2015.01.25更新

<私は岐阜高校出身である>
昭和47年卒 大橋信昭

 私が岐阜高校を受験しようとしたのは、中学3年生の担任の先生の命令である。「君は岐阜高校を受けなさい。何!一教科居眠りしても合格するから!」と
とんでもない進路指導をするものだから、その気になった。当然全教科必死に、入学試験は頑張ったのである。合格発表を見に行ったときはさすがにうれしかった。やっと受験勉強から解放され、春休みは遊び放題と思っていたからである。ところが、合格者は突然、もう記憶にないが、怪しげな、暗い講堂に集められ、大量の宿題を渡され、入学式までに完成するようにとの命令が下った。これでは、楽しい春休みも帳消しで、また勉強部屋に戻ることになった。急に問題集が難解であり、大垣の田舎の私には苦労した。宿題を片付け、ほっとしたら入学式であった。入学式も体育館に集められ、教科書や英単語辞書や、山崎偵とかいう3年間苦しめられるとは思わなかった参考書などが配布された。同時に1年6組ということも知らされ、その中に同じ中学受験者5人のうち3人が同じクラスであることが分かった。担任の先生が、高いステージに勢ぞろいされ、私はあのサングラスをはめた怖そうな先生は担任でなければよいがと思ったが、運命的なものであった。なおこのクラスは男子クラスであり、女生徒も遠くにまぶしく見えたが、いつかは男女クラスで、彼女たちともお友達になれると思っていたが、3年間男子クラスになるとは夢にも思っていなかった。おかげですっかり女子と疎遠になり、女性とまともに話ができるのは大学までお預けであった。
 初登校日、サングラスの担任の先生の教室にそっと恐々入ったら、驚いた。教室内はシーンとしており、もう教科書に真剣に、クラス仲間は向かっており、私の教科書は真白であるが、隣の生徒は半分手垢で真っ黒であった。どうして初日からこんな真剣な雰囲気なのだよ?今日はよろしくと笑顔でおしまいにならないのか?不安が高まる中、突然、例のサングラスの先生が乱入してきた。
そして、机に脚を上げ、「君たちもここの高校のことは充分わかっていると思うが、その気になってもらわないと困る!」降参だ。田舎の大垣ではそんな話聞いていないよ!数学の授業が始まった。担任の先生が言うには、私の講義は完璧だから、質問は受け付けないと言われた。その代りこの先生は、土曜も日曜日も遊べないように大量の宿題を出した。授業はやっと理解出る程度であった。
全く余裕がない。次は英語の先生が出てきた。「今日学習したことは、翌日全て記憶してください。単語のテストは毎日やりますよ。」と優しい言葉だが、最も残酷な命令であった。
 帰る際、担任の先生が、「君は遠い所からの通学だから、クラブ活動などせずに、授業が終わったら、すぐに帰宅しなさい。そして勉強以外は考えなくてよろしい!」と言われた。帰りは西野町の路面電車に乗り込み、捕虜収容所みたいに身動きできないくらい満員であった。岐阜駅に付き当時国鉄大垣行きを待っていたら、同じクラスメートが帰りは一緒なので、「君、元気がないね。」と笑ってくれた。1時間に2本しか大垣行きは岐阜駅に到着しなかった。市電と国鉄電車でかなりの友人を作った。帰宅草々、勉強するしかなかった。私の頭脳では、すべての科目が難解であり、毎日の宿題に追われるだけであった。
 それから、3年間、国鉄岐阜駅行と市電で西野町に、揺られながら通う日々が続いた。英単語の試験が毎日あるものだから、私はこの通学時間に覚えるしか手段がなかった。この姿を、当時同じ電車で名古屋方面に通勤している近所のサラリーマンが、私の事を勉強熱心で、二宮尊徳みたいなことを近所に言い触らすので迷惑であった。私は岐阜高校の授業に追いていくのが必死であったのである。
 2年生になると、担任は"名物"国語の飯尾先生が担任になった。毎回授業の前に儀式があった。「この黒板をこんなに綺麗にしたのは誰だ!」手を挙げた生徒は先生の前まで行き、頭をなぜられ、飴玉をもらえた。そして必ず誰かが、打ち合わせたように「先生、教科書を忘れました。」「そんな奴は廊下に立っとれ!」とその生徒は廊下に立たされた。そしてこれも儀式のうちであるが、「今、廊下に立っている生徒の事をどう思うか?君はどうだ!」生徒は「彼は普段真面目であり、今日、うっかりしていたのだと思います。先生、許してやってください。」「そうか、それなら中へ入れてやれ」と廊下の立たされた生徒が教室に戻ると、「今度忘れたら、後藤ひよこの屋上に立ってもらう!」この儀式は何回となく行われ、後藤ひよこは私の記憶にこびりついている。
 2年生の後半になると、個別にこの先生と普段の事を相談できる時間を作ってもらえた。「大橋は真面目だから、今の調子で頑張るようにしなさい。何!医師になりたい?もっともっと勉強するように!」と手厳しい評価であった。
 3年になると、受験を考えたか、皆の勉強に向かう姿勢がもっと厳しくなった。私のクラスの半部が医学部志望であった。私も頑張っているつもりであるが成績が今一である。最後の進路面接が母親を交えて、行われたが、担任の先生は私が医学部受験に猛反対であった。「いいかい、君の人生の問題だよ。」「私の人生だから医学部を受けさせてください」とこの問答に1時間を要した。帰りの母親の機嫌は悪かった。
 最後の国語の授業に、飯尾先生が励ましの歌を聞かしてくれた。「吹けば飛ぶような試験の紙にかけた命を笑わば笑え、、」全部は記憶にないが、激励として忘れない。その後、医学部に入り、地域医療に従事しているが、岐阜高校の厳しさが無ければ私など、医師になれなかったであろう。
 卒業式の日は受験も控えており、何の記憶もない。ただ、いい先生、いい友達に恵まれ私は大きく成長した。ありがとう。岐阜高校。私は、今でも岐阜高校卒業生であることが自慢である。

岐阜県の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、や動脈硬化症に全力を尽くします。

投稿者: 大橋医院