2014.01.17更新

<軍医の日記>

大橋信昭

 それは君、日本を離れるときは悲しくて、軍艦から祖国が点になったとき、思わず涙が出たものだよ。私達は、日本の戦争が多面作戦になってしまい、急いで医師を作る必要があった。それで、医学専門学校を多く作り、教育は不十分ながら、戦地で外科医として働ける医師を大量製産したのだよ。私達は外科処置を中心に教育は超特急で済ませ、戦地へ派遣されたのだよ。私も、当時の日本軍国主義にしっかり洗脳されていたから、祖国の使命感が強かったのだよ。
ラバウル方面への派遣だけど、激戦地区だったよ。軍艦には底に二本の太い棒が有り、それに股がってトイレ替わりだけど、謝って足を滑らしたら海へ放り出されるのだよ。軍艦も戦地へ急いでいるから、海へ落ちた兵隊の一人や二人ぐらい無視することがあったよ。用足しも命懸けだよ。
 現地へ着いたら一般兵隊は原野に畑作りだよ。私は、医務班として特別の所で、外傷治療をしているのだが、オーストラリア兵による奇襲があり、畑作りの兵隊は、銃槍で担ぎ込まれたよ。私も、「鉄砲の飛んでくるところで働きたい」と我儘を言ったが、上官により反対された。私は、この上官と馬が合わなくて、遂に殴ってしまったことがある。切腹を覚悟していたが、事情と私をよく理解してくれた別の上官により、切腹は免れた。しかし、二度と上官を殴るようなことは許されないと青白い顔で睨まれた。私は、切腹を免除してくれた上官を人間として軍人として、尊敬した。上官の命令に背くことは絶対許されないことだ。それを許してくれた。
 その頃の医師の仕事といえば、外傷の治療や壊死した足の切断を濃厚なアルコールを兵隊に飲ませていかに早く切断するかであり、足の切断はいかに素早く切断するかが医者の腕の見せどころであった。食糧事情も悪く、マラリアで倒れる兵隊が多くなり、キニーネも消毒液を始め医薬品も不足しており困り果てたものだ。そこで遂に天皇陛下の玉音放送で日本の敗戦を知った。
 それからが大変であった。私の連隊は運良く日本へ帰れることになった。しかし、軍国主義に洗脳された兵隊たちは、日本の敗戦を認めず、帰還船が来ても敵兵と戦うと言い放った。帰国の説得は、殴り合いでもしなければ兵隊は乗船しなかった。オーストラリア兵の奇襲も激しくなり、もう一度、生きて日本へ帰ろうと説得に必死であった。「さらば、ラバウルよ!」と皆は大声で泣き叫んだ。
 船は日本へ急いだ。用足しは例の船底の丸太二本であった。戦争に負けて帰るほど危険は多く、海へ足を滑らしたら、もうその兵隊は顧みられなかった。
兵隊たちと泥と血と汗の触れ合い、飢餓に苦しむ毎日を思い出すと涙が出て止まらなかった。もう生きて、祖国日本へ帰れる日はないと、私も兵隊たちも思っていた。戦争に負けたことにより、祖国は今、どんな状態か、想像もしていなかった。長い航海の末、再び日本の土地を踏み、半壊の病院を元に戻し、診療に忙殺される日々がまたやってきた。
 平和になった今でも帰還兵と当時の苦労を話し合うし、帰還誌や兵隊の手紙が多く配達されるが、診療に追われ、もう一度現地で、戦死した兵隊の御霊を拝み、遺留品があればどんなものでも祖国へ持って帰ろうというグループもたが、医師とは悲しいもので、郷里での仕事に忙殺され、心を痛め断った。
戦後生まれの諸君、男同士の友情は戦地を生き抜いてきた者同士しか分からぬものだ。こんなことを言う私もまだ脳の半分を軍国主義が染めているのだ。戦後生まれの平和主義者にはなかなかなれないものだ。


岐阜県大垣市の大橋医院は、高血圧症、糖尿病、や動脈硬化症に全力を尽くします。

投稿者: 大橋医院