2017.02.10更新

「長女」      大橋信昭
その日曜日の起床時間は、なぜか、いつもに比べて、まだ薄暗い夜明けであった。今日は長女の二番目の孫のお宮参りである。何故、横浜へ行かねばならないかは、婿殿の勤務先であり、住居である。一番目の孫は、私の近くの産院で生まれ、私の家で半年間、たっぷりすごして、遊んだのであるが、今度の孫は、横浜に住んでおり、初対面である。
 私はこの随筆は孫を中心に書くつもりはない。話しはかなり逆戻りして、長女の誕生の時になる。予定日になっても、長女は、生まれないので、「いつになったら生まれるのだ!」と家内に怒鳴ったが、誠に許してほしい。次の日に無事出産した。
 私には可愛くて仕方がなかった。しあし、叱るときは鬼のようになったらしい。長女は今になってもパパは怖いという。
 幼稚園、小学校、中学校、高校を卒業して、私の知らぬ間に医学部に合格していた。同業者となるとは、驚いた。
 やがて、6年が流れ長女は医師となり、ある公立病院の研修医となった。当直で、忙しくて、疲労もたまり、体を動かすのが辛そうであった。しかし、彼女から、研修中に経験した臨床経験は、私にも大変参考になった。彼女がたくましく思えた。
 研修も順調で、安心していたが、我が家に、ラグビーのような選手が、応接間に座っていた。「娘さんと結婚してください!」ときた。いつか、こんな日が来るだろうと思っていたら、仕事で疲労困憊の私にはとんでもない事件であった。その男性は、礼儀正しく、何しろたくましい!やさしそうな正確にみえた。二人はもう愛し合っており、どうすることもできないように思えた。しかも、長女は「パパが許してくれなければ、この結婚は諦めます。」と言った。これには私は、頭の中が、混乱せざるをえなかった。
 彼とよく話し合っても、とても、しっかりしており、整形外科医であり、話すことも聞き入ってしまうことが多く、結局長女と彼の結婚を許した。
 2週間後、ご両親ともお逢いし、結婚式を待つだけになり、無事、その式もえた。しかし、私が花嫁の父親として泣くと思ったら、花婿の父親が号泣し、祖次に婿殿が泣いた。私は、泣くどころではなかった。
 やがて、長女と婿との二人の生活が始まり、幸せそうであった。そんなことを考えていると、長女より、孫ができた。予定日は0月0日とのことであった。我が家で、出生後は暫く、成長を見守るということになった。初孫の成長を観察できるのはうれしいものである。
 しかし、婿殿の仕事もあるし、勤務先の横浜へ帰らなくてはいけないし、その日が来て、悲しかった。新幹線は非常にも東は走り去った。
 正月が来た。うれしいことに、初孫と若い夫婦は、我が家で暫く宿泊することを聞いた。4か月後の長女は、母親として、とても逞しくなっていた。初孫が私:お爺さんに懐くのは、もう一度高校3年生の数学の難問を解くより、困難であった。やっと笑いあい、握手が出来、気持ちが通じ合うようになると思った。あんな、お嬢様で育ててしまった長女が、逞しい母になった。安心である。
 やがて、また横浜への別れがやってきて、2年が経過した。お盆に長女と初孫だけ遊びに来て、2番目の孫ができることを聞かされた。うれしかった。家族が増えるということは、笑顔を隠せない。
 やがて予定日がやってきた。0月0日であった。この2番目の孫は、婿の実家で長女が出産に、奮闘と聞いた。よって、私の仕事上、初対面は、この前の、横浜での宮参りなのである。初孫とは、人相が異なる気がしたが、おめでたいことだ。祈祷が神主により無事すぎ、昼食会、そして、長女と婿の暮らす家でコーヒーを飲んだ。話しは尽きなかったが、私も家内も大垣は帰る時間だと思い、寂しい一時のさよならとなった。
 また逢おう。今度は二人の孫がどんなに成長しているか?3人目の孫ができたと驚かされるかもしれない。
 乳幼児のころはよく泣いたが、それが私の恐怖教育のせいだと長女は主張するが、私は彼女を、しっかり可愛がった記憶しかない。この矛盾はどうでもよい。
 我が家には次女もいるが、社会人として立派に働いている。どうか二人とも頑張ってくれ!私の老化は進むばかり。でも、医師として働けるうちは頑張るよ。
 おーい、大垣へ長女、婿殿、孫二人、帰ってきてくれ!本音である。.

 

投稿者: 大橋医院