事情に詳しい友人は、もしフェイクニュースであれば、もっと緻密な暗殺計画を流布するのではないか。ものすごく杜撰な暗殺計画だからこそ信憑性がある、と言っていました。
それからしばらくして中央軍事委員会副主席の范長龍が一時期拘束されていました。このクリスマスイブの暗殺未遂事件に関わっていると疑われて取り調べを受けているとみられていました。
結局、范長龍は関わっていないと判断され、釈放されましたが、実行犯として軍人が処刑されたという話をあとで聞きました。こういう話はなかなかウラが取れませんので、どこまでが噓でどこまでが事実なのかはわかりません。
習近平の「暗殺未遂数」は歴代トップクラス

SP16人でも心配は拭えず22人に増強
2014年4月30日のウルムチ南駅での爆破テロ、2015年8月12日の天津大爆発の事件も習近平暗殺未遂だという人もいます。
少なくとも習近平が暗殺を恐れていることは事実で、2013年の三中全会以降、習近平は私服の警護用特別警察官(SP)を12人から16人に増員し、公用車を高性能防弾、防爆仕様にし、公の場に出るときは防弾チョッキを必ず着用し、外遊に行くときには予備の専用機と私服特別警察を増員配置するようにしました。2018年に入ってからはSP16人でも安心できないので22人に増やすようになったそうです。
2017年の香港返還20周年セレモニーに出席したときは、香港全警察の3分の1を自分の警備にあてるよう要請しました。2つのホテルを全室借り上げ、屋上にスナイパーを配置し、ヘリコプターで空中警戒を行い、防毒ガス・防弾の特注車両で移動するという警戒ぶりでした。
そのくらい警戒に警戒を重ねても、2019年の"敏感な年”は、おそらくはまだ安心できないのだろうと思います。

 

おおはしおおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.12更新

今日立腹していること

1)今日、過去に心筋梗塞をした患者さんがやって来た。その人の主張するのは、バイアスピリン錠(バイエル社が作る1錠5円70銭の薬)が欲しいのに、

私がアスピリンJK(日本ジェネッリック株式会社の作る1錠同じく5円70銭の薬)は困ると主張するのである。この患者の奥さんは、薬剤師であり、かつて、

耳鼻科の近くの調剤薬局の支店長であった。その調剤薬局に問いあわせたところ、バイアスピリンとアスピリンJKは、薬効、人体に及ぼす効果は全く同じであると、ある薬剤師が

証言してくれた。それでも、この患者は、バイアスピリンが欲しそうであったので、薬剤は同じでコーティングする物質が異なるくらいで、今や厚生労働省も主張しているように、

薬能に差がないのなら、ジェネリックを優先すべきである。これでわからないなら、診療所を変えてもらいたいのが本音である。私の次女も同じ調剤薬局に勤めるからである。

こんなことで意地を張る患者さんだから心筋梗塞になって当然であるし、その奥様と私の次女が同じ調剤薬局に勤める薬剤師であるから、余計に腹が立つのである。

 

2)ついに今、世界中が苦しんでいるコロナウィルス(最初は武漢型)が2年以上前に、中華人民共和国で、ウィルス武器として研究されていたことがわかったのである。中国の市場から発症したと言うが、こうもりであり得なく、ウィルス学者によると、人為的にスパイクを刻まれたウィルスが全世界にばらまかれたようである。経済的、あるいは大勢の死者を出すに至った、このウィルスに中国が愚かにも生ワクチン(本来のコロナワクチンの毒性を弱めた、無効な悪質なワクチン)を、政治の道具に使っているのである。全く効果が粗悪で安全性がないが、東南アジア、中近東、アフリカ、中南米に配っているのでる。しかも、その国の富裕層に配って、いかにも世界を助けているように政治的芝居をし、世界を苦しめているのである。我々、日本、USA,英国、フランス、ドイツなどの民主的な優秀な国はメッセンジャーRNAワクチンを使いその効果は、2回接種すれば、90%以上の抗体保有率が実現できる。今、中国が世界制覇をウィルスなどまで使って成し遂げようとしているが、困ったことは台湾問題である。台湾は中国が、明日にも侵略しそうな国である。その国へ日本は、メッセンジャーRNAワクチンを大量に送り、USAをはじめ民主国(選挙がきちんとされている国で、独裁者が人道的、非人道的行為をしても許される国ではない)は喜んでくれた。台湾は中国から危険なワクチンを強制されたが、断ったのである。台湾の民主国は世界中で守ってあげねばいけないし、二度と香港、新疆ウィグル自治区の悲劇を作ってはいけない。おおはしおおはしおおはし中国の軍事力にのみ、偏った危険な自国膨張政策は、やめさせねばいけない。

3)今日の昼に、ミから始まるでたらめなワイドショーで、信じられない医師が出てきて、国民全員がイベルメクチンを内服すべきであると主張するのである。イベルメクチンは抗寄生虫薬であり

かつて大勢の団体から質問を受けた私は、いくら勉強してもイベルメクチンの新型コロナに対する有効性は何もなく、大垣医師会、岐阜県医師会にも賛同を得ている。今日のワイドショーの司会者は

以前にもイソジンガーグルがコロナに効くとデマを無くし、薬局からうがい薬が無くなってしまった。ビゾルボンも効果があると言いだし、これも嘘である。この番組は司会者、出てくる医師、評論家がでたらめな番組であり、早く中止すべきである。

投稿者: 大橋医院

2021.08.12更新

ツムラ麻喬よく甘湯:関節痛、神経痛、筋肉痛、

(体力の衰え気味の人,胃腸の弱い人、発汗傾向の著しい方、)

「不眠、頻脈、動悸、全身倦怠感、排尿障害」

通常,7.5grを2-3回に分けて、食前、または食間に内服する。おおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.12更新

リベルサス3㎎:一日一錠で、又はすーぐら50mg一錠で、

”貴女はスマートになれます”おおはしおおはしおおはし

投稿者: 大橋医院

2021.08.12更新

子どもに野菜や果物をしっかり食べさせたかったら、食事にかける時間を増やすと良いかもしれない。昼食時の着席時間を10分増やしたところ、野菜と果物の摂取量が有意に増えたとの研究結果が報告された。詳細は「JAMA Network Open」に6月22日掲載された。

 この研究は、米イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で行われたサマーキャンプに参加した小中学生を対象に実施された。論文の上席著者である同大学のMelissa Pflugh Prescott氏は、「子どもたちは食事の最初に、まず楽しみにしている料理を食べ、時間が余ったらほかの料理を食べる。しかし、時間がなければ好きな物以外はあまり手をつけない。残されるのは、たいてい野菜や果物だ」と話す。

 Prescott氏らは、2019年のサマーキャンプに参加した38人の子ども(平均年齢11.86±1.23歳、女児が61%)に対して20日間にわたり計241回、学校給食プログラムの栄養基準に準拠して調理された昼食を提供。着席時間を無作為に10分または20分に設定し、摂取量の違いの有無を検討した。

 その結果、着席時間が10分の時は20分の時に比べて、野菜〔-14.1%(95%信頼区間-22.7~-5.7)〕と果物〔-11.3%(同-18.1~-4.5)〕の摂取量が有意に少なかった。前菜とメインディッシュ(タンパク質と穀物)および飲み物(牛乳と水)については、条件間の有意差がなかった。

 摂取エネルギー量も10分の時は20分の時に比べて-22.03kcal(同-39.47~-4.61)であり有意に少なかった。さらに栄養素別に見ても、炭水化物-3.81g(同-6.20~-1.42)、食物繊維-0.51 g(同-0.81~-0.19)、タンパク質-1.11g(同-2.17~-0.04)と、着席時間が10分の時には有意に少なかった。その一方で、脂質は-0.36g(同-0.89~0.17)であり有意差がなかった。

 微量栄養素に関しては、評価した項目のうちビタミンDとカルシウムには有意差がなかったが、鉄〔-0.20mg(同-0.38~-0.02)〕とカリウム〔-53.49mg(同-84.67~-22.32)〕の摂取量は、着席時間が10分の時の方が有意に少なかった。

 Prescott氏によると、子どもたちの昼食時の着席時間が10分しかないという実態は、かなり一般的なことだという。「給食では列に並んで自分の食事を受け取る順番を待たなければならない。また、給食の時間は食後の休憩時間と連続している。子どもたちが実際に食事にあてる時間は、大人が考えているよりもはるかに短い」と同氏は語っている。

 米国では子どもの健康状態を改善するために、2010年に学校給食の栄養要件が強化された。Prescott氏は今回の研究から、このような連邦政府の取り組みを後押しするデータが得られたとしている。同氏は、「学校給食改善プログラムについて最も評価すべき点の1つは、世帯収入の多寡にかかわらず全ての子どもたちが、家庭ではあまり食べられないようなさまざまな食品を、学校で食べられるようにしたことだ。しかし、給食の時間が短いがために、子どもたちがそれらの食品を食べる機会を失っているとすれば、プログラムが成功したとは言えない」と述べている。おおはし

投稿者: 大橋医院

前へ 前へ

SEARCH

ARCHIVE

CATEGORY

院長の為になるブログ お問い合わせ Facebook Facebook
doctorsfile