大橋院長の為になるブログ

2023.11.17更新

どこまで信じてよいのか、無き母の物語>
      大橋医院 院長 大橋信昭
 私は、ここまで大切に育ててくれた母(5年前に他界した)の思い出について、いくつか書いておきたいと思う。これを読んで、天国にいるだろう母が立腹して、
化けて出てきたらとても怖い。
(1) 茂ちゃん:僕が中学のころ、茂ちゃんという脊椎カリエスで、脊椎の顕著に変形した18歳ぐらいの男性を、長崎から、わざわざガソリンスタンドの店員として母は、強引に寮に住まわせ、労働させた。母はよく私に茂ちゃんと、母の実家との関係を説明した。戦後の混乱期に、橋の下に捨てられ、かわいそうに泣きじゃくる、幼児を放置してはいけないと思い、抱き上げて、いつも御願いに伺っている神主さんの所へ連れて行った。神主さんが言うには「この子は、あなたの家の宝物です。大切に育てなさい!」との御言葉をいただいた。実家は、神主さんの言う通り、大切に育てた。実家が茂ちゃんを育てたことで栄えたか、不明であるが、茂ちゃんが20歳を過ぎたころ、母は大垣に強制連行した。店員として奴隷扱いした。精一杯働いた彼は,3年後夜逃げして、長崎に戻った。5年後、長崎に遊びに行った私は、茂ちゃんは、いとこであり、血のつながった大切な血縁者であった。どこから、橋の下で、泣いている茂ちゃんを、抱きかかえ育てたか、この話は、大嘘である。俗言葉で“せむし男”が身内にいるのを、母は僕に知られたくなかったのである。ばかげている!僕は母の美談として何度も聞かされた。
(2) 学歴疑惑:母は元薬剤師であったそうだ。病院で忙しく働いている時、病気でもなさそうな父が、母の周りをうろつき、今でいうストーカーなのか、大恋愛のきっかけになったそうである。この話が出ると、将来は医師になりなさいという、くどい説経が始まる。説教はどうでもいいが、母の薬剤師の免許証は一度も見たことがない。単なる女子学生ではないことを、僕に強調したかったのかもしれない。母への僕の学歴疑惑がおきた。
(3) 父は,大垣市ではやくざと付き合い、警察に寝ているところを3度も刑務者に連行され、両親から勘当され、流れながれ、長崎市にたどり着いた。そこで、博打で一儲けし、20歳を過ぎたばかりで、庭付きの一戸建ての日本家屋に住んでいた。母と恋愛関係に堕ちた。母はある早朝の急行で、父と駆け落ちした。結婚式は挙げていない。何故かその時は、私はその電車に乗っているのである。戸籍謄本からして間違いがない。物心ついたころ、僕は父と母が大げんかをして、母の左指にはめていた結婚指輪(?)を、父は水門川に捨てた。母の話からすると、私はどうして長崎に生まれたのか、大垣市で、その後人生を送ったのか、父は本当に日本家屋を建てたのか、母の話では,全く疑わしい。
(4) 僕は子供のころから、読書が好きで、暇があれば、本を読みふけっていた。あまりにも読書がひどすぎ、学校の勉強が疎かになった。母は下がった通知表を見て激怒し、僕の髪をつかみ、よく借りてくる近所の貸本屋の経営者に、昨日、借りたばかりの本を、店の本棚に投げ捨て、「この子には本を貸さないで!」と恫喝した。貸本屋のおばさんはびっくりしていた。しかし、母が勉強に読書は有害であると主張するが、エロ本ではなくれっきとした世界純文学全集がほとんどであった。僕は隠れて、ドストエフスキーや、夏目漱石、芥川龍之介など、こっそり乱読を続行した。
(5) 僕も人並みに、成長と共に、男性ホルモンが旺盛になり、書くことができない男性兆候が出現した。母は、僕の恋愛を極度に嫌い、禁止した。しかし、好きな異性が何度となく、現れ、デートをするたびに失恋を繰り返した。母は恋愛結婚である。矛盾だらけ!
(6) 僕のお菓子屋さんへ行く毎日のおこづかいは10円であり、当時サラリーマンの給料は一万円をわずかに超すぐらいであった。僕を名古屋の松坂屋に強制連行した。女性特有の長いウィンドーショッピングであった。僕は、本を買ってくれなければ付き合わないといった。禁止された文学本は最後に勝ってくれる約束であった。しかし、どうしたのか、5階の女性もの売り家に、今ではいくらに相当するのか、計算できないが、一万円札が、落ちていたのである。母は直ぐに、靴で一万円札を踏み、周囲に注意をしながら、自分のハンドバックに入れた。落し物は届け出をする気は全くない。やがて、松坂屋に放送がかかった。“只今、一万円を落とされたお客様がお見えになっていますが、心当たりのある方はご連絡ください”母は全く無視をして、僕が逆に彼女を睨みつけたら、その一万円から顕微鏡を買ってくれた。
(7) 母も年を取り、70歳代になったばかりに、交通事故をした。前を自転車でよろめくお爺さんをひき殺した。警察沙汰になった。夜遅く帰宅した母は、「とても、優しい刑事さんで助かった。明日、お通夜にはいくようにと注意されただけだ。」といった。人を自動車で跳ね飛ばし、死に追いやったのに、まったく反省がない。翌日のお通夜帰りに「大勢の親戚に人殺しと怒鳴られちゃった。」笑顔さえ浮かび、僕は複雑な言葉にならない心境になった。
(8) 母は変形性膝関節症で晩年、苦しんでいた。大垣中の整形外科、接骨院に通った。それだけのことで、極めて時間をかけて、厚化粧をし、高価なドレスを、接骨院を変えるたびに、たっぷり時間をかけて変身した。僕はどこかのパーティーかお花の先生(池坊教授)としての変身かと思っていた。
(9) 母は長崎のまともな被爆者であり、僕も被爆者2世である。母の厳しい教育は、骨身に来ることが多かった。僕は、母の言う通り、生きてきた。クラス委員に選ばれるような人間になれ!岐阜高校に行け‼医学部に行け!国家試験は絶対に合格しろ!医者になっただけだはだめだ!医学博士もとりなさい!郷里に帰り、開業しなさい。お嫁さんは私が決めてあげる、恋愛結婚禁止、お見合いの連続、12人目の今の家内には、母は強く推薦した。その理由として、手が荒れている、よく働くいい嫁になると強く主張した。私も気に入り、今も12番目のお見合い相手と夫婦間家にある。
(10) <結論>:母の言う通り人生を歩めば問題なし!!(完)


投稿者: 大橋医院

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