2020.06.17更新

ことばを考える:ことばは単にコミユニケーションの手段ではない。私は、医学部生のころ、解剖学で、内臓をラテン語で覚えた。名前はあるが,実態はない。この内臓名はラテン語で無理に作ったものである。人間の体の内臓には名前はない。名前をすべての臓器に当てはめたのは、先人たちは大変であった。しかし、ことばは広辞苑に記載されているものがすべてではなく、日常、毎秒、毎時間、作られていく。

日本語は難解で、他人事と書いて、”たにんごと”と”ひとごと”と両方を読める。ことばを作るのは人間だけである。貴方の愛玩犬は”ワン”というが、しゃべってはいない。絶対音感の世界である。音の高さで考えている。鶯に私がホーホケキョと言っても、コミュニケーションは生じない。音の高さが違うから通じないのである。人はことばの高さが違っても同じと考える。多数の群衆と一人の人と同じ人と考える。例えば、リンゴが大小2つ、梨が大小2つ、あってもどれも、果物で同じと考える。典型的にはお金である。金で買えないものは無い。お金は

等価交換である。物とお金を同じにする。それどころか数学の世界では、a=bとb=aは人間は同じと考える。猿はクルミを朝4つ食べて、夜に3つ食べさせても不満である。人間は一日に7個と解釈できる。英語でThis is a pen.の aは、 This is the pen.と考えてみる。感覚的な言葉であるaは、頭の中のリンゴである。日本語はaも theもない。昔あるところにお爺さんが住んでいたの”が”は特徴である。同じにしたくなければおばあさんは洗濯にいくの”は”に限定してもよい。中国語を考えると“行”と書くだけで、行く、行かない、行けば、、、が含まれる。

帰省ということばは「帰って親の顔をみる」と解釈するが、最初は「親を自分の家に帰す」ということであったらしい。”重”も考え物である。”おもい””じゅう””しげ”ともよべる。日本語は感覚的な言葉である。文字は広辞苑を広げて調べるべきである。。重い。スマホで指だけで押して安易にすましてはいけない。人体は体を使わないと五感も退化するかもしれない。おおはし

 

 

 

 

 

 

投稿者: 大橋医院