大橋院長の為になるブログ

2021.03.30更新

アイルランドの不屈の精神:

<アイルランドに見る不屈の精神>
17世紀はアイルランド史のなかで最も血塗られた時代である。アイルランド同盟戦争(英語版)(1641年 - 1653年)、クロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)、ウィリアマイト戦争(1689年 - 1691年)により人口は激減、カトリックに対する刑罰法(Penal Laws)によってカトリックの地主階級が凋落し、差別が固定化する事になった。
国外植民地としてのアイルランド
アイルランド人のイングランドへの不満は植民地支配により経済情勢が悪化するにつれ激しさを増していった。適当な地主の不在により農業生産は輸出品中心となり、国内消費に必要な農産物は不足した。1740年代には2年にわたる寒波がアイルランドを襲い、アイルランド大飢饉と呼ばれる飢饉により40万人もの農民が死亡した。イングランドの貿易法によってアイルランドの輸出物が関税をかけられるのに対して、イングランドの製品は無関税でアイルランドに流入した。アイルランド人のカトリック信仰は続いていたが、17世紀には大きな反乱などが生じることはなかった。
18世紀になると、プロテスタントの特権階級の間でアイルランド人としての意識が芽生え始めた。さらに1775年に勃発したアメリカ独立戦争の対処に追われたイギリスは、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった。こうした中、ヘンリー・グラタンにより率いられた党派は、イギリスとの貿易不均衡の改善やアイルランド議会の尊重を訴え、事実上立法権を回復させるなど、アイルランド議会の地位を向上させた。こうしたことから、この時期の議会はグラタン議会とも称される。
イギリス併合時代(1801年 - 1922年)[編集]
主要記事:イギリス併合時代のアイルランド
1845年から1849年にかけてはアイルランドをジャガイモ飢饉が襲い、アイルランドからのアメリカ合衆国などへの移民を促進させる原因となった。飢饉以前に800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少している。

アイルランドの人口減少
1841年 - 1851年
アイルランド語の使用は19世紀に急激に減少した。これは飢饉の影響に加え、イギリスによる国民学校(national school)の設立、当時のアイルランド人政治家による排斥などが影響している。代わって用いられるようになった英語は、イングランド本土の英語と文法的に相違があり、一種の方言と見なされている。これは、古英語に由来する文法の柔軟性が特徴的なアイルランド英語(ハイバーノ・イングリッシュ)として、20世紀前半のイギリス文学界にも一定の影響を与えた。J・M・シング、ジョージ・バーナード・ショー、ショーン・オケイシー、オスカー・ワイルドなどはその代表である。
私はジョンフォード監督の「静かなる男」を何度も鑑賞した。歴史的には、百戦百敗のアイルランドの歴史で“アイルランド人は負けない”精神を「風と共に去りぬ」の主人公にも見れる。素敵な国である。おおはし

投稿者: 大橋医院

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