大橋院長の為になるブログ

2018.01.25更新

<僕は悪魔先生が大嫌いだ!でも尊敬しているのかな>」
大橋信昭

僕は幼児のころよく発熱をした。悪魔先生は小泉町で開業していた。
僕の南頬町とはずいぶん距離があった。
しかし、よく発熱を僕はして、意識朦朧で気が付くと悪魔先生の聴診器が
わたしの胸を探り、懐中電灯でのどをみて、顎のリンパ節を触っていた。
「キャー!悪魔だ!」「うーん、風邪だな。」そして、にがい粉薬と、痛い注射をして帰っていった。夜の10時過ぎである。彼は、僕の家を入るときも出ていくときも、太い口髭と共に「エッヘン」という怒鳴り声を発した。幼児の私は、一目散にお押し入れに隠れ、恐怖に震えていた。無理やり両親の、悪魔先生の前に引きずり出されていた。怖かった。恰幅がよく、超えており、口髭が濃いのである。我が家に入るときは必ず大きな声で「えっへん」と怒鳴った。私がもう降参である。
 僕はこの医師を「悪魔」と呼んだ。南頬町にスクーターで来ていると情報を聞くと遠いお宮さんまで、逃げて行ったものである。
「あの子はよく泣く子だ」と笑って帰っていった。それにしても、小泉町と南頬町はかなりの距離があるのだ。何時であろうと、深夜であろうと、往診に我が家に来た。偉いものだな。
 やがて、歳月が流れ、中学に入ると僕も野球部に入るくらい、丈夫になり悪魔先生のことはすっかり忘れていた。やがて高校生になり、どうしても医師に成りたくなった。まず浮かんだのは、あの怖い悪魔先生のことである。医師に成るには、かなり勉強しなくてはいけない。岐阜高校にいた僕は、明けても暮れても、勉強していた。やがて、3年生になり睡眠時間を削ってまでも、参考書にかじりついていた。受験日が近づくある夜、発熱と関節痛と全身倦怠感でねむれなくなった。怖かったが、悪魔先生の診察を受けることにした。「お願いします。」といっても、相変わらず無愛で、「聴診器を当てるよ!」そして悪魔は「インフルエンザだな!注射を打つがお尻でいいかい?」「お尻は恥ずかしくて」「それなら肩に打っていくよ」痛かったが良く効いて、関節痛、全身倦怠感が急に無くなった。看護婦もいない寂しいむさくるしい診療所で、悪魔先生は薬を一人で分包していた。「これを朝、昼、夜、食後、飲むように!」と怒鳴った。「はい解りました。」蚊の無く様な僕の返事であった。
 この薬は著効した。その夜,ぐっすり眠れ、インフルエンザは徐々に快復した。
 いよいよ、医学部入試の日がやってきた。父に「俺の商売を継がずに、勝手に医師に成るなんて、宣言しやがって!落第したら許さんぞ!勘当だ!」とそのあと、2時間も世間も厳しさを説教されたから、受験日の前の日は眠れず徹夜であった。しかし、理科、英語、社会はよく解答がいいと思った。次の日は,前日眠れていないので、」風邪薬を飲み熟睡した。国語、数学であったが、数学には参った。5問出て300点である。これは満点を取らなきと、60人の合格者数に1200人以上受検に来ているから満点を取らなければいけない。4番目の数学の試験問台が解けなかった。時間は3時間。後の4問は正解間違いなし。4問目を、メモ用紙に,いっぱい、あらゆる可能性を考えた.数学はこの問題にほとんど費やした。ご先祖様!助けてよ!すると急にその問題が解けた。全力を医学部入試問題に費やした.
 母と妹が、合格の有無を見に行ってあげるわ、電話がかからなかったら不合格ね。合格ならすぐに電話するわと楽しそうに、僕の不安を理解せずに名古屋に楽しそうに出かけた。発表時間が来ても電話はかからなかった。不合格だったのだ。父の恐い顔が僕を睨んだ。3時間後、母と妹は帰ってきた。うれしそうに「合格よ!!」父もそっと微笑んだ。
 僕は思い出した。あの子供のころ、僕の命を助けてくれた小泉町の悪魔先生を!僕は、悪魔先生を憧れていたのだ。24時間、どこでも往診に出かける、患者さんのことを思いっきり心配し、全力投球する悪魔先生になりたかったのだ。
数日後、インフルエンザを治してもらい、医学部に合格したことを悪魔先生に報告に行った。「ウーお前なんかが医学部に受かるとはね!えっへん」返事はそれだけであった。昭和50年代は男性の平均寿命は60台であった。悪魔先生が他界されたことを知ったのは数年を要した。昭和50年代は男性の平均寿命は60台であった。悪魔先生が他界されたことを知ったのは数年を要した.もっと感謝の弁を多く言うべきであった。さようなら、恐怖の悪魔先生。本当は天使のような先生であった。僕は幼かったので悪魔先生とあだ名をつけたのだ。(完)

おおはし

投稿者: 大橋医院

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