<父と私の昭和任侠伝> 大橋信昭
1) 父は決して、暴力団員ではない。れっきとした一般市民である。
石油販売業として、毎日、汗水流して働いていた。子どもの私には理解できないが、岐阜のXX暴力団の組長、yyの組長ととても仲が良かった。常識で、yy市民は組長だけは避けて通る。ところが、組長の子供が保育園に2人とも入る年ごろになった。どこの保育園、幼稚園も拒否したが、父が厚いジャンバーでサングラスを訪問した保育園は入学許可が下り、新入生である。どうしてそんなことになるのか、組長は多大な感謝であった。この子たちが、将来OO中学で番長になり、その中学は大変困った。廊下を自転車で走りまくり、屋上で煙草をふかし、注意した先生の車は、傷だらけで修理不能であった。
怖い組員に保護された子供は、授業妨害の天才であった。
2)昭和20年代から30年代後半までは、暴力団員は、肩やら腕やら入れ墨だらけで、コツコツ商売をしている、店主に因縁を付けた。みんな、父に助けを求めた。あっという間に解決である。平和な市民生活が、一般市民に戻った。どういう技術か、暴力か平和が訪れた。
3)ある日曜日、父は事務所に隠れていたが、まともに入れ墨入りの男と指が2本無い輩がガソリン泥棒に、父の店に侵入した。父は猛烈なスピードで、盗賊の首を絞め、事務所に入れ、殴る、蹴るで、この二人は死ぬかも知れなかった。母はyy事務所の家来であることを知っているらしく、親分、組員が連れ戻しに来た。父は「もっと、焼きを入れてやれ!」恐怖の叫び声をあげた。これ以上の暴力はいけない。
ある日、父はぶらりと、暴力団事務所を訪れ、子分衆がいっぱいる中、「組長、お前、かたぎになれ、命懸けで働き、一般市民の苦労も理解しろ!」といって、無傷で帰宅した。普通の市民ではできない。
3)父は許可を持っているのだろうが、いつも日本刀を磨き、振り回し、畳に突き刺したい、元の刀の鞘に入れ、上機嫌であった。鉄砲撃ちも趣味であり、町内を子分にして、よく山奥に行き、猟をした。鉄砲で、ウサギ、野鳥、猪、特に雉をしとめるのがうまく、剝製にした。
私が嫌だったのは、まだ生きている半殺しの獣を、完全に目の前であの世に行かせた。かわいそうであった。父の許せない趣味に、家の中でネズミを鉄砲でまともに打ち殺すことである。ねずみの肉片はバラバラである。
4)父は町内の人たちと、ボーリングクラブ、釣りクラブ、野球チームで遊んだ.私が許せないのは、ネズミを捕まえて水死させ、超高級菓子屋の箱の中にいれ、丁寧に包装し、道端にばらまき、一般市民の動きを観察することであった。中はねずみの死骸とも知らずに、交番に届ける人や、おいしいものを拾ったと我が家へ持って帰る人に分かれることであった。父は、この結果を楽しみにしていた。私は許せぬ悪趣味だと思った。
5)おじさん(父の弟)が、祖母が死んだのに葬式も上げないのか?墓場の場所をかってに変えやがった。この件で、自宅で殴り合いになったが、おじさんはかなり痛いパンチをうけ、ノックアウトされ、しょんぼり帰った。父は、弟に許しもえずに、息子が医師であることも考え、大学病院に祖母の献体をしたのである。医学生は勉強になったと思う。冬には、合同葬儀をして、厚生労働省からお礼の症状もいただいている。私も僕で2遺体、解剖をして、将来医師になった時、本当に役に立っている。
6)私は中学に入り、野球部に入り、かなりの長打者バッターで打順5番、よく勝利へ導くヒットを打ったが、やはり医学部志望が強く、やる気がなくなり、打順も6番、7番、8番、ついに補欠となった。そんなときにこそ、父はバックネット裏で私を睨んでいた。その後の活躍もなく、父は野球場には来なくなった。
7)私が医学部に合格した時、おめでとうも、うれしそうな顔もしなかった父は,近所、親戚,友人にはくどい自慢をしていた。
8)時はながれ、私も医師として経験を積み、故郷で診療所を父と開業した時、父は診療所の5階の天上に上り、ここは、私と息子の城である。大声で叫んだ。
9)父が64歳になった時、極端に元気がなくなり、食欲もなく、私は思わず自分の診療所で、胃の検査をしたが、スキルスであった。余命6か月と思った。床に伏した父から、これからの父なき、私独り立ちの人生の遺言を2時間は聞いた。私の予言通り、11月29日に父は昇天した。魂がそっと抜け、急に父は、何か抜け殻になったみたいだ。
10)父よ、ありがとう、厳しい教えのもとに、殴られ、蹴飛ばされ、曲がったことは許さぬ姿勢は厳格であった。父のおかげで、今も一生懸命、開業医として頑張っているよ。これからも命ある限り医学に一直線、本当のいい医者を目指すよ!