大橋院長の為になるブログ

2018.07.24更新

「世間残酷物語」        大橋信昭

(ここに書かれている文章は、架空のものであり、事実の記事を載せたものでは、ありません。大垣北高校、岐阜高校、大橋信昭は存在します)

 私が彼女に、一目惚れをしたのは14歳の3月頃であった。今度、中学2年生になる直前であった。私は、心を奪われた。何という可憐な女性であろう。背がやや高く、私も14歳のころは学年でも後ろの方なくらい背が高かった。ちょうど、二人夢でもいいから、手をつなぎ公園を散策したらバランスがよいと、自分勝手な妄想を起こした。彼女の名は、君原敏子といった。それから、私は君原俊子を遠くから観察する癖が起きた。スタイルは抜群で、手足が長く、小顔で、笑うと女優の宝塚歌劇団出身の八千草薫そっくりであった。

 私は14歳にもかかわらず、彼女とデートしたくなった。しかし、君原敏子は我々男子のマドンナであり、不可能と思われた。しかし、その夢が現実化するのである。いきなり、デートの話をしたら読者諸君は驚いたであろうから、何故,学年一番の君原さんと恋人になれたのか、これから説明しよう。
 4月になり中学2年生になった。クラス替えである。何と!私は君原敏子と、同じクラスになったのである。毎日、八千草薫そっくりの彼女の顔を見れるのであった。夢のようであった。しかも、2週間後に、正副クラス委員の選挙が行われた。何と私がクラス委員、君原敏子が副委員長になったのである。
 つまり、頻回にお話しができ、お傍に近づくことができ、クラス委員会もあるし、隣に座れることが義務となったのである。夢のような話しであった。彼女は我々の学年の男子の憧れナンバー1であったから、一番の不良男子生徒が近づいてきて「俺の女に手を出してはいけないぞ!分かっているだろうな」と恐喝を、受けた。私にはわからないし、君原敏子とは現実に、生徒会活動をしなくてはいけないので、これは、らっきー、幸福、夢うつつの胃や現実であった。そのゴリラのような不良少年の睨みは感じながらも、教室の前に立たされて、挨拶をした。早速、生徒会があり、第1回の会議があり、彼女は私の隣であり、生徒会で議決したことをクラスメートに報告しなくてはいけないから彼女の顔をじっくり見て、“何と、美人なのだろう”教室でみんなに報告することを話し合った。当然、すぐそばに近づかなくちゃ話しあえないし、甘酸っぱい木蓮の匂いがした。これが、半年、続いたものだから、私の恋心は理性を失い、帰りがけにデートを申し込んだ。彼女は「私たちは14歳よ、そんなことしたら不良少女と思われるし、学校に叱られるはよ!」やさしかった彼女の顔が急に曇った。ここは諦めるしかない。「君があまりにも素敵だから軽率な発言をしてしまった。許してください。」しかし、もう半年、同じクラスだし、やがてクラス替えがあり、彼女の美顔は毎日、見られなくなった。しかも、私には将来、医師になり、地域医療で頑張りたいという夢があった。当然、猛勉強して成績は、少なくとも5番以内にとどまらなくてはいけない。デートどころではなく、教科書、先生の講義を字と聞き、参考書を山のように買い、夜遅くまで机に向かうこととなった。ふつうは優等生は大垣O高校へ行くが、僕の成績はかなり良く、担任の先生が「隣の岐阜県で一番の岐阜高校へ入れるよ。」事実、岐阜高校へ通うことになった。君原敏子さんも岐阜高校ではないが、岐阜方面の学校へ通うことになったみたいであった。最初は私のデート申込事件で、彼女は嫌がっていたが何日も側にいるうちに、電車の席の隣に座り、お互いの学校の話や、休みはどうしているかなど、話は山のようであった。私は、一度でいいからこの美女と明治村でも行って、夢のような日曜日が実現することに、超エネルギーを思いっきり降り注いだ。信じられないことに「OK」の返事が出た。お互い大学進学問題もあるし、適度の間隔で東山公園や名古屋の科学館、水族館とデートを重ねた。こんなに美女の顔を見ているうちに、「将来、大学があっても、友達として、あってくれないか?」私は、高校生としては理性を失い、彼女の手を無理やり握ってしまった。すぐに、彼女は手を放し、顔が蒼白となり「信昭さんは、お医者さんになりたいのでしょ!私は音楽の道へ進むの。信ちゃんとは道が違うのよ!」彼女が私に、優しくしてくれたのはここまでであった。もう違う電車にするし、話もしてくれなかった。私も医師に成りたかった。岐阜高校でもかなり上位の成績をのこさねば、学力を高めねば医学部には合格できない。彼女をあきらめるには、多少時間がかかったが、医師目指して猛勉強し、合格し、無事卒業し、国家試験も合格し、研修医、病院勤務、医学博士を取り、開業し、ワシントン、ニュウーヨーク、インディアナポリス、ミネアポリス、今は無きユーゴのザダール、台北と世界の街と大学その年の医学部で勉強もさせてもらい、USAに向かった勝海舟が頭に浮かんだ。やがて、日本に帰り、開業生活と研究生活を両立させながら、女房、子供にも恵まれ幸せな毎日が続いた。そんなところに中学の同級生が同窓会の話を持ち掛けた。準備は苦労したが、私は、あのろ過ですれ違い、クラス委員として、Discussionし、デートまでして実現でき、どさくさに手間で握ったあの頃がよみがえった。
 同窓会はすぐにやってきた。私は会計係で忙しかったが、「大橋君、お久しぶりね」、君原敏子が声をかけてくれた。同窓会がはじまり、お互いの今までの歩みを話し合い、彼女も立派な家庭をもち幸せそうであった。
 私は充分に幸福感を感じた。昭和43年から47年ぐらいの話であるが、今の若者は笑うであろうが、私にとっては、大変な出来事であった。今は、私は真剣に内科、循環器科として毎日を送っている。彼女も幸福にあふれて毎日を過ごしているのであろう。読者諸君には、実につまらない話であったろうから、ここで筆をおく。(完)」
おおはし

投稿者: 大橋医院

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