2019.12.18更新

<教授回診>   大橋信昭
昭和54年3月31日に、私は、某公立大学医学部を卒業した。そして同大学医学部第3内科に同年5月に入局した。身分は研修医、医師国家試験の勉強に医学部の6年目に、1年間近く必死であった。医師国家試験は合格したのだから、医学的知識は少々、持っているが、注射一本打ったことがないのである。
不安いっぱいで、今日から仕事と言う早朝、教授に挨拶に行った。すると信じられないことに、講義中、入局勧誘中は笑顔しか見せなかった教授が、「今日から、君はプロの医師として働くのだ!君の発言、あるいは書面により、どれだけのCo-medicalの人が働くか、患者さんが天国から地獄の心境を行ったり来たりする、君の押す印鑑がいかに大切な書類となるか、この大学病院の研修医時代にしっかり学習するのだ。いい加減な仕事は許さんぞ!」、教授の顔は鬼そのものであった。ショックを受けた私は、重い足取りで医局の割り与えられた大橋という名札のあるロッカーを開け、白衣を着替えていると、後で君の医局長は変人だからと、外科の先輩に言われたが、「お前、何をやっとる!もう研修医が集まっとるがや、早う来んか!」又叱られ、会議室で同級生がワイシャツ、ネクタイを閉めて、神妙な顔をしていた。つまり、徒弟制度と言っていい、医学の世界は、私たち研修医1年目は、Freshman、と言われたり、ドイツ語が伝統的に残っており、Untenと言われた。そして3年目から5年目の中堅所の先輩をMitten,
そして10年以上のキャリアのある上司をObenといった。もうどの研修医もObenは決まっていた。私も決まっていたObenと24時間近く行動を共にすることになる。Obenは、ペーパー医師の私に、基本的な患者さんの診察の仕方を指導して下さり,外来、担当となる病棟へ私を紹介した。そしてそっと、彼は私に耳打ちをした。「外来も病棟も、まずは婦長に挨拶をして、次は主任、君は若いから、若くて、きれいな看護師と私語を交わしたいだろうが、それは、一番最後にしなさい!」
かなり回り道をしているが、本題は「教授回診」である。私は昭和54年卒業であるが、そのころの教授は大変な権力者であった。人事権、結婚式の仲人は教授に決まっており、当時は認定医、専門医というものはなく、誰でも、少しの例外を除いて欲しがるのは“医学博士”であり、これを名刺の名前のそばに医学博士と印刷をしてよいと許可するのは教授であった。このために、教授の奴隷になるのである。院内放送で「循環器内科のOO先生、至急、第3内科の教授室へ、お越しください」流れたら、地獄の煮えた熱湯で煮えたぎる窯に突き落された心境になる。そんな教授が一周間に一度、病棟患者を回診する。主治医はどの患者も研修医が担当しており、Mitten,Obenの指導、チェックは前もってあるが、結局は教授と研修医とのDiscussion、いや討論、いやいや教授の矢のような鋭い質問に速やかに答えられるか、カルテが患者の医学的所見が正確に、見逃しなく記載されているかチェックされる。当たり前だが教授も人間である。ここ一週間の不機嫌さや、前日から当日の朝の感情の悪化は回診に、研修医に八つ当たりされることが多い。教授回診では、教授自ら、病棟患者を丁寧に診察し、カルテのデータも詳細に吟味し、研修医が正しく判断し治療へ至っているかを観察するのである。私などほかの研修医に比べ、不勉強で暇さえあれば司馬遼太郎、山岡荘八、吉川英治などの歴史書か松本清張のミステリー小説ばかり読むひけっているものだから、そんな暇があれば、欧米の最新医学的論文をたくさん読まなくてはいけないのである。だから教授に私の不勉強さがすぐにばれてしまうわけである。教授は私のカルテの不十分さに顔色から、血の気が引き、青くなり大きな罵声を挙げた。患者さんには教授に「教授先生、私はいつもこの先生に大変お世話になっています。そんなに彼を叱らないでください」と言ってくれる患者さんもいた。しかし、教授は「これは、大橋君が立派な医者になるために教育しているのだ。口出しは無用」と患者にさえ反論した。病棟の隅々まで教授回診は続き、病棟婦長、主任もついている。教授を先頭に、医局員全員が金魚の糞みたいについていくのである。中にはもう慣れた先輩は姿を消している。一度、病棟の地下にある喫茶店で、教授回診中に、週刊誌を読みながらコーヒーを飲んでいる先輩を見たことがある。私は先輩に「教授回診は終わっていませんよ」と注意したが、「あんなもの、いつまでも付き合っておられるか!」と逆切れをされた。しかし、私を含めた研修医達は教授回診がやっと終わった後、医局会があり、今週の新入院患者さんについて、詳しく説明せねばならない。教授回診を脱出して喫茶店でお茶を飲むには何年もの修行がいる。少しずつ教授回診が進み、やっと終わると、やがて医局長と教授は教授室へ消えていく。しかし、忘れらえない事件があった。私の後輩が一周間カルテに何の記載もないのが教授の目に留まった。真っ青から蒼白になった教授は「医局長!廊下に出なさい」と、」殆どの医局員も廊下へ出た。「このOO医師は、今日中に教授室へつれて来なさい!一週間も患者をほったらかしにしている輩はAren!t you a Doctor?と言ってやりたい」と大声をわめき散らかした。私はその雄叫びの迫力に縮みあがった。やっと寝床から出たようなその後輩を私達研修医は目敏く見つけ、「今日は病気で休んでいるということにしよう。何!時間が解決してくれるだろう」うなだれて後輩は帰っていった。医局会がすぐにあり、研修医の新患紹介と症例提示から勉強会とスケジュールはぎっしりあり太陽は西にとっくに沈んでいた。その後各研究グループに分かれ、最新欧米論文の勉強もあり、いつ教授が乱入するかわからないから、将来にも為になりそうだから皆熱心であった。
しかし、私には大切な役があった。教授が御帰宅されたかどうか駐車場をチェックするのである。「教授は帰られたようです」と医局長に報告すると、当時たいへん貴重なヨーロッパから手にした男女の営みについて無修正のフィルムを回す段取りは出来ていた。8ミリが回りだしたら、帰ったはずの教授が医局の扉を開けた。医局長は賢かった。バチンとスイッチを切り、「貴様ら、全員病棟へ患者を見に行け!」貴重な8ミリは行方不明。教授も狐に騙されたような顔をしていた。
私も開業して31年、医師として41年以上に成るが,5年前に、闘病中の教授が亡くなられたことを知らされた。慌てて、午後の診察も投出し、永眠している教授に手を合わせた。患者を診察する厳しい姿勢とは,病歴のとり方、臨床医のあり方、いつでも一人ひとり、丁寧に診察する姿勢は私に焼き付いており、今の診療所の院長となっても、多大な影響、教育を受けた。今の私の診療の基礎になっている。ありがとう!教授先生へ!おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.16更新

丹下左膳の登場[編集]

林不忘

林不忘『新版大岡政談』
林不忘の小説で丹下左膳が登場したのは、1927年に『東京日々新聞』『大阪毎日新聞』夕刊で、10月15日から翌年5月31日に「新講談」と銘打って連載された「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」だった。当初作者は大岡越前ものの連作長編を意図して書き始め、奥州中村6万石・相馬大膳亮の刀剣蒐集癖のために、夜泣きの刀の異名を持つ関の孫六の名刀、乾雲丸・坤竜丸という大小一対の刀を手に入れるために密命により江戸に潜入する家臣が丹下左膳であり、大岡越前の他、この争奪戦に加わった旗本鈴川源十郎、美剣士諏訪栄三郎、怪剣豪蒲生泰軒などとともに一登場人物に過ぎなかった。しかし二刀の持ち主である神変夢想流小野塚鉄斎道場への乱入を始めとして、次々と殺戮を繰り返すニヒルで個性的な人物像、右目と右腕のない異様な姿の侍という設定と、小田富弥の描いた挿絵の魅力によって人気は急上昇した。黒襟の白の着流しというスタイルは小田が創案し、不忘もこれを小説に取り入れた。 おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.12更新

<司馬遼太郎>:日本人は、如何してこんなバカになってしまったのか! 日露戦争の勝利と悲痛を挙げて、日比谷公会堂に集まった、大衆,軍人、政治家たちである。

こんな日本の小国が、地球の大半を支配しているロシアと戦争するなんて、世界もびっくり、確かに旅順陥落、日本海海戦、コザック騎兵隊の活躍、これらは勝っている。

しかし、そこまでである。もう日本には兵隊も、鉄砲の玉も、お金も何もなかった。あれ以上戦争を続行したら日本は壊滅したはずである。アメリカ合衆国の仲介により

戦争は終結したのだから喜ばなけれいけない。それを領土をよこせ、お金をよこせと主張した人達、あのころから日本人は自分の国が見えなくなった。大東亜戦争の悲惨な終結になってしまった。

今、バブル経済で浮かれてしまっている日本人は、あの頃に似ている、日本はどういう国か、日本人はどういう民族なのか考えねばならない。

<湯川秀樹>:大多数の人が認めた、真理はもう突っ込んでも仕方がない。私は少数派が迷っている研究に没頭したい。彼は、もう決定された多くの物理の理論の誤りを見つけ、地道に誰も考えなかった

中間子を発見した。奥様の後押しでやっと論文化した。最初は世界で軽視されたが、宇宙船での研究者が中間子を認めたため、彼は医薬有名な人になった。寡黙で変人で偉人である。

<川端康成>どうも、私は怠け者で、ぼつぼつ書いていた日本の写実が外国語で翻訳されて、課題解釈され、ノーベル賞などいただきましたが、私は道半ばで、まだまだ仕事が残っているんですよ。

<松下幸之助>:会社の社長は、部下を叱ってはいけない。失敗した部下を怒ったら彼はつぶれてしまう。大きい失敗ほど社長の責任である。徹底的にその原因を会社全体で平和的に解決せねばいけない。そうでないと、会社は発展しない。私と会社員は一人ひとり平等なのである。

<柳谷小さん>師匠に落語をけいこをつけてもらったことは少なかったですな。しかし、最後まで寄席に残っていました。そこで諸先輩の芸を盗むのです。これが積み重なって、私独自の落語ができた。

落語が好きで仕方がない。諸先輩には嫌われていました。

<岡本太郎>:私はフランスに留学して、ピカソの絵を見たとき、帰り、バスの一番最後列に座りまして、涙であふれる私を抑えれなかったのです。抽象芸術都は言えませんが、私の進むべき道は決まりました。大阪万博の太陽の塔も、無理を通しまして、地下,一階、屋上に突き抜ける作品だったなのです。芸術は爆発ですよ。

その他:田河水泡、遠藤周作、東山魁夷、榎本健一、竹内均、横山隆一、土光敏夫、池田増尾夫、古今亭芯ん生、寺山修司、井深大、宗像志功、松本清張、ジャイアント番場、三島由紀夫、

高柳健次郎、佐治敬三、上村直紀が登場してきます。どの方も感動話ですので、NHKのDVDをお買いください。おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.09更新

<渋野日向子解釈―大橋信昭式 内科医>
渋野日向子は、21年前に、国体も出たことのある投擲の選手のお父さん、がっちりして二枚目、お母さんは陸上選手で今は華奢だがご結婚のころは、かわいかったに違いない。熱愛の末、渋野日向子は3人娘の次女賭して生まれた。アスリートとしてはサラブレットである。7歳からゴルフをはじめ、ソフトボールもAceで4番、ピッチャー、右投げの左打、ゴルフが右打ちだから筋肉が変位しないようにお母さんお配慮である。運動神経は抜群で、ソフトボールも男子チームでプレイし、腕相撲で彼女にかなわない男子のみであった。中学に入り高校に入り、ゴルフの素質はメキメキ才能を発揮し、岡山県、全国にその名は轟いた。
彼女は高校3年生になり、プロゴルファーでやっていけるか悩んでいた時に、高校の監督が、「君がプロにならなければ誰が成るんだ!」と檄が入った。しかし、非常にもプロテストは不合格であった。彼女は泣きまくった。お母さんが「あんたはお世辞にも美人とは言えないのだからいつも笑っていなさい。貴方は笑顔が一番素敵なのですよ。」次の年までの彼女の苦悩は、私は知らない。なんでも青木翔コーチに、クラブの握り方、構、基本を徹底的に習った。素直な彼女は実力がメキメキ向上した。中でもアプローチはサンドウェッジ、ピッチングウェッジが何本も使えなくなるまで反復委練習した。Patto is money!であることは明らかで、彼女は、9個のボールを、30cm、60cm、90cm、120cm、200cm、、、、、9メーターと9つのボールを円形状にグリーンのカップの周りに置き、9個全部入るまで、3時間も4時間も練習した。とっくに日が暮れていた。これらの継続は力なりの練習が実り、次の年のプロテストは合格した。無名の彼女が、メージャーのプロ競技の覇者になるのに時間はかからなかった。今までの努力が実ったのだろう。そして間もまなく、2勝目を挙げた。ここで全英オープン行きが決まった。彼女は当然喜んだが、有償など考えておらず、まだ見ぬイギリスへの旅行、練習に行くつもりであった。しかし、勝利の女神が彼女にくっついたのか、世界の強豪選手におじけないで、堂々とプレイし、予選は軽く突破し、3戦目では彼女を含めて誰が優勝するか、わからない混戦であった。
最終日、彼女は最初のホールで4パットをやった。これで彼女は優勝は番外かとおもったら、それからがバーディーの猛ダッシュであった。特に後半のぎりぎりでワンオンするミドルホールをワンオンし、楽にバーディーを取った。世界中は、無名の日本人選手に驚いた。緊張感は全くなく、Tv撮影に笑いかけ、お菓子や、おにぎりを遠慮なしに食べていた。18番の最終ホールのグリーン待ちも笑いながら、お菓子を食べていた。お菓子の商品名が「たらたらしてんじぇねーよ」十いうものであった。18番の入れれば優勝というパットも笑顔で下りのラインをガツンと入れた。解説者もアナウンサーも信じられない、女子ゴルフ会長も、世界中が驚いた。41年ぶりの全英オープン優勝である!彼女は昨年、プロテストを憂かったばかりだ。競技場は驚きと割れんばかりの拍手と、やがてみんなが感動した。彼女の偉いのは,たまらない笑顔とファンサービス、特に子供には、握手とサインは惜しみなくやっていた。マスコミンの群がる取材も嫌がらずに、淡々と飾らずに答えていた。全く自分を飾らずに21歳の女の子そのものであった。日本へ帰国したら、想像を絶する大歓迎、スピーチの山、表彰の山、しかし,彼女は早く岡山へ帰り、お父さんと話をしたいし、まずお母さんが作るご飯をたべたかった。子供のころ通った練習場、駄菓子屋さんのおばあさんに逢えるのが楽しみであった。しかし、人気のプロ選手、まだまだ試合は残っていた。
全英の覇者のプレッシャーからかなり苦しんだが、一か月後国試合3勝目を挙げた。こんどは賞金女王とオリンピック出場のプレッシャーがが彼女をくるしめたが、屈辱の予選落ちの次の週に、超驚き、優勝した。最期の試合は、賞金女王はどう計算しても無理であったが、最終戦を2位で終えた。恐るべき選手である。ゴルフは苦しいスポーツで、特に最終戦の15番ホールから18番の最後のカップインまで油断はできないが、渋野日向子は、ここで恐ろしい力を発揮する。女性らしいし、本当に世界を幸せにするえがおであるし、末永く活躍する選手であってほしい。もう何年も渋子、渋子、で盛り上がってもらいたい。大垣で診療所を開いている私だが、こんなに一アスリートに夢中になったのは初めてである。(完)おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.08更新

大橋信昭です。

本日は親戚の法事がありまして、行事の主は大変ですね。ろうそくは赤い蝋燭で、三角の布が出てないとか、それも大と小がありまして、

鶴にカメに電気の向き、いろいろ難解でした。私はゲストで気楽でしたが、今日は午後11時より5チャンネルの情熱の大陸で渋野日向子の苦労を鑑賞せねばなりません。

ところで今、DVDで「時間ですよ」1971年と古いおおはし番組を見ていますが、森光子、堺正章、樹木希林、松谷栄太郎、船越英二もよろしいが、ここで強調しますが

この番組は、松原智恵子の美しさ、色っぽさから成り立っています。時々、女湯を番組が覗きますが、松原智恵子のあでやかで控えめで、この女優がいなくては夢中になれません。

明日は忙しいのに、日曜日の支離滅裂なブログをお許しください。

投稿者: 大橋医院

2019.12.06更新

私は、昔から、短歌を作るのが好きでして、しかし、タンカーに乗ってはいけません。

俳句も多少やりますが、この前作ったのに、「古池や、かわず飛びこぶ、水の音」という句がございます。

しかし、偶然にも江戸時代に、これを盗作した俳人がいるんですね。なんでも松尾芭蕉という人です。けしからんです。おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.05更新

昔は銀行からお金を引き出すには、通帳と印鑑が必要でしたが、最近はピストルかナイフが必用なんです。おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.05更新

八さん「おーい、熊さん、課長のところに男の子が生まれたってよ!」

熊さん「あーそう」

八さん「そうじゃないよ、お前はね、いつも課長に叱られてばかりいるから、この機会をのがさないようにね!」

熊さん「何をすればいいの?」

八さん「課長のところにやっと男の子が生まれたんだ。大事な跡取り息子だ!思いっきりほめ殺して、熊さんの点数を挙げてもらうんだ」

熊さん「どうすりゃ点数が上がるのか?」

八さん「私の言う通り、言うんだ、この度は、大切な男の子が生まれて、さぞ課長さんもお喜びでしょう。課長さんにそっくりで、玉のような子ですね。

    すくすくとお育ちで、きっと将来は日本をしょって立つ立派な日本男児におなりでしょう、とともかく、その男の子をほめるんだよ!わかったな!」

熊さん「わかったよ、課長の家は、確か後楽園の焼鳥屋の東の豪邸だったな、じゃ行ってくるよ」

熊さんにしては、懐が痛む贈り物を買っていきまして、課長の門前に立ちまして、「もしもし、課長さんですか?」

課長「なんだ、大きな声を出して、熊さんじゃないか?何の用だ?マー上がんなさい」

熊さん「このたびは、立派な男の子が生まれて、さぞかし、課長さんもお喜びでしょう!」

課長さん「男の子といっても、犬だがね!」

熊さん「課長さんにそっくりで、玉のような犬ですね。すくすくとお育ちで、課長の立派な後継車になるでしょうね、これ男のお子さん用のおもちゃですが、お喜びになると思います。

    これで日本の将来も安泰です。」

課長さん「君はいつも犬の男の子の評価が難解だね!」

相変わらず、うだつの上がらない熊さんでした。おおはし

 

 

投稿者: 大橋医院

2019.12.04更新

キリスト:キリストに物を訪ねりゃ、イエスかな!おおはし

投稿者: 大橋医院

2019.12.02更新

1964年東京オリンピックのドキュメンタリー映画をDVDで購入しております。

素晴らしい大会でした。来年も負けない大会でありますように!おおはし

投稿者: 大橋医院