2014.01.24更新

<病棟の花>

大橋信昭

小生は、この病棟の花が咲いていなければ、大晦日であろうが、正月や深夜であろうが、還暦も過ぎたのに、特攻精神で病棟へは行かないであろう。必ず、笑顔で、優しく出迎えてくれて、今日のスケジュールを、小生の体によりそい、耳から鼻に向かって、熱い吐息を吹きかけながら、紹介する。小生は、彼女の体臭、口臭、うるんだ瞳、美しい項に釘付けになり、わかったような、わからないような今日のスケジュールを承諾するのである。
病棟回診へ進む。常に彼女のリードに小生はついて行くが、その美しい肢体に見とれ、医師とし思考過程は停止している。「この患者さんですが、もう一週間も便秘で、とても下腹部を痛がるの。先生、診察お願いします。」ご丁寧に小生に手袋をはめてくれる。寄り添って右手から左手へと小生の両手は彼女のはめた手袋に拘束される。耳元に息がかかる。なんと解答して良いか?夢心地でわからない。
「先生、今度は胃瘻交換ですよ。手袋をお羽目になってください。準備はしてありますから、お願いします。」慣れた胃瘻交換も、この香水の怪しげな魅力に、効率が悪い。
「先生、今日は2病棟回診してもらいますが、患者さんはとても楽しみに待っていらっしゃるわ。行きましょう!」そこで小生は、やっと医師の心が芽生える。一人一人、高齢者に聴診器を当てて、一語一語、悩みを聞いてあげる。100人近い患者さんに一人に聴診器が当たる確率は一ヶ月に一人なのである。当然、問診、聴診、触診は丁寧になる。汗だくで、すっかり医師になっている。耳にあたる、彼女の吐息も、突然視界を遮る彼女の白い手も、診察中は気にしない。
やっと回診が終わり、これから亡くなった方の反省会である。医師、看護師、介護士、栄養士、ケアマネージャーが集合し、丸い大きい机で、前回の見取りの、検討会である。その時、突然、病棟の花は「先生の隣でないと嫌です。」といって、堂々と小生の隣の椅子に座り、更に、椅子を小生の極めて近くに座り直す。また、彼女が喋る方向が小生の嗅覚に敏感な鼻に向けられており、小生はその、蜜のような匂いに、また思考力が麻痺する。小生がリードする会議だが、たおやかな黒髪と、透き通るうなじと、愛くるしい彼女の笑顔に、すっかり魅せられ、諸芸の発言はしどろもどろである。小生の情けない会議進行である。するととなりにいた病棟の花が、体を押しつけ、「医局で幾つかの書類を書いてもらいますわ。」またしても、病棟の花が満面の笑みを押し付ける。思わず小生の唇をあわせたくなるが、そこは強烈な理性が邪魔をする。いや、この会議メンバーの前で、そんな行為に及んだら、どんな社会的制裁、社会的信用失墜である。小生は医師で、暖かい家庭持ちでなる。なんの不足があろうか?我慢、我慢、病棟の花の持つ魅惑に負けてはいけない。
ナース室へ行く。未処理の書類が山積みである。一つ一つ片付けていく。すぐ横で、病棟の花はパソコンにデータを打ち込んでいる。「さてこれで、仕事も終わったようだね、」と席を立とうとすると、直ぐにっ病棟の花は、延長作戦に出る。「この症例のこの症状はどう思われますか?」「この患者の熱発時のお支持をもらっていませんわ。」
どんな作戦を出そうと、私の帰宅時間がやってくる。「それじや、失礼します。」と席を立つと、病棟の花は「お送りしますわ」という。私のカバンを持ち、同じエレベーターに乗る。その頃から私に、病棟の花は、小生に、何か訴えそうな、寂しそうな視線を投げてくる。小生は凍りついたようになり、動けなくなる。小生がメロドラマに主役がヒロインに投げかける粋なセリフを、病棟の花に声をかければいいが、どうしていいかわからぬうちに、非情にエレベーターは一階である。出口がどんどん近づき、ついに下駄箱から小生の靴を取り出し、病棟の花に「今日はどうもありがとう。またお願いします」と言って帰ろうとすると、彼女の表情は何か切なさそうな、「愛染かつら」と「君の名は」の主演女優をたして2で割ったような顔色をしている。恐る恐る病棟の花からカバンをもぎ取り、車に乗り込み、出発である。バックミラーに「何もおっしゃらないの!」という悲しそうな見送り顔が見られるが、現実は厳しいものだ。診療所に家族と患者が待っている。小生は診療所へ急いだ。
毎週、毎週、バイト先で恋愛ゲームをしていると疲れるものである。 


岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、や動脈硬化症に全力を尽くします。

投稿者: 大橋医院