大橋院長の為になるブログ

2022.07.20更新

1979年(昭和54年)4月初旬に受けた、医師国家試験の合格が5月26日に発表された。早速、教授室集合である。

「君達は、これで晴れて医師の資格を得たが、学ぶことはスタートラインであるし、経験することも果てしなくある。俺がしごいてやる!わかったか!

外来は私、先輩たちの手伝いを頑張るんだ!病院に行ったら、患者さんが最先端の治療を受けている。死に物狂いで先輩から技を盗むんだ!以上!」

ぐったりして、教授室から医局は向かった。これから、予想もしなかった厳格な研修医時代が始まった。まずは、外来は教授のお手伝いをドイツ語で(Schreiber)

という。教授の外来を学習し、教授の、処方を学ばねばならい。血圧測定から、患者さんが無事診察室は座るように、次の検査へ出かけられるように説明せねばならい。

外来の手伝い中、教授から「君、右室心筋梗塞の所見を述べろ!目指す上室性血圧と心室性血圧を知っているのか?この私の処方箋は間違っているぞ!」叱られながら、叱られながら、

教授の外来だから、患者数はとてつもなく多い。あっという間に午後2時である。やっと終わったと思ったら、「一緒に食堂へ行き、今日の外来の復讐だ!」昼飯の味がしない。

「」よし、病棟へ行ってこい!カルテの書き方、診察の仕方、血管確保、緊急蘇生から、あらゆることを学んで来い!学ぶことはいくらでもあるんだ!」

重い足取りで病棟へ行くと先輩達(ドイツ語でOben)、私たち研修医はドイツ語で、Unten,まずFreshmenと言われた。手取り足取り、病棟ワークを指導してくださった。時には、大失敗し、

教授、上司からもさんざん悪口をののしられ、四面楚歌に何度も陥った。しかし、私達も馬鹿ではない!2年の研修生活で医療技術は、かなり向上し、ほめられることも多くなり、患者さんからも、

お礼を言われることが多くなった。一通り、まだまだ未熟なるが、医師と言われても恥ずかしくはなくなった。大学の2年間の研修を終え、研修医はバラバラに関連病院は修行に行くのである。

私は「地獄の県立多治見病院」へ赴任が決まった。そこで、拷問ともいえるさらなる修業が待っていた。今から思い出せば、今の大橋医院の院長の診料の基本になっているのです。教授も教師たちもありがとうございました(完)

投稿者: 大橋医院

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