大橋院長の為になるブログ

2022.05.08更新

私は、28歳、今度の相手は、意味合い11回目のヒトだった。大阪から、米原からの日本海へと電車は進んだが、豪雪のため、大阪へ引き返すことになった。

どうしても彼の両親にお逢いしたかった。けれの両親には、反対されていた。「やりきれないな」と、ため息が出た。すると偶然となりに座っていたおじさんが、

「槍は切れなくても通すことができる。やり切りとおすんだよ」豪雪の中婚約者の実家へ行く方法もおしえてくださった。引き戻った大阪から米原まで引き返し、東海道に乗り、

上野から何回も乗り換えて、婚約者の山形の実家の駅にたどり着いた。駅にはフィアンセが笑顔で、彼のご両親と再会した。豪雪の中彼女は水のみしか飲んでいなかったし、眠っていなかった。

彼の結婚に反対していたご両親の二人は、彼女を、お嫁さんい来てもらいたいといい、暖かい愛情が彼女を包み込んだ。【昭和20年代初期には、女は22-23歳までお嫁に行くことが世間の常識だった。彼女はその時28歳)何のことはない、3か月後結婚式が開かれ、令和4年、二人は幸せである。あのときの隣の名も知らぬおじさんの”やりとおす”が大きかった。

 

話は変わるが、イビチャーオシム(ボスニア ヘルツコヒチ間遠は、勝てないプロサッカー選手に、終わりなきランニングを強要した。何度も苦しみがわいてきても、オシムはランニングの中止を、

許さなかった。日本のプロ選手、一人ひとり、サッカーがなぜうまくいかないか問題意識を持っており、苦しみの中で解決しなくてはいけないといった。もちろん、何十年の監督業からくるアドバイスは

オシムは懇切丁寧に教えた。選手が今季負けぐらいする彼の指導は熱意に溢れていた。サッカーの試合に勝つためには、言葉、民族、人生観など関係なくただひたすら勝つことを考えろ出会った。

彼はユーゴスラビアで暮らしていたが、民族、宗教、言語で、ユーゴスラビは分裂してしまった。私も一年前に、学会でそこにいたが、あんなにうつくしい景色で、料理のおいしい、アルプスそびえたち、アラビア海の漉き取る青さに、戦争は全く似合わない。

 

落合監督は、プロ野球選手の練習に終わりはない、納得いくまでいつまでも時間無制限であった。休みはクリスマスとお正月で、練習日の休みはなかったし、終わり時間はなかった。プロとして、自覚を持ちけなけらば行けないし、ただ練習をしているわけではない。壁にぶつかった選手の疑問には、選手が降参するほども指導に際限は無かった。怠慢、プロとしての自覚のない選手は容赦なく解雇した。一年中、野球付で、本当に野球が好きで、残酷な落合チームであった。(私も医師として人命を預かる職業、医学の勉強、患者さんへの優しい心は限りがない)

 

 

投稿者: 大橋医院

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