酔歌 島崎藤村
旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
酔ふて袂(たもと)の歌草(うたぐさ)を
醒(さ)めての君に見せばやな
若き命も過ぎぬ間に
楽しき春は老いやすし
誰(た)が身にもてる宝ぞや
君くれなゐのかほばせは
君がまなこに涙あり
君が眉には憂愁(うれひ)あり
堅く結べるその口に
それ声も無きなげきあり
名もなき道を説くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐(かひ)なきことをなげくより
来(きた)りて美(うま)き酒に泣け
光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ
心の春の燭火(ともしび)に
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
哀しからずや君が身は
わきめもふらで急ぎ行く
君の行衛(ゆくへ)はいづこぞや
琴花酒(ことはなさけ)のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ》