大橋院長の為になるブログ

2019.08.16更新

「被爆者2世」     大橋信昭
 私の母は昭和3年生まれ、長崎市に生まれた。昭和20年8月9日は、まだ17歳で、被爆地浦和の地下の防空壕の奥深く、友だちと遊びに夢中であった。
外が激しい豪音と共に、何か強烈な光を感じた。17歳の母は、友達とその後も長く遊びに夢中であった。母を含めて3人の17歳以外の人達は、防空壕から脱出していた。遊びに飽きた母たちは外の世界を見て、驚愕の極致になった。さっきまで、防空壕にいた人達はその場で即死しており、あたり一面、見たこともない地獄絵図が当てもなく広がっていた。ともかく一命をとりとめた人は、安全なところは走っていた。やがて、母たちもこれが新型爆弾(ピカドン:現地の人は原爆のことそのように言った。)うわさが流れ、やがてUSA軍隊がやってきて、特に若い女性は悲惨な運命になるといううわさが流れ、親戚の島原まで、髪の毛を剃り、少しでも男装化し、走り続けた。死体の山であり、時々、まだ命ある人から足を捕まれ「水をめぐんでください」といわれた。母はそれどころではなかった。3っ日近く、かかりやっと島原の親戚の家に疎開させてもらった。
 いろんな噂が飛び込み、長崎市は壊滅でありもう草木も生えない市の街となったということであった。正確には分からないが長崎の実家に集合してよいとの連絡が入り、恐る恐る長崎市の祖母のところへ戻った。母の親から、強烈な話しを聞かされた。父はこの世に跡形もなく存在もわからず、長男は、倒れてきた大木に体を挟まれ、身動きできず、火の手が早くそばに来ており、「お前たちは、私はもう助からないから、早く逃げなさい」、実際そうしないともう火ははその近くまで、来ており、心を鬼にして、走れるものはより安全なところへ逃げた。相当無念であり、それだけ悲惨な状況であったのだろう。母の兄弟は9人いてかったのは、5人、やがて赤子の末っ子もまもなく不明死した。4人の兄弟と母、親戚は壊滅状態であり、私を将来、平和が来たときいつもかわいがってくれたおばさん「あッ子ちゃん」は父の顔も覚えがなく、写真も無く、未だに分からないという。ひとまず食料を求めてその日暮らしがはじまったようである。ともかく寝泊まりする空間を確保し、人間は強いもので2年は過ぎた。祖母の元に戻れたのは、家族親戚含めて半分だと聞かされている。日々の生活を少しずつ取り戻しながら、母は、病院に雇ってもらいながら、どういう形でもらえたかわからぬが、薬剤師として病院で働く生活をはじめたようである。それぞれが、何らかの職業を確保し強く生きなければならなかった。
 私の父は大垣市出身であるが、昭和何年頃、長崎市へどういう過程でたどり着き或る商売で、すぐに大成功し、大勢の従業員と、庭付きの家に住んでいたと父は言っていたと私によく自慢したがその正確性は定かでもなく、当時の若い父の派手な写真ででたらめではないようである。真相は、棺桶に入っても何も話してくれなかった。この父と母がどうして周囲の猛反対にも拘らず、結婚に至ったか不明である。私は昭和28年7月31日に長崎市で生まれており、3歳までいたようである。平和祈念館、眼鏡橋、グラバー邸などでの幼児の私の父母との写真が物語っている。しかし、父は郷里の大垣でもう一旗、商売で成功を夢見ており、それを母の家族の猛反対のなか、私と父母、何も持たずに大垣行きの電車に乗り込んだようである。私は、かすかにSL電車の煙が窓から入り煙たかったことを夢のように覚えている。3人は大垣へやっと帰ったが、大橋家の迫害が母に、この二人の結婚に至ったようである。そしてやがて父はスマートボールの店を開き、また人稼ぎしたようである。私はこの頃から記憶がある。スマートボールの機会に囲まれて、父が私の将来を考えて、ガソリンスタンドを経営する様に至った苦労は,私は知らない。ただ父母は、相当の苦労をしたに違いない。伝馬町で暮らし始めた頃はもう僕は4-5歳、怖い父と疲れ切った母と、どこから集まったのか数人の従業員で今の私の診療所の前は、石油販売業であった。
 しかし、私は妹も含め、保険所から毎年、被爆者健診、母が無くなった時、長崎市から8月9日の原爆式典への無料参加券が来たとき、私達兄弟は被爆者である再認識し、お互いに、被爆後遺症と思われる奇形的なものが数か所体に残っている。詳細は話したくない。言いたいことは、原子爆弾二つも落とされて何故、日本は降伏しなかったのか?」もし東京の大空襲で無条件降伏をしていたら、言いたいことは、原子爆弾二つも落とされて何故、日本は降伏しなかったのか?もし東京の大空襲で無条件降伏をしていたら、どれだけの無実の人が助かったか?しかし、一億総玉砕の元、8月15日の天皇陛下の玉音放送をラジオで流すのも、日本が戦争に負けるはずがないと、殆どの人が洗脳されている中、放送に携わった人たちは命がけであっただろう。当時の政府関係者、軍人の内科入閣者の罪は相当重い。後、東京裁判で罪を受けるが、その後も無実な人がB球裁判で悲劇を受けている。
 私達兄弟も、被爆後遺症を少しずつ気がつき始め、長崎に原爆が投下され無かったら、どういう形で生まれてきたのか、来なかったのか見当もつか 私達兄弟も、被爆後遺症を少しずつ気がつき始め、長崎に原爆が投下され無かったら、どういう形で生まれてきたのか、来なかったのか見当もつかないが、現代では核保有国が増えるばかりだが、広島、長崎市の悲劇は最後であるべき、もう三度目は許されない。私も妹も、毎年被爆者健診が保健所からくるが悲しいものである。これはあまり話せないことだが、あえて投稿した。おおはし

投稿者: 大橋医院

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