大橋院長の為になるブログ

2022.05.19更新

今から、25年前の話である。当時、介護保険はなく、夫の最後の面倒は、妻の仕事であった、

この人は、縫製を、気が付いた時から仕事していた。盆も、正月も、日曜日もなく、開けても暮れても縫製をしていたのである。

職人気質で、頑固であり、笑顔もなく、ただひたすら、針と糸を通していた。

その頑固職人が、全身倦怠感を訴え、黄疸が出現した。子供の頃からしていた針に糸が通せなくなった。近所でもあり、息子さんから頼まれ往診した。

肝胆道系に悪性腫瘍がある。食思不振も起きれなくなったのも、この病気のせいである。腹部に軽い腫瘤が触れる。黄疸も出ている。

お嫁さん、息子さん、親戚と話しあったが「親父は、もう50年以上、縫製の職場を離れたことはない。病院ではなく、そこで、死なせてやってください。」

私の、在宅尊厳死が始まった。毎日、点滴をし、麻薬で傷みを止めながら、機嫌のいいときは、戦争中の話である。彼は。満州鉄道の運転手であった。女性にもてて、もてて、、

当時は見合い結婚が、常識であったから、日本に帰り、無事子供立ちに恵まれ、あとはひたすら縫製である。いっぱいスーツを仕立てた。麻薬が聞いているせいか笑顔であった。

点滴を毎日、しに行った。ある夜、自宅から往診要請があり、急いで行ってみると、呼吸停止、心音はなく、瞳孔散瞳、対光反射なく、昇天である。

「私は、御臨終です。何の役にも立たなくごめんなさい。今から、診療所で死亡診断書をを書いてきます。」その時である。裁縫職人の死を宣告した老人が、思いっきり

「目を開き、”先生、ありがとう!」としわがれ声を発し、二度と動くことはなかった。私も、家族も、親戚もびっくりである。長い臨床生活で初めてのことであった。

お通夜の時、「息子さんから、父を楽にさせてくれてありがとう」と大粒な涙をも見た。家に帰り、このことは忘れることができないと思った。(完)

投稿者: 大橋医院

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