2020.04.29更新

新井俊一郎:原爆のむごさを語り続ける。

新井さんは13歳の時に入市被爆した。同世代の他の学校に通う子どもたちが建物疎開作業中に被爆したのに対し、新井さんが通っていた広大附属中学の生徒たちは食糧増産のため農村へ動員に出ていて無事だった。生き残ってしまったことに負い目を感じ、友人の墓に花を手向けることも出来ず、遺族の前からも隠れるように生きてきた。しかし10年前、当時の惨状を記録に残そうと、同級生と共に手記集を発行。農村動員を決めた学校の英断への感謝と亡くなった仲間への慰霊の思いを込め、中学校の構内に「謝恩碑」を建てた。ある日、亡くなった友人の兄から連絡を受けた。「ずっと恨んできたが、生き残ったあなた達も苦しんで生きてきたことを、手記を読んで初めて知った。すまなかった。」その言葉に「許された」と感じ、新井さんは涙が止まらなかったという。
このことが大きなきっかけとなり、証言活動を始めた。多くの命を奪い去り、生き残った人の心までも、なお苦しめ続ける原爆の惨さを伝えたい。体の無理を押して訴え続ける新井さんの強い思いを聞きとりたい。  私も母が長崎市で17歳の時、被爆をしており、大橋信昭も被爆者2世ということになります。ここにあえて藤島一郎の長崎の鐘を書きます。この歌はあまりにも被爆者には切なく、だから

藤島一郎は感情を抑えて、淡々と歌ったといいます。作詞「サトーハチロー」左曲「古関裕而」 

こよなく晴れた 青空に 哀しく思う せつなさよ うねりの波の 人の世に はかなく 生きる 野の花よ なぐさめ はでまし 長崎の あー長崎の鐘が鳴る

召されて妻は天国に 別れて一人 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白きわが涙 なぐさめ はげまし 長崎の あー長崎の鐘が鳴るおおはし
 

投稿者: 大橋医院