2013.07.03更新

「黄色いスーツの老父」
大橋信昭

その黄色いスーツをいつも、おしゃれに着こなして、その町の人気者でいつも笑顔の老父と診察室でお逢いしたのは、お盆も近い太陽が西にやっと怒りながら眠りにつく頃であった。「どうされたのですか?」と問うと、「最近咳がひどくてね、一か月前からですよ。食欲もない。」付き添いの奥さんが「先生、主人は6kgも体重が減ったのですよ」と、心配そうに私を睨んだ。私は、初診患者として打聴診は行い、「胸部レントゲンを撮影させてください」と了解を得、右肺の大きな腫瘍と遭遇し、顔色を変えないように努力した。
「右肺に腫瘍がありますね。良性か悪性か、中核病院の呼吸器の専門家に診察を依頼したいのですが?」老人と奥さんは素直に私の紹介状をもち、しばらく中核病院の抗癌治療でお逢いすることはなかった。最近は良性腫瘍といっても、告知に近く、覚悟を決めていたようであった。それから2ヶ月後、当院に、黄色いスーツの老人は姿を現した。「いや、降参しました。抗癌剤はとても辛く、治癒率100%ではありません。私には無駄な治療のように思えます。先生が紹介してくれた専門医には、はっきりと治療を断りました。その後、勉強をしましてね、玄米療法と樹木の気を吸いながら、元気でいます。」「なるほどね、あなたの人生ですから、右肺の腫瘍の摘出手術と化学療法までして、重大な決心をなさいましたね。しかし、胸部レントゲン一枚撮らしてもらえませんか?」老人は快く承諾した。
胸部レントゲンをよく診てみると確かに摘出した右肺は綺麗になっているが、左肺にも手掌大の腫瘍を観察できた。電子画像だから、レントゲン画像はすぐに私とその黄色いスーツの老人の前に現れた。私は左の新たな腫瘍を睨んでいた。老人にも左肺の異常がわかったらしい。すると、老人は、「私は今、民間療法を勉強しており、今後無駄な医学的診察は止めてもらいたい。」と不愉快な顔をして診察室を去った。随分、お逢いできなかった。2週間後、黄色いスーツの老人は現れ、「咳がひどいからお薬をください。レントゲン撮影は止めてください。」と、その後、何回も現れ、咳止めのみを請求し、すぐに帰宅した。
しかし、このままではいけない。家族と話し合いたく、電話をして診察室に来てもらった。奥さんと娘さんが訪れ、娘さんが看護師であることを知った。例のレントゲン写真を見せ、右肺の癌を摘出しながら左に癌が再び現れたこと、痩せが目立つことを述べた。「おそらく癌は全身に転移しているかもしれません。」ご家族はやはり食欲も減退し、咳を時々激しくし、苦しそうなのだが、医療を拒否しているそうだ。「お家で最後まで、私に診させてもらえませんか?住み慣れた家で、私が訪問看護ステーションや介護スタッフとチームを作り、痛みの軽減を中心に治療計画を作らせてください。」
医療従事者が娘さんなので在宅で尊厳死をすることに理解をするのに時間はかからなかった。担当者会議がご自宅で行なわれた。私、ご家族、訪問看護師、ケアマネージャーによる今後の在宅治療計画である。最初はご本人が拒否していたが、我々をご自宅に迎え入れることにお許しが出た。
痛みはご自宅ではあまりなく、終始昔話に花が咲いた。趣味が歴史研究で蔵書は、本格的な文献的な考察本であった。
お孫さんが絵を書くのが趣味で風景画やおじいさんの肖像画があった。その絵がおじいさんの一番のお気に入りである。時間は、日々は流れ、おじいさんはいつの間にか昏睡になった。何も食べないし何も喋れない。在宅酸素だけは施行した。奥さんと娘さんはおじいさんの世話に夢中であった。ほんのわずかの水を口に含ませるだけであった。「奥さん、娘さん、よろしいですね。好きな部屋で拘束もなく、最後まで歴史の蔵書に目を通していたし、お孫さんとの触れ合いはよかったですね。」家族の反対は無かった。

ある秋を感じ始める、ひんやりとした夜におじいさんは息を引き取った。不思議に、奥さんも娘さんも泣いていなかった。お通夜に出席した。「奥さん、娘さん、頑張ってよ。」奥さんも娘さんも悲しむどころかを在宅の期間の感謝を私に述べ、これからの夢を語っていた。泣き顔、キリッとした顔、笑い顔を順番に見て取れた。そしてお棺の中のおじいさんを見させてもらったが黄色いスーツで立派に着飾り、笑っていた。何も死ぬときは病院や介護施設と決めてはいけない。住み慣れた家で、自由に、愛し合った妻と、可愛い娘さんとお孫さんと抱き合いながら、笑顔で尊厳死できるのである。

投稿者: 大橋医院